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予定時間を一秒すぎた瞬間に、バアルは立ちあがった。
「遅刻だな。余に待つ義理はない。失礼させていただこう」
給仕をしていた女と、扉を守る衛士がこちらを見た。焦点の合っていない目だ。生きた人間ではない。聖石で動いている、人形がわりの聖具だ。
縦に長細い部屋は、しんとして寒々しい。世界に名をはせるハウゼル女王国の宮殿だとは思えないほどだ。生きているのは自分だけではないのかと錯覚する。
だがこれを通じて相手には聞こえているだろう。
神の娘とその夫が消えた件について、どう取引をするかと思って聖王自ら召喚に応じてやったのだが、この分だとろくなことではない。いざとなったらアレスが隠し持っていたあの日記を切り札に交渉するつもりだったのだが、あてがはずれたようだ。
「帰りが遅くなると妻が心配するのでな。見送りはいらぬ、自分で帰――」
椅子から離れようとした瞬間、そこから光の触手が伸びた。
瞠目した瞬間にそれに囚われて、椅子に引き戻される。古典的な拘束魔法だ。本来ならまたたきひとつで崩せるはずの――だが、破れない。
「オ座リ、下サイ」
給仕をしていた女が、耳障りな発音でそう言った。
「オ見セシタイ、モノガ、アリマス」
そう言って衛士が今度はバアルの前に、姿見を持ってきた。
だがそこに映っているのは、自分ではない。もっとまがまがしいもの。
見たこともない魔物なのに、どうして見覚えがあると思ったのか。怒りと同時に、冷めた感情が胸に広がる。あぶないとずっと思っていた。
(馬鹿が。だから耳飾りを、大事に扱えと)
だが、あれではもう、自分がやった耳飾りもつけられまい。
「終ワルマデ、ゴ着席ヲ」
「……むしろ、この展開は余を解放すべきではないのか?」
「アナタト、魔王ハ、友人デショウ」
友人。そうか、友人か。
はっと自嘲する。
「それで見誤るほど、腑抜けておらぬわ」
鏡に映るのは、魔王だけではない。そこに向かって攻撃する――神剣の一斉攻撃。
あんなものを国に向けられたら、バアルの結界でもいつまでもつか。
「ヨク、オ考エ、クダサイ。アシュメイル王国ノ、コレカラヲ」
「……言われるまでもない」
背中から椅子に腰をかけて、バアルは鏡を見る。観客でいるのが先方の望みのようだ。腹立たしいが、この拘束魔法をとくのはたやすくない。そもそもとかれたところで、何ができるのか。あの神剣の攻撃は、自分を含めた世界への抑止力だ。
(なんとかしてみせろ。魔王のしもべども――アイリーン)
別荘に狙っていた美しい魔の城が破壊されていく。その光景を眺めながら、ゆっくり拳を握りしめた。
■
古城と皇城を結んで南に三角形を作った場所に、古びた砦がある。
三十年ほど前は監視と防衛に使われていたのだが、魔王が森に引きこもってしまってからはその役割を奪われてしまい、逆に不戦条約の観点から魔王を刺激しないよう、廃棄された。
古城と魔王の森が一望できる砦だ。
使われるくらいなら使うほうがいいと、ドニに新しく設計させていた。それがこんな形で使うことになるのだから、人生はわからない。
「首尾はいかがですか」
音もなく現れた女に、アイザックは目を細める。
まだ花嫁衣装を着たままだ。赤い――あれはキースの血の色だろうか。この女によると、キースは死ぬべき人間で、魔王様を魔物にする鍵のひとつだったはずだ。
「予定通り。上々だ」
「そうですか。ダニス家の皆様はお元気ですよ」
「そりゃどうも。そっちは? 聖王様は封じこめたんだろうな」
「ええ。セレナの力を使えばたやすいことです」
あ、そうと聞き流しながら、内心で嘆息する。あの女は本当に危険だ。
「でも、魔王だけではなく、魔物ごと一網打尽にしようだなんて、よく考えましたね」
嫌み――ではないのだろう。この女の口調は感情が読み取りづらい。
「聖剣以上の名声が欲しいなら、必要だろ。しかもこれは人間も有効な武器だ。小出しにして中途半端なもん見せても、敵を増やすだけだ」
