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どうしてこうなったのだろう――この国にきて最初にそう思った日が遠い昔のようだ。
その黒髪がゆれ靴の踵が鳴るだけで、ほうと皆が感嘆の息を吐く。どの角度から見ても優雅な姿勢と、鍛えられた黄金律をかたどる長躯。新しい護衛の姿に皆が道を自然とあけ、羨望の眼差しがあとに続く正妃に集中する。
正妃に将軍アレスが選んだ護衛がつけられた。監視だと誰もが最初そう感じたはずだ。だが今、それを憐れんだり嘲笑したりする者はどこにもいないだろう。
ただただ羨ましい。そういう空気を肌で感じる。
それもこれもすべて寡黙で美しく、誠実で優しく、強くて礼儀正しく、正妃にしか微笑まないと噂の護衛の影響だ。
残念なのはクロという名前だけだろう。
「正妃様、お手を」
麗しい呼びかけと一緒に手を差し出されたロクサネが、その手を借りて東屋の段差を登り、席に腰を下ろす。一枚の絵画のように美しい光景だ。
遠くの物陰からそれを見ていたアイリーンはぎりっと奥歯を噛みしめた。
(様! 様付け! 羨ましい……っわたくしだってクロード様に傅かれてみたい!)
あんな騎士にお姫様のように扱われたら――そんな乙女の夢を見事にクロ、もといクロードは体現していた。
一日目、ロクサネを遠回しに侮辱した下級妃に剣をつきつけ、謝罪を要求した。
二日目、再度、魔竜の仕業かと思われる襲撃があったが難なくそれを退け、ロクサネを守り抜いた。
三日目、ロクサネの前にひざまずき、靴を履かせていた。
四日目、転んでも聖王に無視されたロクサネを横抱きにして介抱した――今やロクサネは監視されているのではなく、皆が羨む騎士に護られている正妃である。
(どうしてこう、無駄に完璧なのクロード様は……っ!)
羨ましい羨ましい羨ましい。
悔しさで建物の壁に爪を立てている横で、同じ顔をした男がつぶやく。
「どうしてこうなった」
「あなたの顔が弱いからでしょう……!」
「顔に強いも弱いもあるのか!? いや、余だっていけめんとかいうやつのはずだ問題ない」
「中身と振る舞いが少しもいけてないくせに図々しい」
「やめろ、あれを見ているとそうかもしれないと思い始めてしまう……!」
バアルは胸を押さえているが自業自得である。大体、こんな物陰に隠れてぎりぎりしている時点で、いけているはずがない。
「何故こんなに胸がえぐられるんだ」
「男性としての格の違いを見せつけられているからでしょう」
「だとしても、ロクサネまでどこか違って見えるのはおかしいだろう」
「女性は男性によって輝きが変わりますのよ、そんなこともご存知ないの。ロクサネ様が今までかすんで見えたとしたら、それは間違いなくあなたのせいです」
「なんだと!?」
「嘘だと思うならあの光景を見てご覧なさい!」
小鳥がさえずる東屋でお茶を飲んでいるロクサネに、クロードがそっと本を差し出す。ほんの少しだけロクサネが柔らかく目元を細め、何か言っていた。多分、お礼を。
それを呆然とバアルが見て、つぶやく。
「……あのような顔、初めて見た」
「そうでしょうよ……!」
そしてクロードはこれを見せつけるためにやっているのだ。
つまりアイリーンに協力してくれている。クロードからの愛は失われていない。わかっている。
(でも、そこまでしなくていいのではなくて!?)
あんなに近づかなくていいはずだ。あんなに優しくしなくていいはずだ。あんなに大事にしなくていいはずだ。あんなに甘い顔をしなくていいはずだ!
