「その偶然が齎《もたら》した祝福は」1
「なあ、ラエルちゃん。どうしても駄目? 俺、絶対『ロア坊』よりもお買い得だと思うけど?」
思いがけず耳にしてしまった『男』の声に、俺はすっと身を隠す。待ち合わせていた場所を盗み見える位置を探し出し、見つからないように気をつけながら、ラエルに言い寄ろうとしているその相手を怪しんだ。
(――一体、誰だ、こんなこと言ってる男は!?)
果たしてその場所には、待ち合わせた相手である少女――ラエルが一人と、にやにやと笑う一人の男の姿があった。
名前こそ知らないが、武芸の類の授業で見かけたことがある男だった。俺のことを一方的に知っているからこそ、『ロア坊』などと言っているのだろうと、俺は思った。
学舎の中でも、生徒や先生の中に邸宅の名を名乗ることが出来る人間は幾人かいて、その中でも俺は劣っている方に分類されている。……自称しているところもあるので仕方ないのだが。まあ、そういった理由もあるからなのか、学舎の中の一部の人間からは、『邸宅御三家のくせに』とか、『七光を使っているに違いない』と謎の言いがかり等を付けられて、『坊ちゃん』とバカにされることも常々だった。そんなことあるわけが無いのに。
と、いうわけで、授業が同じはずの俺ですらその男のことを知らないのだから、同じ授業を受けてすらいないラエルだって、絶対に知らないはずだった。極度の人見知り体質であるラエルのことだから、俺の見ている場所からではその後姿しか見えないけれども、困惑しているだろう様子は手に取るようにわかった。
「なあ、俺と付き合ってよ」
ある種の決まり文句が男から放たれて、やはり、俺の予想道理の展開になった。
どこか得意そうな男の声に、すぐさま場に乱入してぶち壊してやろうかとも思ったが、ラエルが何と答えるのかも気になったので、俺はむかむかする衝動をぐっと我慢した。
「困ります。……そんなことを言われても……」
即答。……では無いが、その答えは早かった。
しかし、ラエルは迷う素振りこそ見せなかったが、キッパリと宣言したというわけではなかった。というより、始終その男の様子を伺いがちにしていて、あえて明確な意思表示を避けたようだった。
(言ってしまえばいいのに、ラエルもバカだなぁ)
言われた男の顔が一瞬しかめられた後、にやりと笑うのが俺には見えた。
(気をつかったにしろ、そうでないにしろ、その『男』が付け上がる隙になるだけなのに……)
案の定、男が動いた。ラエルへと腕を伸ばし――嫌がるラエルに抱きつこうとした。
目の当たりにした光景に、俺はキレた。
(――あの野郎っ!)
「――ラエル!!」
俺が慌てて飛び出したら、驚いたように動きを止めた二人が俺を見返してきた。そのどさくさに俺は二人に近付くと、まず男の腕を払い、次に俺の後ろの方へとラエルを追いやって、男の目から極力ラエルを隠そうとした。
見れば、俺よりも年上の男があからさまに不機嫌そうな顔をして舌打ちをした。睨みつけてこようが怖くも何とも無かった。
何故なら、ラエルは俺のそばにいる。逃げようともせず、拒もうともしない。
男の悔し顔を見るに、知らず口元が緩んでしまう。
「大丈夫か?」
男と対峙したまま、首だけを巡らせてラエルを見た。俺に対し、一つ頷いて見せたラエルだったが、そっと身を寄せてきた。
背に触れられてから気付く僅かな身の震えに、俺は興味本位で現場を盗み見ていたことを後悔した。
(ごめんな、ラエル……)
けれど、俺だって男だ。役得過ぎる場面を逃しはしない。ラエルがしおらしい様子でいることに俺は付け込むことにした。
彼女を『慰めるため』にと、大層な大義名分を思い浮かべながら腕を伸ばし、その身を包んでみる。――あくまで、そっと、やんわりとである。そのとき、俺は片腕だけで事足りる事実にびっくりしてしまった。思っていたよりもラエルは小柄だったのだ。この間の名前呼び云々に関しての誓いのときにも、俺はどさくさ紛れに彼女を抱きしめていたが、そのときはもっと他のことに気を取られていたのだ。
ふと振り返ったとき、ラエルに言い寄っていた男の姿が消えていたことに気付く。
(――ははっ、ざまぁみろ)
満足感たっぷりの俺はラエルの様子が落ち着くのを待ってから、改めてあの男の話をすることにした。
「大丈夫だったか? ラエル」
「――はい。取り乱してしまって、すみません。ありがとうございます、ロア様」
俺はそのラエルの言葉を聴いて、ただただ驚いてしまった。
そして、たった今、ラエルの言った言葉の意味するところに驚愕した。
(――今、ラエルは『ロア』って言った!)
思わずラエルを見ると、言ってしまったラエル当人も「あっ!」という顔をしていた。当然、俺も、開いてしまった口が塞がらないでいる。
(今のこれは……! 何たる、偶然で……っ!)
「っあ、あの! ――ま、間違えました。しゅ、主様? あの、ありがとうございます」
慌てたように訂正し、改めて俺を主と呼ぶラエルを目にしても、俺はムカついたり腹が立たなかった。
目が覚めるような思いで、俺はラエルを見つめることしか出来なかったのだ。
(今のはラエルが本調子じゃなかったから、つい口に出た言葉のようだった。……ということは、つまり、ラエルにとっての認識の俺は『ロア』なんだ。――『主』なんかじゃないんだ!)
何のために主などと世迷言を言っているのかは未だにさっぱりわけがわからなかったが、俺はそれ以上の安堵の気持ちで一杯だった。俺の望む『いつかの日』が、そう遠くない未来にあることを、目に見えて実感できたからこそだった。
有頂天になると同時に、思いがけない拍子に滅多なことを発言させてしまった彼女にほんの少しだけ、申し訳なさも感じてしまった。
怖がらせてしまうような事態にまで放っておいたこと、先ほどの偶然の賜物とかの感謝の気持ちをない交ぜのままに、俺はラエルに謝った。
「怖い思いをさせて、ごめんな」
謝罪する俺の色々な理由も知らないだろうラエルは、一つ頭を振るだけだった。
「いいえ。謝らないで下さい。……主様は、わたしを助けてくれましたもの」
先ほどの男のこと、この俺のことをついあだ名で呼んでしまったこと。
未だ本調子でなく混乱しているだろうラエルが、無理やりに、気丈に振舞おうとしている。
(そんな風に振舞わなくてもいいのに)
俺がそう言おうとしたとき、ラエルが俺を「主様」と呼んだ。
「この感謝に、わたしからの『祝福』を受けて下さいますか?」
「――えっ!?」
言葉だけを聞けば嬉しいはずの申し出に、俺は思わず否定的な声を上げてしまっていた。
「……ラエル。まさかとは思うが……、『ここ』でなのか?」
俺たちのいる場所は、学舎内部昇降口付近のとある廊下の片隅だった。最終授業がお互いの共通した授業科目ではなかったため、分かれて帰宅することを避けた俺が「この場所にいて欲しい」と、ラエルに待ち合わせを約束していたのだ。
俺の言葉に、ラエルが「まさか」と呟いて、笑った。
「勿論、帰宅してからのお話しですよ? ……わたしだって、恥ずかしいですもの」
「――ははっ。ま、まあ、そうだよな……」
――ラエルが、俺に『祝福』をしてくれる。
その事実に、俺は舞い上がってしまって、ラエルとの話の受け答えもそこそこに、若干上の空のまま帰路に着いた。
鼻の下が伸びていなければいいと、願いつつ。