少しでも高台にいる人間なら、この光景が見えているはずだ。
すでにハウゼル女王国が神剣を携えて魔王討伐に乗り出したという情報も飛び交っているだろう。建国祭で他国の賓客も集まっている。
魔王を圧倒するこの力は、人間への脅威にもなる。
これだけの力を持つハウゼル女王国にさからおうとする国は、現れまい。
「ハウゼル女王国がずっとこれだけの武力を隠してたのも、今日のためなんだろ。けちけちせずに派手に使おうぜ、お披露目ってやつだ」
「……。そう、そうですね」
ほんの少し、女の口調に感情がまざった。それが嘲笑なのか喜びなのか、読み切れない。
「ですが、サーラ様とセレナ様は引かせます。もう神剣だけで勝負がつくでしょう。使った神剣を回収して、補充する必要性を感じません」
「いや、それはまだだ。魔物の反撃にそなえないと」
「反撃? 古城を攻撃されているのに、そんなことが」
「あれ見てもそういえるなら、どーぞ」
神剣をどうにかしなければ消耗戦になる。そう考えるはずだ。
考えるよう、教えた。
弱い魔物は偵察と連絡係、情報を集めろ。策を立てろ。敵の情報を見極めて、どこを叩かなければならないか、しかけるときは不意打ちで、最大の火力で一気に押しつぶせ。
(不意打ちができてねーのはまあ、しょうがないか)
だが正解だ。見事に策にもひっかかってくれたが。
「予定通り、各自散れ。おい、俺とあんたは魔王様のところだ。転移させてくれ」
「転移のための聖石はわたしたでしょう。それは?」
「うるさいな、こっちはただの人間なんだよ。古城から逃げてくるためにもう使った。いいから、一緒にこいって。魔王様にとどめを刺すぞ」
顔をヴェールで半分以上隠したまま、女は静かに頷き返した。
「古城への攻撃はやめるなよ。あそこに弱い魔物達は隠れてるはずだ。攻撃し続ける限り、魔王様は動かない」
「……では、こちらに向かってくる魔物達はなんですか?」
「そら消耗戦しかけられてるって気づいたんだろ。くるに決まってる」
まっすぐに向かってくるのは魔王様ご自慢の空軍。敬礼を教えてやった相手達だ。
さあこいと、その影をまっすぐ見つめる。
「アイザック、見ツケタ!」
「捕ラエヨ、ゴーモン、ゴーモン! 魔王様スキスキダンスノ刑ニ処ス!」
「攻撃、開始!」
帰国したと見せかけて国境で待機していた女王候補生達が、飛び交う烏たちがばらまくあやしげな粉末にくしゃみと涙の阿鼻叫喚に陥る。聖なる力は粉末を払うのは不向きだ。
「アイザック、簀巻キノ刑!」
「ゴーモン、ゴーモン!」
一発逆転狙いなら、策を立てている指揮官を殺す。狙いも的確だ。
おーこわと思いながらアイザックは砦の中にすぐさま引っこみ、そこからぽかんとしているらしい血染めの花嫁に一応、声をかけた。
「おい、そこいると魔王様の次に強い魔物がきて死ぬぞ」
「よくも裏切ったな、人間!」
あ、もうきたとアイザックは首を引っこめる。同時に塔の上が焼き払われた。声からしてベルゼビュートだ。
「出てこい! ――あの女が泣いてるぞ!」
しかも心理戦もしかけてくるとはずいぶん成長した。
「これで、菓子を作ってくれなくなったらどうする!」
心理戦をしかけてきたわけではないようだった。呆れたアイザックの前に、ふっと転移してきた女が現れる。
手を出したのは、転移するということだろう。頷いて、アイザックはその手を取る。
女の右手が内側から輝いた。何度も見ている、奇跡の発露だ。
(ゼームスはセレナ達のほうに行ったな。うまくやりすごせよ、あの女ども。――九回目)
空に響く音を数えながら、アイザックは目を閉じる。
そして開くともう、そこには魔王がいた。古城のてっぺんから見下ろす魔王は、火を噴くがごとく魔力を吐きまくっている。
「……これマジで斃そうとか、俺、正気じゃねーなあ」
「なんですか。今更、作戦中止だとでも?」
「まさか」
「クロード様!」
さすが、くるのが予想より早い。まあでも同じことだ。
こちらを見て両目を見開いたアイリーンに、アイザックは苦笑した。
(さあ、勝負だ)
引き金を引く。きたるべきときに、すべてをかけて。




