34:驚きの連続
土曜日のお昼、早めの昼食を済ませた咲良は、飯島から渡された地図を頼りに仕事場だと言うマンションのエントランスの前まで来て見上げた。
(うわぁ、高そうなマンション)
もちろん値段が。
今日は由香もアルバイトだったので、気付かれずに出かける事が出来、咲良はホッとした。でも、なんだか由香に秘密にしている事がどんどん増えて、心苦しい。
それでも、それ以上に喜びの方が大きいのだ。いつか全てを話せる日が来たら、しっかり由香に謝まろう。そう思う事で、心苦しさに折り合いを付けた。
マンションを見上げたままそんな事を考えていたので、首が痛くなり我に返ると、視線をマンションのエントランスの方へと向けた。なんだかドキドキする。こんなセキュリティのしっかりしたマンションを訪ねるのは初めてで、戸惑ってしまう。
咲良は教えられたように飯島の部屋番号である701号室を呼び出した。
「いらっしゃい、どうぞ」と言う声と共にロックが解除される。咲良はドキドキしながらエレベーターで7階へ上がった。
701号室の前で呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いて咲良に夢を与えた憧れの作家が「いらっしゃい」と微笑みながら招き入れてくれた。
かなり広そうだと玄関から伸びる廊下の奥行きを見て思う。飯島に付いて廊下を進み、格子状にガラスの入ったドアを開けると広いリビングが目の前に広がった。そしてそこにいた人が振り返った。
(どうして?!)
振り返った人と目が合い、途端に咲良は固まった。向こうも驚いた顔をしている。どうやら咲良が来る事は知らされていなかったようだ。
「どう言う事だよ?」
その人は作家を睨みつけて訊いた。
「彼女はね、文学部の山野咲良さん。それから、彼は工学部の石川駿。仲良く頼むね」
王子の睨みをスルーして、飯島は悪戯っぽく笑いながら二人を紹介した。咲良はペコリと頭を下げたが、王子はまだ飯島を睨んでいる。
「そんな白々しい紹介をしなくてもいいよ。高校の同級生だって知ってるくせに」
王子の言葉に咲良は驚いて、二人の間を視線は何度も往復する。
(え? 高校の同級生だと知っている? どう言う事?)
王子が話したのだろうかと考えていると、彼の視線がこちらを向いた。
「山野さん、この人になんと言って誘い出されたんだ?」
怒りの含んだ王子の言葉に、咲良はビクッと震えた。
「こら、こら、駿。山野さんが怯えているじゃないか。山野さん、彼はね、私の甥でね。つまり、駿の父親は私の兄なんだよ」
飯島は王子を叱った後、咲良の方に優しく語りかけた。王子は慌てたように「ちょ、ちょっと」と言いかけたが、秘密がばれて決まりが悪いのか、舌打ちするとそっぽを向いた。
(甥? 飯島彼方が王子の伯父さん?)
驚きの連続で、咲良はまた目を丸くしたまま二人を見比べた。そしてある事を思い出した。
「もしかして、飯島先生に先生が若いと知ってショック受けたって話したの、石川君?」
咲良は飯島に尋ねられた時の動揺を思い出し、思わず尋ねていた。
途端に眉間にしわを寄せた王子を見て、咲良は王子になんて事を言ってしまったのかとハッとした後、オロオロしてしまった。
「チッ、要人さん、話したのかよ?」
王子は舌打ちすると、こちらに返事をする前に、飯島の方に怒ったように問いかけた。
(要人さん? 飯島彼方の本名だろうか?)
ふと疑問に思ったけれど、そんな事より咲良は違和感を感じた。王子の話し方、雰囲気がいつもと違うからだ。いつも穏やかに微笑んでいた王子は、ここへ来てからは見られない。
反対にいつもピンと張り詰めたような緊張を漂わせている飯島がやけに柔らかい雰囲気だ。
「ははは、ちょっと山野さんの反応が見てみたくてね。それより、山野さんをここへ呼んだのは、駿と一緒に資料の整理をしてもらおうと思って、アルバイトとしてお願いしたんだよ」
飯島は王子の問いかけを笑って流し、本題に戻り咲良が来た理由を説明している。
「要人さん、わざとだろ? 山野さんまで巻き込んで、何考えてるんだ?」
(お、王子、雰囲気、怖いよ)
見た事のない王子の雰囲気に、咲良はビクビクして居た堪れなくなった。
「ほらほら、山野さんがすっかり怯えてるよ。私はね、駿一人では資料の整理が大変だから、高校の同級生の彼女なら気心も知れているだろうと思ったんだよ。それに、彼女は私の作品にも詳しいし、とても熱心なんだよ。だから適任だと思ったんだけどな」
咲良は飯島の話を聞きながら、憧れの作家に適任だと言われた事に舞い上がった。けれど、王子の怒りの籠った表情を見て、すぐにシュンと気持ちは沈んだ。
(王子は私が一緒にアルバイトをするのは嫌なのかな?)
