16
愛されるルートを目指していたのに、いじめられるルートに入ったのだろうか。
(いえ落ち着いて。そんなルートなかったわ。記憶は全部戻ってないけど、絶対ない)
真顔で両腕を組んで、アイリーンはオーブンの前にいた。その頭には三角巾がまかれ、組んだ両手にはお気に入りのミトンがはめられている。
(そもそもクロード様ってそういうキャラだったかしら。確かに魔王という設定だけを見ればドSはありがちだけれど、感情が乏しい物静かで孤独感漂う悲哀キャラだったような)
――君を、泣かせてみたくなった。
「ふぎゃあああっ!」
「お、お嬢様? どうかなさいましたか」
「い、いえ、なんでもないわ……オーブンを見ていたら叫びたくなってしまって」
ぱたぱた赤い顔を手で仰ぎながら、厨房で作業している使用人を誤魔化す。使用人は不可解そうな顔をしていたが、かかわりたくないのか引き下がってくれた。
噴き出た額の汗をぬぐいながら、深呼吸を繰り返す。
(まずは冷静に分析を……そもそも美形以外許されない台詞だわ、しまったクロード様は美形だった!)
だからあんな台詞がとてつもなく淫靡に聞こえて、免疫のない自分の動悸がひどいことになるのだ。
決してときめいているわけではない。というか、ときめいたらまずい。
「まさかの倒錯SMルートはごめんだわ……メリバもさけたい……!」
ぶつぶつ言いながら、うまく焼けたアップルパイを取り出す。今日の差し入れだ。
冷ましている間に出かける支度をした方がよかろうと、アイリーンは使用人にあとを任せて厨房から出る。途中で外出の旨を伝えると、快く承諾された。
(『皇太子の婚約者』じゃなくなると、結構気楽よね)
今までは外出先一つにも気をつかった。自分に何かあれば、それはすなわちセドリックの疵になる。茶会の行き先も、贔屓の店も『皇太子の婚約者として恥ずかしくない』判断をしなければならない。
それが誇りではあったけれど、解放されてみると気楽だ。
「お嬢様、お出かけですか」
「ええ、お父様の言いつけでね。三層へ行くから、馬車は結構よ」
それだけで優秀な使用人達は用件を聞かなかった。
魔王の森という本当の行き先を隠し、着替えをすませたアイリーンは、外套を羽織って外へ出る。
今日もいい天気だ。
しかし、日中は慎重に行き先を誤魔化さなければならない。
「おい、そこの!」
一層から三層まで下り、舗装された道を歩いて作戦を立てていたアイリーンは、聞き覚えのある声に足を止める。
「あら、ジャスパー。ご機嫌よう」
「やっぱそうだ、アイリーンお嬢様だよな。婚約破棄って本当か?」
よれた上着で気安く手を挙げる顔なじみの記者に、アイリーンは微笑む。
「本当よ。ただし取材はお断りするわ」
「ああ、いいってそういうんじゃねえよ。うちはお嬢様に借りがあるし、何より俺は正義の味方なんでね」
愛用の万年筆をくるりと回すジャスパーは、人好きがする顔をにっと浮かべる。
アイリーンは肩を竦めた。
「あなた、まだそんなこと言ってるの。三十すぎにもなって」
「いーんだよ、そもそもお嬢様の悪口書いたって、平民向けの記事は売れねぇよ。お貴族向けの中身のない記事ならともかくな。しっかし、下手うったなあ。あんだけセドリック皇子に尽くしてたのに――って」
アイリーンの冷めた眼差しを向けられたジャスパーは、失言を感じ取ったのか口を手でふさいだ。癇には障るが、気は回るし危機回避能力は高い男なのだ。
ジャスパー・バリエ。第三層の商業区画にある小さな新聞社の社長で、貴族間の癒着や政治的汚職を追う気骨のある男だ。彼の新聞は平民向けに作成されており、しっかりとした裏付けのある記事と公平な視点から評判が高い。
一度、アイリーンは貴族議員の汚職を追うこの男と、共同戦線を張ったことがあった。貴族議員がセドリックの名前を使っていたからだ。アイリーンはセドリックに火の粉が降りかからないよう、その事件を追っていたジャスパーに情報を流す代わりにセドリックが醜聞に巻き込まれないよう手を打った。
それが縁で、ジャスパーはたまに接触してきては情報を落としてくれる。アイリーンはそれをそっと宰相である父親に耳打ちすることもあったし、逆にジャスパーに父親から知り得た情報を回してやったこともあった。要は仲介役だ。
(確かジャスパーはゲームに出てきてないキャラだから、安全だと思うけれど)
ゲームの関係者にかかわるのは最小限にしたい。念のため、さぐりを入れる。
「……そう言うジャスパーはリリア様をご存知?」
「あ? ああ、セドリック様の恋人か。直接には知らねぇよ。あんま興味ねぇし」
その答えにほっとした。どうも疑心暗鬼になっているらしい。頭を切り替える。
「そう。なら、丁度よかったわ。あなたに用があるのだけれど」
「ちょい待ち。申し訳ないが俺が先だ。頼まれててな。お嬢様、土木業とか運送業の会社起ち上げようとしてただろう。公共じゃ間に合わないって」
「それなら、めでたく公共事業になったと聞いたわ。わたくしはもう関知できなくてよ」
「実は、お嬢様が雇った連中がクビ切られちまったって泣きついてきてよ」
がりがりと首の後ろをかきながら、ジャスパーが続ける。
「お嬢様は庶民にも手の届く衛生面に役立つもんを安く開発して、その販路の運送と通路の開発で土木関係の雇用を増やして金を回す――って考えだっただろ? 第五層でその日暮らしの奴らに、少しでも定期収入が入るように。そしたら国も税収が増えて、豊かになれる」
「ええ」
「だから俺も求人広告出したりして協力したんだけどなあ。セドリック皇子が原産地を王家所有の土地に限るから運送も通路も必要ないって、土木関係の契約を切っちまったんだよ。まだほとんどできてなかったから、報酬がぱあだ」
「違約金はちゃんと払われたの?」
詰め寄ったアイリーンに、ジャスパーは首を振る。
「いいや、着工費すら払わないって言い放ったらしい。セドリック様が考えた事業には使わないからってな。……ルドルフ様が何とか出来高分だけでもって予算作ってくれたらしいけど、それも支払いは当分先でよ」
「――お父様が……」
父親がセドリックを切り捨てた理由が分かった。
仮にも皇太子ともあろう人物が、これはいただけない。
「でかい長期の仕事だったからな。みんな他の仕事入れてねぇし、次のアテがなくて困ってんだよ。なんかいいアテがねぇか。貴族様お得意の施しでもいいからさ」
「馬鹿言わないで、それじゃ経済は回らないしいずれ国の未来を食いつぶすわ」
きっぱり切って捨てると、ジャスパーは何故だか目を細めた。
「お嬢様のそういうところ好きだぜぇ、俺」
「ちゃんと何か正当な報酬が見こめる仕事を用意しないと――あ」
ふと思いついたことに、唇が弧を描いた。