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「あなた……この間の、フェンリルの子供……!?」
最後にフェンリルのふさふさの尻尾が出てきたところで、影がアイリーンの形に戻り割れ目も消えた。
穴から這い出たフェンリルはくるんと空中で器用に回転し、着地する。
「君の影を、魔物達の出入り口にしておく。こうしておけば、魔物達が君の背後からいつでも勝手に出てこれるようになる」
何気なくとんでもないことをクロードが言った。
「お待ちになって、わたくしの影になんてことなさいますの」
「だがこれで君がどこを動き回ろうと魔物達も納得する」
(……つまり、監視ということ? この子が)
アイリーンは出てきたフェンリルの子供を見つめる。
怪我は見当たらず、薄汚れていた毛並みもつやつやだ。好奇心一杯のきらきらした小さな目が元気なことを物語っていた。よかったと内心で安堵して、眉をひそめた。
「あなた、そんなところに立ってはだめです。下りなさい」
テーブルの上に立ったフェンリルの子が目をまたたく。
仕方なく、しゃがんでフェンリルの子供と目線の高さを合わせ、床を指さして繰り返した。
「行儀が悪いから下りなさい」
指さしで理解したらしいフェンリルの子は、ぴょんとテーブルの上から下りる。
そしてどうだと言わんばかりに胸を張った。その様子に口元がほころぶ。
「あなたは賢い子ね。見込みがありそうだわ」
「きゅう」
「もしこの間のことを恩に感じているのなら必要なくってよ。あれは人間達の方が明らかにクズだったわ。本当に情けないったら。……あなたは本当にいい子だったわね」
フェンリルの子が首を傾けたあと、撫でろと言わんばかりにしゃがんだアイリーンの胸に頭を押しつけてきた。苦笑いしたアイリーンは、その頭を撫でてやる。
それで満足したのか、フェンリルの子がぱっと駆け出した。応接間の扉の前に立ち、アイリーンに振り返る。まばたいていると、フェンリルの子の横にベルゼビュートが並んだ。
それでアイリーンは自分が何をしようとしていたかを思い出す。
「あなたも城の中を案内してくださるの?」
「助けてもらった礼がしたいんだそうだ。連れて行ってやってくれ」
クロードの言葉に、フェンリルの子とベルゼビュートをそれぞれ見比べる。ベルゼビュートは鼻を鳴らした。
「王のご命令だ。行くぞ、娘。いつまで待たせる」
「……。二匹のげぼ……いえ、騎士ですわね。素敵」
「きゅいっ」
「き、騎士、だと」
フェンリルの子がぴんと大きな耳を立て、ベルゼビュートがうろうろ視線をさまよわせる。
やや離れた場所からキースが声を上げた。
「ベルさぁん、その前にアイリーン様はこう言いかけましたからね。げぼ――」
「さあベルゼビュート様。こういう時は扉を開けてくださいな。騎士の心得です」
「王が通られる場合は扉が勝手に開くが……人間は面倒だな」
「わたくしはか弱き淑女でしてよ。騎士なら先に出て危険がないか確かめるべきでしょう」
「そういうものか……?」
「そういうものです。第一、フェンリルの子では扉を開けませんもの。魔王様の右腕たるあなたが手本をみせなければ!」
「なるほど!」
「うわあ、完全に掌のうえですねえ。クロード様……いいんです?」
「楽しんでいるならかまわない」
無事クロードのお墨付きをもらったアイリーンは、ベルゼビュートが開いた扉の外へ出た。
「あなたは扉を閉められる?」
目を輝かせたフェンリルの子が前脚で勢いよく扉を蹴る。ばあんと派手な音を立てて扉が閉まった。力加減がまだきかないらしい。
「……。今度は静かに閉められるようにしましょうね」
「きゅいっ」
「いくぞ娘。王に気に入られたからと言って調子にのるな」
「わたくしがクロード様に気に入られた? 影から魔物に監視させておいて?」
「魔物達がお前に興味を持ったから、会いたい連中は会いに行けという許可だ。そしてそれはすなわち、王がお前に興味を持ったということでもある」
廊下を数歩進んだところで、ベルゼビュートが振り向く。
「王はお前の名前を覚えただろう」
そういえば、さっき初めて名前を呼ばれた気がする。
まったく気づいていなかったのに、意識するとじんわり頰が熱くなった。子供の頃、父親や兄達や、セドリック――尊敬する誰かが振り向いてくれた時みたいに。
それを見たベルゼビュートが怪訝な顔をする。
「変な女だ。あれだけ厚顔無恥に振る舞うくせに、そんなことで恥じらうのか」
「なっ……!」
「まあどうだっていい。さあ頭を垂れるがいい、我が王の部屋だ!」
自慢したくて堪らないのだろう、うきうきした顔でベルゼビュートが両開きの扉を押す。
(……。一番高位な人物の部屋の位置を、あっさりと教えてどうするの)
おいおい教育せねばなるまいと、一気に冷静になったアイリーンは溜め息をついた。




