9.父の青春
「おはよう。今日も良い天気で、入学式日和だよ」
窓辺でカーテンを開けて外を見ていた由香に、ベッドの上から「おはよう」と咲良が声をかけると、振り返った由香があの感じのよい笑顔で挨拶を返してくれた。
昨日の事を思い出すと咲良は、恥ずかしい気持ちと申し訳ない気持ちになった。
昨日は飯島彼方の話を聞いた後、咲良は相当情けない顔をしていたのか、由香に『余計な事言って、ごめんね』と謝られてやっと我に返った。
そして、飯島彼方の外見や年齢が、自分の想像と違ったって彼の表現する世界が変わる訳じゃないのだからと反省し、咲良の方も由香に謝った。
『飯島彼方がイケメンだと知って、そんな反応を返した人は初めてだよ』と、由香は自己嫌悪で落ち込む咲良を笑い飛ばしてくれた。
入学式の朝、新寮生たちと共に大学に向かった咲良は、余りの人の多さに驚いた。そしてさらに驚いたのは、校門から入学式のある大ホールまでの通路の両側にクラブやサークル勧誘のビラを配る先輩達がずらりと並んでいた事だ。中にはスポーツのユニホーム姿の人や、パフォーマンスを見せている人等、初めて見る光景に、ただただ驚き、流れに沿ってビラを受け取りながら目的地まで流されて行った。
咲良は両親とのメールのやり取りで、人が多いので式が終わってから合流する事にし、大ホールの入り口で受付を済ますと、会場へと入っていった。
会場へ入って行くと、由香は同じ高校出身の友人に声を掛けられ「また後でね」とそちらへ行ってしまい、他の新寮生たちも同じようにそれぞれの友人達のところへ行ってしまった。そして、残ったのは咲良ともう一人、工学部の吉村葉奈だった。
「山野さんは、同じ高校の人はいないの?」
葉奈の問いかけに、王子の顔が脳裏をかすめる。途端に慌てだす心を何とか誤魔化しながら、咲良は「いるけど、よく知らない人だから……」と答えた。
「そっか……私も自分の受験の事で精一杯で、誰がQ大受けたかも知らないのよ」
葉奈は少し溜息交じりに、友人同士で楽しそうに話している人達の方へ視線を送る。
「吉村さんがいてくれてよかったわ。これからも宜しくね」
咲良がそう言って笑うと、「こちらこそ、よろしく」と笑顔が返り、咲良は又一つの出会いに嬉しくなった。
入学式を終えると、咲良は葉奈と共にまた大勢の人波に流され外へ出た。余りの人の多さに再び由香に会う事も難しそうだ。由香とは寮へ帰れば会えるので、それまで最初の予定通り両親と過ごすとメールをしておいた。
それよりも、王子だ。
この人の多さの中では、見つけるのは無理だろう。
それでも咲良は、キョロキョロと周りを見回す。そして、入学式に彼の姿をまた見られると、簡単に考えていた自分に、今更ながら呆れてしまった。
(しかたないよね)
咲良は小さく嘆息すると、同じ大学にいるのだから、またキャンパス内で見かけられるだろうと自分を慰め、後で柚子に王子を見つけられなかったと報告しておこうと、律義に約束を遂行しようと考えていた。
両親と約束していたので、葉奈と別れた咲良は、携帯で連絡を取りつつ、どうにか人混みの中で両親と再会できた。そして、大学の近くの洋食店で三人は昼食を取る事にした。
「咲良、入学おめでとう。校歌を久々に訊いて懐かしかったよ」
父親は感慨深気な眼差しで咲良を見た。隣で母親はニコニコしている。
父親のお祝いの言葉を聞いて、咲良は大学生になった事をじわじわと実感していた。両親の嬉しそうな顔を見て、少し自分の下心を後ろめたく思いながらも、Q大へ進学した事を心から良かったと思えた。
「それにしても、この辺も変わってしまったな。ちょっと淋しいよ」
父親が窓の外を眺めながら、呟いた。きっと父親の心は青春時代に戻っているのだろう。子供に母校へ行って欲しいと思う程の父親にとって大学時代って、どんな思い出があるのだろうか。
「お父さん。成沢女子寮を見て憧れだったって言っていたけど、どういう意味なの?」
咲良は父親の学生時代に思いを馳せて、尋ねてみた。すると父親は遠い目をしてフッと優しく笑った。
「成沢女子寮にはね、お父さん達のマドンナがいたんだよ」
「マ、マドンナ?」
咲良の思い付くマドンナと言えば、アメリカのあのセクシーな歌手だった。
「皆の憧れの美しい女性をマドンナって呼んだりするんだよ。彼女は美しくて、慎ましやかでね、彼女の微笑みに惹かれない男はいないぐらいだったんだ。でも、誰も手が出せない雰囲気があって、まさしく聖女と言う感じの人だったよ」
そんな女性が本当にいるのか? と思ってしまうような父親の話に、30年前はいたのかなぁと咲良はぼんやりと考えた。それにしてもこんな話母親の前でと思って、咲良は母親の方へ目を向けると、既に知っていたのかニコニコと笑っている。
(まあ、ただの憧れだったみたいだし……私達の王子への気持ちとよく似たものだろうか? でも、王子には恋人がいたから、皆諦めて見ているだけだったけど、そのマドンナには恋人とかいなかったのだろうか?)
