31:兄の来訪
『6月×日PM3:00 Q大正門前にて待つ』
電報かって言う程短いメールが兄の大樹から届いたのは日曜の夜だった。電話をしてこないなんて兄らしくないな、と咲良は不思議に思ったが、一瞬の事ですぐに忘れてしまった。
約束の火曜日、ここの所梅雨らしい雨の日が続いていたが、今日は薄曇で何とか雨は降らずにいる。そして約束の時間、約束の場所に咲良と由香はいた。
アルバイトの時間までもう少しあるからお兄さんに挨拶をしたいと、由香もついて来たのだった。
「ねぇ、咲良、今更だけど、お兄さんって、イケメン?」
「普通だと思うけど……」
「普通って……それじゃあ、咲良に似ているの?」
「外見も頭脳も性格も似てない」
咲良のきっぱりとした返事に、由香は笑い出した。
(何よ、正直に言ったのに笑う事無いじゃない)
桜がプッと頬を膨らませると、由香が「ごめん、ごめん」と謝って来た。
「なんだか、ますますお兄さんに興味湧いて来た。じゃあね、お兄さんってモテた?」
「5つも離れているから、よく分からないの。お兄ちゃんとは私が中二までしか一緒に暮らしてないから……」
由香に兄の事を尋ねられて、あらためて兄の恋愛関係について何も知らない事に咲良は気付いた。
(私には、いろいろ口を出してくる癖に)
「そうだよね。5つ離れている上に男女の兄弟だと、そんな話ししないだろうね」
「そう、それにお兄ちゃんは自分の弱みになる様な事は絶対に言わない。それなのに私の事には口出すのよね」
結局兄への愚痴が出てしまい、咲良は待ち人の来るのは少し気が重くなってしまった。
「ねぇ、向こうから歩いて来るスーツの人、お兄さんじゃないの?」
由香に言われて振り返った咲良に気付いたのか、大樹が親しげな笑顔を浮かべて手を上げた。
「そうみたいだね」
兄のスーツ姿なんて余り見ないせいか、別人のように思える。
「やん、なかなかイケメンじゃないの」
「あんなのがイケメンなの? 最近はイケメンラインがずいぶん下がったね」
「そりゃぁ、石川君と比べられればねぇ」
「もう、関係ないでしょ」
そうこうしている間に大樹が傍までやって来た。
「やあ、咲良、待たせたな」
「あ、咲良のお兄さんですか? 私、寮の同室の渡辺由香と言います。よろしくお願いします」
「ああ、渡辺さん? 咲良がいつもお世話になっています。こちらこそよろしく」
「咲良からお兄さんの事を聞いてお会いしたかったので、お会いできて嬉しいです」
「ははは、碌な事言って無いだろ?」
「いえいえ、そんな事無いですよ」
咲良は二人の会話をハラハラしながら聞いていた。兄の言うように碌な事言ってなかったからだ。
(後で問い詰められたら、どうしよう)
それでも由香は、地雷を踏む事無く、「アルバイトの時間だから、もう行くね」と、本当に挨拶だけ済ますと、笑顔でその場を去って行った。
咲良は去って行く由香の後姿を見つめながらホッと息を吐くと、兄の方へ向き直った。
「お兄ちゃん、どこを案内して欲しい? Q大は広いから、全部は無理だと思うよ」
「そうだなぁ、四時に工学部の篠原教授のアポ取っているんだ。それまでだから……それより慌てて来たから喉乾いているし、どこかで涼ませて」
大樹はそう言うとスーツの上着を脱いだ。梅雨前とは言え、もう夏の暑さだ。
「サラリーマンは大変だね。こんなに暑くてもスーツ着なくちゃいけないなんて」
「今日は特別だよ。教授に挨拶に来たから。普段は上に白衣着ておけばなんでもいいんだ」
「お兄ちゃん、ここへ仕事で来たの?」
てっきり自分に会いに来たのだと思っていた咲良は驚いた。
「さっきからそう言っているだろ?」
「なんだ」
村上が『身辺調査』なんて言うから無意識に身構えていた咲良は、急に脱力した。
「なんだ、って、何か期待していたのか?」
身辺調査だと思っていたなんてバレたら藪蛇だと、咲良は慌てて首を横に振った。
「なんだか怪しいな。まあ、いいか。それより、早く涼しい所へ案内してくれ」
咲良は助かったと思い、すぐに頭の中に学食やカフェの場所を思い出し、用があると言う工学部の学食へ行く事にした。
この時間の学食はランチタイムの事を思えば静かなものだが、エアコンが効いているせいか、まばらに席が埋まっている。
「お兄ちゃん、アイスコーヒーでいい?」
「ああ、悪いな」
「席に座って待っていて」
咲良はそう言うと、自動販売機の方へ歩いて行った。
兄はアイスコーヒーで、自分はオレンジジュースかなと、咲良が紙コップ用の自動販売機の前でしばし思案しながら操作していると、「山野さん」と声がかかった。
咲良が驚いて振り返ると、王子がいつものスマイルで立っていた。
えっ、どうして……と思ったが、すぐにここは工学部の学食だったと思い出した。
「めずらしいね、こんな所にいるなんて」
「あ、あ、兄が来たから……」
心の準備も無しに王子に逢ってしまったせいで、咲良はテンパッてしまった。
「ああ、噂のお兄さんが来るの、今日だったんだ」
咲良がコクコクと頷くと、「それ、もう取り出していいんじゃない?」と王子が自動販売機の取り出し口を指差して言った。
咲良は「あっ」と言うと、慌てて扉を開けて中のカップを取り出し、今度は自分の分のオレンジジュースのお金を入れてボタンを押すと、やっと安堵の息を吐いた。
その様子を見ていた王子が、隣で「そんなに慌てなくても……」とクスクスと笑っている。
(もしかして王子は、飲み物を買う順番を待っていたのだろうか?)
