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短編集

緋扇

 ギチリ。

 開いた扇が軋んだ音は私の骨の音に似ていた。

 ハラリ。

 開いた扇にがらはない。ただただ白い、白いばかりの扇。

 なんのための白さか。

 穢れなきその色は何に染まるべくして白くあるのか。


 沈折しずめおりの白扇をこの手に渡したのは、祖父であった。私の舞踊の師である。

 夭折した叔父の代わりに、すでに嫁した私の母から私を養女としたのだ。だから師であると同時に祖父であり、義父でもある。


 七十は越えても背筋はシャンと伸び、機敏に動く人だった。厳しく、それでいてどこかに闇がある。幼いながらに私はそれを感じ、その闇に染まるべきか染まらぬべきかを考える日々であった。

 朝から晩まで稽古をして、一日中(おも)に祖父としか顔を合わせぬ日もざらにあった。

 それでも私の舞を祖父は気に入らなかったようだ。褒めるはおろか、首を縦に動かしたことなど一度もない。せっかく迎え入れたというのに出来の悪い子供だと云いたいのか。


 手の振りが音に合わぬ。乱れている、品がない。

 安っぽい芸妓のようだと手を、背中を打ち据えられ、それでも私は痛みをこらえて舞った。


 私の舞が気に入らぬのではない。

 祖父は私が気に入らぬのだ。


 そう感じ取ったのはいつのことだっただろうか。あれは暑い夏の日。

 うだるような暑さに耐え難くなって、私は縁側で着物の襟を崩した。その着物と素肌との間にささやかながらに団扇で風を送り、汗を拭っていた。誰もおらぬと気を抜いた姿であった。


 しどけない私の様子を、いつからそこにいたのか祖父が屏風の陰から見ていた。そして、汚らわしいものを見るような薄暗い目つきで私を見下ろした。

 とっさのことに悲鳴にも似た声が私の喉から僅かに零れた。体中の熱が一気に吹き飛び、背筋に寒さすら感じて私は襟を掻き合わせる。

 風鈴が無情に鳴った。


 祖父は何も云わなかった。

 けれど。

 その目が語った。



 そんな祖父が私に与えたものがこの白扇だった。年若い娘にはいささか面白みのない扇である。

 ただ、それに込められた想いは重くのしかかるようで、持つ手が震えた。そんな私の様子を祖父は皺の深い顔で眺めていた。


「今後はその扇を使うように」


 祖父の言葉は絶対である。私はその扇を押し頂いた。

 ただ、愛着を持てるはずもない。少しも手に馴染まなかった。

 私はこの扇が祖父そのものであるかのように、手にすることを厭う自分を感じた。振るうたび、生臭い吐息にも似た風が巻き起こるようで――。


 そうして知った。私もまた祖父を嫌っていたのだと。



 扇は何故白いのか。

 白は嫌いだ。すぐに汚れる。

 けれど祖父は私がこの扇に相応しくあれと云うのだ。

 白く無垢であれと云うのではない。


 そこで私はようやく気付いた。

 そうではない。白くあれと云うのではない。

 祖父は私の舞には心がないと云うのだ。色のない、見栄えのせぬ舞だと。だから白いだけの扇を渡した。虚ろなお前の舞には白扇が相応しいと。


 私は扇が折れるほどに強く握り締めた。昼夜舞い続けた私を、祖父はやはり認めぬのかと口惜しかった。

 じっと、手中の白扇に視線を落とす。

 ああ、私には何もないのか。

 いや、それは祖父が私を見ようとせぬからではないのか。


 私にも色がある。私には心がある。

 これが私に相応しいと云うのなら、私がこの扇を染め上げて見せよう。ただ白いばかりの詰まらぬ扇など私は要らぬのだ。


 

 韻律を体に通して舞い踊る。

 そのたびに白い扇はふわりと花を散らす。私が詰まらぬと云ったからか。

 白さの中に桜色の花が浮かび、私が手を翻すと花弁が零れる。その花を踏み、足袋が汚れた。

 美しい花は畳の上で捩れて染みた。もう美しくもない。


 私が花を厭うたからか、花は風に消え、煌びやかな蝶となる。私の動きに合わせ、上へ下へと羽ばたく。

 目の端に、ちらりちらりと翅が煩わしい。居ねと私が顔をしかめたからか、蝶は格子の窓を抜けて逃げ出した。


 はらりと紅葉が散った。紅い、幼子の掌にも似た葉は好ましかった。

 静やかに降る紅葉を私は大層気に入ったのだ。

 ただ、次第に物足りなくなった。

 あの紅さは美しい。

 けれど、この世にはもっと紅いものがあるのではなかろうか。

 この白いばかりの扇を最も美しい緋色に染め上げることはできぬだろうか。

 私に相応しい色に。



 カラリ、と襖が開いた。

 その隙間に祖父の干乾びた顔がある。眼の奥から物言いたげな光を放つ。


「私はようやく真実へと辿り着きました」


 にこりと私は紅い唇で笑う。

 最も紅いもの。私が愛するその色。

 それは私の中にあった。


 私の血は誰よりも濃く紅いのだ。滴り落ちるこの鮮烈な緋色を美しいと云わずなんとする。

 ほうら、緋扇を手にした私の舞に祖父は目を奪われて立ち尽くしている。

 緋扇と滴り落ちる雫。畳を染めるその色と、舞う私の姿を祖父は二度と忘れ得ぬだろう。

 驚駭きょうがいに満ちた祖父の顔を脳裏に刻み、私は静かにまぶたを閉じた。


 家という大樹の病葉わくらばに過ぎぬ私は、それでも生きていたのだ。

 この色が、私の生きた証である。

 

    【 了 】

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― 新着の感想 ―
[一言]  嫌われている――。  そう感じると、その人のことを好きになれないのが人間。  そして、自分が嫌っていると、相手も好きになってはくれないもの。  でも、この二人の間にあるのは、そんな簡単な…
[良い点] 拝読いたしました! りくさんの純文学、素晴らしかったです。 ※以下ネタバレ注意 祖父との確執は、懸命に稽古を続ける主人公の心に暗い影を落としていったのですね。 白い扇を渡されたその意味…
[一言] 扇が、花に、蝶に、紅葉に、そして自らの血潮に染まっていく、その美しさが際立っていました。 一方で皺や息の生臭さがリアルで、詳しい背景はなくとも、芸に厳しい祖父と芸に憑かれていく主人公の姿が…
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