そんな事を考えていた咲良は、自分が憧れから一歩飛び出して、王子を追いかけて同じ大学へ来た事は、無意識に都合よく棚の上にあげていた。
「そのマドンナって恋人がいたりしなかったの?」
「いや、いなかったと思うよ。それは彼女自身が男性に対してどこか線を引いているような感じだったし、彼女の仲の良い女友達も不埒な男から彼女を守ろうとしていたんだ。それに俺達もあの頃はなぜだか彼女の神聖さを汚してはいけないような気がして、秘かにマドンナの純潔を守る会なんて言うのを冗談半分、本気半分で結成したりしていたよ。だから、俺達の間で彼女に対して絶対に抜け駆けはしないって協定を結んでいたんだよ」
父親の話の余の内容に、咲良は呆気に取られて、ぽかんと口を開けたまま聞いていた。
「なんだか、そのマドンナさん、可哀想だね。それじゃあ、守られているのか、監視されているのか分からないよ」
咲良の言葉に、父親は苦笑した。
「咲良の言う通りだな。今振り返って考えると、マドンナの気持ちをないがしろにしていた様なものだと思うよ。でもあの頃は、皆それぞれお姫様を守る騎士にでもなったような気でいたんだよ」
お姫様を守る騎士と聞いて、咲良は村娘よりもずっと積極的な想いだったんだろうかと思い巡らす。
騎士達は、皆誓いを守って抜け駆けしなかったのだろうか?
結局マドンナは誰のものにもならず卒業してしまったのかな?
でも、卒業後に時効とばかりに自分の想いを告げる情熱的な騎士がいたかもしれない。
父親の思い出話は、咲良の妄想力を大いに刺激した。
「ねぇ、その後、マドンナさんはどうなったの?」
咲良は尋ねながら、頭の中ではマドンナは情熱的な騎士のプロポーズを受けて、幸せな結婚をした結末を想像していた。
「それがね、大学4年生のクリスマス前ぐらいに、お兄さんが亡くなったとかで、突然実家へ帰ってしまったんだよ。その後、戻って来なかったけど、単位も取れていたし、卒論は実家の方から郵送され受理されて、卒業は認められたんだ。でも卒業式も出てこなかった。もう、それっきり彼女を見る事も噂さえも途絶えてしまったんだよ」
咲良は守られていたはずのマドンナの顛末に唖然とした。
これが現実と言うものだろうか?
「それで、お父さんはショックだった?」
思わず訊いてしまった咲良だったが、話を聞くだけでもショックだったのだ。当事者である父親達は、かなりショックだったに違いない。
「ショック、と言うのとも、ちょっと違うかな? もう卒業間近だったし、そんな事がなくてもいずれ卒業してしまったら二度と会う事は無いと分かっていたから……どう言えばいいんだろうね。青春時代が幕を閉じたような感じがしたよ。父さん達にとってはね、マドンナと言う侵し難い憧憬の対象を通じて、心を通い合わせた仲間との友情こそが、青春そのものだったんだと思うよ。だから、咲良にもね、この子供から大人へと変わる時代の4年間に、いろいろな事を仲間と共に乗り越えて、一生の友達を見つけて欲しいんだ。その為にも親元を離れる事はいい事だと思う。親に甘えられない環境の中で、頼りになるのは友達だからね」
父親の言葉に胸を震わせた咲良は、静かに語る父親の優しい眼差し避けて外へ視線を向けた。
父親達にとってマドンナは、仲間と心を通い合わせるための青春のシンボルでしかなかったのか?
その人を見るだけで幸せな気持ちになれる瞬間も、少しでも近付くとドキドキしてしまうような甘酸っぱい想いも、友情を深めるために共感するアイテムでしかなかったのか?
(恋も友情もなんて、贅沢な事かな?)
でも、卒業したら二度と会う事は無いと割り切ってしまいたくないと咲良は思った。
そう、割り切れなかったから、ここにいるんだ。
「私、お父さんに負けないぐらい素晴らしい青春時代を過ごしてみせるよ。ここで」
咲良は再び父親の方を向いて微笑むと、まるで宣誓するように言った。父親は驚いた顔をしたがすぐに嬉しそうに笑って見せたのだった。