「――ふん、知ったことか。何故、余がロクサネを気にかけねばならぬ」
先に隣のバアルがくるりと背を向け、その場から離れた。
素っ気ない言葉を装っていたが、立ち去る歩調は荒々しい。しかも周囲に注意を払っていないのか、顔と同じ高さの木の枝に正面からぶつかって悶えていた。
気にしているのならそれは進歩だ。そうは思う。だがしかし。
「どうしてわたくしまで聖王と同じ気持ちにならなければならないの、レイチェル!」
「クロード様を怒らせたからです」
自分の宮殿に戻るなり不満を爆発させたアイリーンに、優秀な侍女らしく、きっぱりとレイチェルが言い切った。
「助けにきたクロード様の労力をまったく省みない言い方はさけるべきでした」
「……それはそうかもしれないけれど」
「アイリーン様。こういうことは先に頭にきた方が負けです」
「それはそうかもしれないけど! でもわたくしクロード様の妻なのよ!」
「ですがクロード様には言い訳にしか聞こえません」
「ねえアイリーン様! 魔王様に捨てられたってホント――」
扉を開けるなり逆鱗に触れたリリアに向け、果物を切り分けるための小さなナイフを投げつけ黙らせたあと、胸ぐらをつかんだ。
「それ以上言ってご覧なさい。殺すわ」
「やだ、本気で怒ってるアイリーン様もかっこいい」
「やめなさいよ、時間ないんだから」
呆れたセレナが扉に突き刺さったナイフを抜き、内鍵を閉める。そしてこちらを振り向き、上から笑った。
「離婚おめでとう」
「アイリーン様、こらえてください! セレナ様も報告だけしてください……!」
「あーはいはい、わかったわよ。無事サーラ様つきになったわよ。でも神剣の行方は不明」
きちんとした報告に呼吸を整えて、思考を切り替える。
「リリア様、あなた神剣の気配とか何かわからないの?」
「わかるわけないじゃない。全盛期ならともかく、神剣なんて今は壊れかけた武器なのよ?」
リリアはぽすんと絨毯に置かれたクッションの上に腰を落とした。
「でも面白いことを聞いたわ。エルメイア皇国から客人がくるって」
「……エルメイア皇国から? アイザックかしら」
「誰であろうと魔王様の罠でしょうね。というかこの国の人達、なんで魔王様に気づかないのかしら? 馬鹿なのかしら。あ、でもゲームの仕様って可能性っ――」
「ありがとうリリア様、林檎を食べていって」
林檎をまるごと押しつけてリリアの口を黙らせることに成功する。
「セレナはどう? オーギュストには会った?」
「ああ、会ったわよ。あいつ男じゃなくなったの?」
「……。もう少し別のことから気にしてあげなさい。あなたを心配してきたんでしょうに」
「心配? あの将軍に負けたって聞いたわよ。足手まといにならないか心配」
「あなたほんとにオーギュストに容赦ないわね……」
「ああそうそう、アイリーン様。魔竜が復活した直後から、サーラ様を訪ねてハウゼル女王国の連中が内密に滞在してるみたい」
林檎を食べ終えたリリアがなんでもないことのように重大なことを報告した。
「――ハウゼル女王国?」
「あの国は聖なる力を持った女性の総本山を気取ってるから、神の娘を気にするのは当然といえば当然だし、エルメイア皇国との仲介もあるから不自然ではないけど、あやしいわよね」
「……確かにそうね」
「アイリーン様、気をつけなきゃ。ハウゼル女王国の連中なら、魔王様に気づくわよ」
鋭く視線を向けると、楽しくてたまらないというようにリリアが唇をゆがめた。
「他にも気になることがあるの。魔竜は本当に聖王のところにいるのかなーって」
「……何が言いたいの?」
ゲームならばそうだったが、確認はしていない。
リリアが可愛く首をかしげる。
「どうもね、魔竜って後宮と聖王様のところにしか現れないみたいなの」
ゲームでもそうだった。
だがそれはサーラ視点で見ていた物語だからだ。現実までそうである必要はない。
「魔香が本当に使われてるなら、まるで誰かが魔竜を操ってるみたいじゃない?」
とてつもなく初歩的な話だ。舌打ちしたアイリーンは立ち上がる。
「レイチェル、バアル様のところへ行くわ。支度して」
「えっ――あの、こんな時間にそれはまずいです。クロード様に知られたらますます」
「時間がないのよ。本当に魔竜がバアル様のところにいるのか確認しないと」
夜なら魔竜の気配も濃くなる。ふふ、とリリアも意味深に笑って立ち上がった。
「何かわかったら私もまたお知らせにくるわね。じゃあ私達も戻りましょ、セレナ」
「――リリア様。あなた、本当は何か知ってるんじゃないの?」
リリアはわざとらしく目を丸くして、頬をふくらませた。
「アイリーン様ったら。何度も言わせないで。今回は味方よ」
「あなた、魔竜を意図的に誰かにとりつかせようとしていない?」
ほんの少しの瞠目。それは先ほどと違う、本物の感情だ。
魔竜は基本的にバアルを狙う。高い聖なる力を持つ人間の体を使うことによって、聖も魔も超越した力を手に入れられるからだ。
だが現実として、神の娘が目覚めただけではなくアイリーン達までいるこの状況で、魔竜が同じ人間を狙うとは限らない。
「ふふ、ふふふ」
うつむき、顔を隠してリリアが笑う。アイリーンは一歩前に出た。
「笑っていないで答えなさい。返答次第によっては」
「大丈夫、安心して。私はただ、魔竜が最終的に誰のところへ行くか察しがつくだけ」
「……なんですって?」
「考えればアイリーン様だってわかるはずよ。でも、だからこそ私は心配してないの。愛の力に勝てるわけがないんだものね。それにどうだっていいわ、魔竜なんて。もっと言っちゃえば神の娘だってあんな雑魚、どうでもいい」
一歩こちらに近づいたリリアは、下からのぞきこんでくる。
「でも、楽しんではいるの。頑張って、アイリーン様。きっともうそろそろ、エンディングに向けて加速するはずだから」




