聖竜妃が夕暮れに見たものは
昔、大きくなれば好きな人のお嫁さんになれると言ってくれた人がいた。それは本当のことで、素敵な名前までもらって、魔王様に祝福されて、マナは聖竜妃になった。
マナは、旦那様のバアルと言葉を交わせない。けれどバアルはとても観察眼の鋭い人間で、なんだかんだマナの言いたいことをわかってくれるし、大事にして可愛がってくれる。
そのバアルにはたくさんお嫁さんがいる。後宮という制度らしい。
偉大な古代の竜であるマナは「しもじものこと」など気にしない。
ただし、それはたったひとりをのぞいての話だ。
夕暮れ時。
アシュメイルの土地が燃えるように赤く染まる時間、お気に入りの水場にさした影に、むっとマナは顔をあげた。
ここにマナの許しなく入ってきてもいいのは、旦那様と魔王様だけと決めている。威嚇するように喉を鳴らすと、はっとサンダルを履いた足が止まった。
「も、申し訳ございません。気づかずに……」
初めて自分がいる場所に気づいたという顔で、この世界で一番気に食わない女が立っていた。
ロクサネ、という名前の人間の女だ。
聖なる力も持ってない。魔力ももちろんない。マナがちょっと本気で尻尾で振り払えばすぐに死ぬだろう。
でも、魔王様に人をむやみに傷つけてはいけないと言われているし、暴力的な女の子なんて旦那様に嫌われてしまう。だから我慢している――というわけでも、ないのだが。
とにかく気に入らないのでにらみつけたのだが、らしくなくロクサネはぼうっとしているようだった。いつもの覇気がないことに気づいて、ちょっと不気味になった。そういえば目の下にうっすら、隈がある気がする。
バアルの看病で疲れているのだろうか。
先日大きな戦いがあって、バアルは無事帰ってきたけれど、過労で倒れてしまった。だが「サーラもおりますし大丈夫ですよ」とマナに言い聞かせたのは他でもないこの女である。看病していたのもこの女である。バアルの寝室とつながっている寝床からずっと観察していたので、間違いない。
魔王様の国と交渉しているときは思わずマナが尻尾を丸めるほどの怒気を見せていたので、てっきり元気だと思っていたのだが――でもそういえば、バアルが帰ってきてから少し様子がおかしかった気がする。
そうだ、神の娘と将軍とかいう男とバアルが三人でいるとき、今みたいにぼうっとしていた。絶対にロクサネより先にバアルにかまってもらおうと待ち構えていたから、マナはよく知っているのだ。
この女がぼうっとしているなんて珍しい。この国で誰よりもマナに敬意を払っているこの女が、さっさと立ち去らず、突っ立っていること自体、おかしい。
どうしたのか、と問いかけるかわりに長い髭をちょいちょいと動かして、ロクサネの頬をくすぐってみた。目を丸くしたロクサネがやっと正気に返ったような顔をする。
「お優しいのですね」
当然である。
胸を張ると、ロクサネはその場に腰をおろした。やっぱり、らしくない。
「……わたくしも、そんなふうに優しくなれればいいのですが」
なんだか意味がわからないことを言い出した。目をぱちぱちさせると、ロクサネが苦笑いまじりにこちらを向く。
「聖竜妃様は、バアル様がサーラ様を好いてらっしゃったことを知っておられますか?」
知っている。散々愚痴で聞いた。
頷くと、ロクサネがそうですか、と返す。
「では、聖竜妃様は器が大きくてらっしゃるのですね……わたくしは、駄目です。駄目だとわかっているのに駄目です。同じ失敗はすまいと思うのに……あの三人を見ているとどうしても、余計なことを思い出してしまうんです。……捨てられたことを」
何がなんだかわからずに首をひねっている間にも、ロクサネの話は続く。
この国の人間はマナに一方的に話を聞かせなければ死んでしまう習性でもあるのだろうか。
「バアル様に正妃にしていただけただけで満足すべきで、後宮がなんのためにあるのかも理解しています。なのに、嫌だと思うようになってしまいました。正妃失格です。このまま自分の務めも果たせず、嫉妬に狂った馬鹿な女に逆戻りしてしまうのではと思うと、怖くて……」
膝を抱えてロクサネが顔を伏せてしまう。マナはおろおろした。
「……失態をしでかす前に、実家に戻ったほうがいいかもしれません……」
「ウギャッ!?」
何の話だかさっぱりわからないが、焦った。そんなことになったらバアルが悲しむに決まっている。
だってバアルはこの女が好きなのだ。マナはいつだって相談されている。
どうしよう。放っておいたらまずいんじゃないだろうかと思ったところで、もうひとつの気配に気づいて顔をあげる。