「ごめんね、待たせて。お先に」
咲良はオレンジジュースを取り出すと、急いで自動販売機の前から退いた。
「山野さんがいたから来ただけで、飲み物買うつもりはないよ。それより、さっきからこちらを睨んでいる人がお兄さん?」
王子に言われて、兄の方を振り返った咲良は、兄の鋭い眼差しを見て青ざめた。
(あぁ、よりによって王子といるところを兄に見られたなんて……)
「そう、みたい」
「みたいって……なんだかお兄さんに激しく誤解されているような気がするから、挨拶するよ」
「ええっ、そんなのいいよ」
「同郷だから、話せば分かってくれると思うから」
王子はそう言うと、咲良を促して大樹の方へ歩いて行った。
「咲良、遅いぞ」
「ご、ごめん」
「山野さんのお兄さんですね。僕、山野さんの高校の時の同級生の石川と言います。僕は工学部だけど、山野さんとはサークルが同じで、親しくさせてもらっています。よろしくお願いします」
爽やかな笑顔で挨拶をする王子を、怪訝な眼差しで値踏みするように見上げた大樹は「君も北高なんだ?」と確認するように言った。
「はい。でも、高校の時は山野さんの事を知らなくて、サークルの自己紹介で初めて知って驚きました。同じ高校から女子でQ大へ来ている人がいるとは知らなかったので……」
王子がスラスラと大学での出会いの事まで話すので、咲良は気が気じゃなかった。
(まさか、連休に一緒に帰った事まで言わないよね)
「ふ~ん」と相槌を打ちながら、大樹は物問いた気な眼差しを咲良に向けた。それだけで、咲良はビクビクしてしまった。
「駿、お待たせ」
突然現れた新しい登場人物の方を、3人は一斉に見た。そこには見覚えのある美しい女性がいた。
(あー、王子と付き合っていると言われてる人!)
彼女が誰であるか分かった途端に、咲良の心は強張った。
「約束の時間にはまだ早いよ」
王子が親しい間柄で交わされる、少し砕けた調子で言葉を返す。
「だよね。駿がもういるから、遅れたのかと思って」
その女性は綺麗に微笑んだ。
まるで彼女の視界には、咲良と大樹の姿が映っていないようだ。
「綾、綾じゃないか?」
突然大樹が立ち上がりながら、その女性に向かって勢い込んで問いかけた。驚いた他の3人が大樹をまじまじと見る。
(お兄ちゃん……)
「ヒロ? どうしてここに?」
彼女の方も知り合いだと分かったのか、驚いて問い返している。
「それはこっちのセリフだよ」
「私はここの院生だもの」
「えっ? おまえ、K大じゃなかったっけ?」
「私の進路なんか、知っていたんだ? でも今年、この大学の院へ入り直したの。それより、ヒロこそ、どうしてここにいるのよ?」
「俺は妹がQ大へ入ったから、仕事のついでに来たんだよ」
「妹?」
ようやく咲良の存在に気付いたのか、彼女はそちらへ視線を向けた。そして咲良を一瞥すると、王子へ視線を向けて「駿の知り合いなの?」と問いかけた。
「ああ、高校の時の同級生」
「へぇ~、偶然ね」
「そいつは綾の弟なのか?」
大樹が突然口を挟んだ。その問いかけに咲良が驚いている間に、綾は傍に立つ王子の腕に自分の腕をからませると「恋人よ」と言い放ったのだった。