「山野さん、巻き込んでごめんね。それよりアルバイトするのお兄さんは大丈夫?」
王子が伯父に向けていた怒りを納め、咲良の方に向き直るといつもの王子スマイルを見せた。
王子に指摘されて初めて咲良は兄からアルバイト禁止されていた事を思い出した。
それでも今の咲良には、飯島彼方と目の前の王子の事で頭が一杯で、兄の事は簡単に意識の彼方へと投げやった。
「大丈夫、大丈夫。お兄ちゃんには内緒にするから。それに、私、飯島先生のお手伝いできるの嬉しくて、とても楽しみだったの。だから、巻き込んでくださって感謝してるぐらいです」
いつもの王子に戻った事で、咲良の気持ちも浮上した。その上、兄の事まで気遣ってくれる王子に、単純にも胸はキュンとときめいた咲良だった。
しかし王子は、咲良の返事を聞いて、溜息を吐いた。
(ええっ! 呆れられた? 巻き込んでくださって感謝は言い過ぎたかな?)
王子の様子に敏感になっている咲良の気分は、ジェットコースターのごとく上がり下がりしているのだった。
「それじゃあ駿、山野さんに資料の整理について説明して、始めてくれるかな? 山野さん、3時には休憩を入れるから、それまで頑張って。私は仕事部屋にいるから、よろしくね」
飯島は穏やかに言い、二人の「はい」と言う了解の返事を聞くと、立ち上がってリビングから出ていった。その後ろ姿をぼんやり見ていた咲良に王子は声をかけた。
「じゃあ、僕らも始めようか?」
王子の声に咲良が彼の方を見ると、すでに立ち上がっている。咲良も頷くと慌てて立ち上がった。
咲良の慌てぶりに王子はクスリと笑うと、リビングの入り口方へ向かって歩き出した。咲良はその後を追いながら、今更ながら王子と二人きりだと言う事に気付き、心臓がドキドキと高鳴るのを気付かれまいと胸を押さえていた。
リビングを出てもう一度玄関の方へ向かい、向かい合わせにあるドアの片方を飯島の仕事部屋だと説明した王子は、もう一つのドアを大きく開けた。
その部屋は資料部屋で、8畳ほどの広さに書籍がおさめられた天井まであるいくつかの本棚と、パソコンの置かれた机と、床に積み上げられた大量の資料と思われる紙データがあった。
王子が資料部屋へ入って行くのに続き、咲良も無意識にドアを閉めながら中へ入った。
ドアの閉まる音に振り返った王子が、また大きく溜息を吐いた。
「山野さん、お兄さんがうるさく言いたくなるの、分かるよ。君は余りにも危機感が無さ過ぎるよ」
「危機感?」
咲良は王子の言う意味が分からず、呆けたように訊き返した。
「だいたい、いくら憧れの作家に資料の整理を頼まれたのだとしても、男性のマンションへ一人で来る事に戸惑いを感じなかったの?」
「えっ、そんな……先生を疑うだなんて……それに、もう一人アルバイトする人がいるから心配しなくていいって……」
「そのもう一人が男か女かは尋ねなかったの?」
「それは……女性だと思ってて……」
王子が少し怒ったような顔で次々に質問をしてくるから、咲良はだんだんとしどろもどろになっていった。こんな時、咲良には上手く言い逃れたり説明できたりするスキルは無かった。
王子はまた大げさな感じで溜息を吐いた。そして何も言わずに立ちつくしている咲良の横を通り、もう一度ドアを開けに行き、振り返った。
「山野さん、今回は要人さんや僕だったからいいものの、よく考えずに話に乗ったらダメだよ。それに知り合いだからと言っても僕も一応男なんだから、こんな密室で二人きりになるのは君のために良くないと思って、さっきドアを大きく開けたんだ。僕が君に何かする訳じゃないけど、やはり女性は男性と二人きりになる時は、常に危機意識を持っていないとダメだよ。いろんな男がいるからね」
咲良は驚きと共に恥ずかしくなった。兄に良く言われていた事だ。男に気を付けろと。それを王子から指摘されるなんて……。王子に呆れられただろうか?
「ごめんなさい」
「別に謝ってもらう事じゃないけど、お兄さんが知ったらきっと反対するだろうね。それでも、本当に大丈夫?」
王子の言う通りだと咲良は思った。兄は絶対に反対する。なんと言っても王子に近づくなと言ったのだから……。
(でも……もしかして王子は私がここへ来るのは迷惑なのかな? あ・・・…彼女に知られると困るから?)
「あの……私がここへ来るの、迷惑ですか?」
「迷惑だなんて思って無いし、実際手伝ってもらえれば助かるんだよ。でも、山野さんのお兄さん、しばらくこちらにいるんだろ? 定期的にQ大にも来るとか……それでも、大丈夫かって事」
「ええっ?! お兄ちゃんがしばらくこちらにいる事、何で知ってるの?」
咲良は驚いて目を見開いた。
「ああ、山野さんのお兄さんに会った後また会ったんだよ。篠原教授の研究室の場所を訊かれたんで、案内した時にそんな話をしていたから……」
「そうだったんだ……」
(私の知らない所で、お兄ちゃんと王子が接触していたなんて……)
「山野さん、君もお兄さんとあの同級生の彼女との事が気になって、僕に話があるんだろ?」
「え………?」
「ほら、話があるから明日会う約束してるだろ?」
「!!!!!」
本日余りの驚きの連続のため、すっかり明日の事など失念していた咲良は、明日の事を思い出し絶句した。今や彼女の頭の中はパニックにより、全ての思考が停止していた。