同時に、マナに向けてロクサネが泣き笑いのような顔を浮かべた。
「みっともないと笑ってくださってかまいません。……夫に恋をするなんて、本当はなんの罪もないことなのに、わたくしは、そんなことさえうまくできない」
「……」
「だってそうでしょう。バアル様は、わたくし以外の女性を大勢妻に持ち、そして子をなさねばなりません。それに耐えられないならば、正妃から退くべきです。そのような女、バアル様の妻にふさわしくないのです。わかっております」
「……」
「でもわたくし、それもできないのです。おそばを離れたくない。あの方の妻でいたい。そのうえ、たったひとりの妻になれないか、そう考えてしまうのです。そんな自分が恐ろしいのです。あの方を愛して愛される、その方法ばかり、考えてしまって」
「あー……あの、ロクサネ」
泣き出さんばかりに悲痛な顔で訴えていたロクサネがすさまじい速さで振り向く。
そこにはマナの大好きな旦那様が、両手で顔を覆って立っていた。
「……ちょっと、その辺でいったん止めてくれ。余の心臓が止まる」
「……。いつから」
「いや、その、盗み聞きをするつもりはなかったのだ。ただマナの元に誰かが侵入したので、マナが機嫌を損ねてはいないかと様子を見にきたら……その……」
「……。首をつります」
はっとバアルが顔をあげた。マナも全身の毛を逆立てる。
ロクサネは淡々と言った。
「今までお世話になりました」
「いや待てちょっと待て! 二度と言わすまいと思っていた台詞をあっさり言うな! ってどこへ行く、マナ止めろ!」
ロクサネはもはやバアルの話も耳に入っていない様子だ。よりによってマナの水場で入水自殺をはかろうと湖に入ろうとするので、慌てて髭で腰をつかみ、引き戻す。
だがその顔は完全にうつろになっていた。
「後生です。殺してください……」
「なんでそうなるのだお前は! 余の話を聞け、順番に説明するぞ! まず、後宮は元に戻さぬ。少なくとも余の代は、だが。下級妃と上級妃は実家へ帰すか、希望者はレヴィというエルメイアの地方へ花嫁候補として出奔させる」
ぱちりといきなりロクサネの目に正気が戻った。
「……レヴィとは、あの魔法大国ですか。エルメイアの……」
「そうだ。聖具の知識が欲しいらしい。あっちはクロードのせいで魔具の開発が遅れているらしくてな。この間お前と一緒に偽証した上級妃に、詳しい者がいただろう。話を持ちかけたら承諾した。このまま後宮でくすぶっているより楽しそうだと」
「ですが、それでもまだ何人かは残ります。実家に帰りづらい者もいるでしょう」
「マナの世話をする巫女として雇い直す。それでもまだ残るだろうし、優秀な者は妃という地位に置くことで逆に引き立てることも考えている。そのあたりは国のためだ。だが、余の子どもを産むのはお前だけだ」
完全に正気に戻ったのか、ロクサネが眉をつりあげ、バアルに向かって歩いて行く。
「いけません。あなたの――聖王の血は残さねば、アシュメイルが」
「お前、知らぬわけではあるまい。聖王の力を最も引き継ぎやすいのは、聖王の寵愛を受けた妃が生む子だ。もっと正確に言うなら、愛し合った聖王夫妻の子どもだ」
思いもしなかった、というロクサネの顔は間抜けだった。
嬉しそうなバアルの顔に、マナも嬉しくなる。
「余の両親はそれはもう、仲がよかったぞ。あれだ、らぶらぶとか言うのか」
「らぶらぶ……」
「案ずるな。――お前は間違いなく、次の聖王になる子を産む。さっきのはそういう話なのだろう?」
バアルに額を合わせられても、ロクサネはまだ呆然としている。
にぶい女だな、とマナは鼻を鳴らした。
「まったく、あと数年はかかる気がしておったぞ。お前はちっとも余の話を聞かんし」
「……あの……つまり、わたくしは……バアル様は……」
「今夜、お前の寝所を訪ねてもよいか」
バアルの熱っぽい瞳はマナを見ていない。でもマナはちっとも気にならない。
気になるのはロクサネのほうだ。ここでバアルを悲しませたら湖に落としてやるとにらんでみる。
ロクサネは、何か言おうとして真っ赤になり、瞳を潤ませたあとで、小さく、でもはっきりと頷いた。破顔したバアルがロクサネと唇を重ねる。
まったく人間は面倒だな、と思った。好きな人と好きなように好きでいればいいのに、ややこしい。
でもバアルとロクサネがしていることは見てはいけない気がして、マナはそっと目をそらす。
見あげた先には、雲一つない夕空。
きっと今夜は星がよく見えるだろうな、と思った。




