「彼女の決意」2
「ねえ、主様」
「何だ?」
俺の体に顔を寄せたままのラエルの声は、少しくぐもった声に聞こえた。
「あの声の主は……本当に、兄なのでしょうか?」
ラエルは、投げやりな口調で一人ごちた。
「わたし、物覚えつく頃からずっと追われる身の上でした。今でこそ不自由だったと思い返せますが、身動きを制限されていた以外には特に不満を感じてはいませんでした。逃げては捕まって逃げては捕まって。あるとき、怪しい男たちに捕まるばかりだったわたしが運良く逃げおおせた日が続いて……でも、それも長くは続かなくて、わたしの前に一人の男が現れました。仮面を付けた男――恐らく腕輪の主その人でした」
以前のような温もりを感じさせない物言いで彼の人を語るラエルの姿に、俺は悲しくなった。
「彼の人は、わたしに言いました。この状態を抜け出したいか、抜け出すために誰とも区別つかない自分を信じるかと」
そして、男の手からあの腕輪が差し出されたのだとラエルは言う。
「罠なのかもわからないまま、藁にも縋る思いで信じると言ったわたしに、男は腕輪を付けるように言いました。そして、最低限の腕輪の使い方と、満月のたびに交信をすること、旅の間に気をつけることをわたしに命じました。……言いたいことだけを言っていたんでしょうね。それから、わたしを助ける手引きをしてくれたその人は何のためらいも無くわたしの前から去りました。最後の最後まで、決してその仮面を外そうとはしなかった。――その男が誰であれ、腕輪の主その人を信じたからこそ、今のわたしがあるんです……」
なんと言葉をかけていいかわからなくて、俺はラエルの頭を撫でた。
頭の中に過ぎるのは、俺たちを見守っていたと言った腕輪の主の言葉だった。俺と彼女との仲を見極めようとしたらしい腕輪の主は、わざわざそのことを俺たちに明かしてくれた。きっと何か理由があるはずだった。
「こんなこと言うのもあれだけど、アイツが第三者として街に入り、人知れず俺たちのことを探るなんてこと無理があると思う。――きっと、アイツは……俺たちの身近にいる人間と考えた方がいいと思うんだ」
「ええ。きっと、腕輪の主もそれを望んでいるはずです」
悲しそうに呟くラエルに、俺は胸が痛くなった。救ってくれた存在を、もしかしたら兄かもしれない人を疑わなくてはいけないラエルがかわいそうでならなかった。
せめてと思い、俺はラエルに言った。
「ラエル。――得体の知れないやつにはもちろんだけど……俺は、いるかもしれないおまえの兄さんにだって、おまえを渡さないからな」
おまえを渡さない。俺がそう言えば、ラエルが苦しまなくて済むんじゃないかと思った。俺は相手が誰であろうとラエルを誰からも奪い去るつもりなのだから、ラエルの意思がどうであれ俺についてきてもらうしかないのだから。
「主様……」
虚を突かれたかのように息を飲む気配がした。俺の上でむくりと起き上がったラエルが、俺を真剣な眼差しで見つめ返してきた。
「ありがとう、主様。きっと、頼りにさせて頂きますね」
にっこりと笑ったラエルは、そのまま起き上がって立ち上がると俺にある宣言をした。
「ですが……、わたしとておめおめと捕まるつもりなんてありません。あなたと腕輪の力さえあれば、わたしは戦ってみせます」
俺は大いなる違和感を感じずにはいられなかった。ゆっくりと半身を起こしつつ、改めてラエルを見上げるが、その表情は自信満々な笑みに満ちていた。
「えっと……戦うって? おまえが?」
俺の疑いの問いかけにも、ラエルは害の無い笑顔を浮かべているままである。
確かに、俺はラエルより頭が弱く、学舎時代の学術の成績は彼女の足元にも及ばない。だが、学術ではないものに関しての話は別だった。そう、それこそ、俺は男でラエルは女だ。体力面からしてまるっきり違う。そんな彼女が、はっきりいって得意ではないだろう戦いとか争いごとをやって見せようと言う姿勢は、言葉で言い表せられないほどの衝撃があった。
半ば呆然とする俺にラエルはにっこりと笑ってから手を離した。その手を顔に持っていって左目だけを隠すように、俺を見る。
「……この眼を、あなたはご覧になったことがあるはずでしょう?」
その瞬間、俺とラエルとの間にある空気が変わった。突然風が起きたのだ。温度とか湿度とかでない、纏わりつくような意思を持つうねり。その流れが、俺とラエルとの間の僅かな距離に巻き起こったのだ。
俺は慌ててラエルに近づいて、風に飛ばされないようにと腕を伸ばそうとして、気付く。舞い上がる髪色と同じラエルの目の色に、俺は見覚えがあった。
「あのときの眼……!」
俺の驚きように満足したようにくすりと笑ったラエルが手を下ろした途端、何事も無かったかのように異常な空気の流れが止まって丘の上に静寂が戻る。
それと同時にラエルがふらりとよろめいて、俺が慌てて体を支えたら力の無い笑みを見せた。
「少し、やり過ぎてしまったようですね……」
「他人事みたいに言ってる場合か!」
「ふふ。こんなの、平気ですよ」
気丈な台詞の割りに、ラエルは未だ俺に体を預けっぱなしである。
「平気なわけあるか! 体に力が入らないんだろう?」
「それは……ちょっと、甘えているだけです」
都合良い事を言って誤魔化そうとしたラエルは直ぐに顔を紅くして失敗していた。
しばらくしても、ずっとラエルは俺から離れようとはしない。気だるそうに呼吸を繰り返すばかりで、段々顔色すら悪くなっているように見えた。
「……家に戻るか。このままじゃ、休めないだろ」
ずっとしんどそうにしているラエルを見かねて俺がそれを提案するが、ラエルは頭を振った。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫とは言いきれませんけど……落ち着いたら、本当に平気になりますから」
俺には「落ち着くまでは平気じゃない」と聞こえた気がした。
問答無用。上着をラエルに被せると、俺は腕を引っ張ってその体を背負い込んだ。驚くラエルの声が耳元で聞こえたが気にしなかった。引っ張った腕を首もとに回すようにしてから、浮いた両足をそれぞれの腕で掴み、何度か背負いなおして体勢を整えると歩き出した。その間、ラエルも弱った体なりにじたばたともがいていたようだったが、やがておとなしくなった。
背負っていると背中に柔らかな感触を感じたがすぐさまその邪念を払う。本当は横抱きにして運んでやりたかったが、急な斜面を降りなければいけないことと、長い道のりであることから、背負う以外に選択肢は無かったのだ。
「しっかり捕まってろよ」
歩く拍子に、どうしても背負っている体がずり落ちていく。誤魔化すようにラエルに声をかけて、何度か彼女の体を持ち上げるようにして体勢を整えるのだが、その度にラエルは小さく頷くなり声を上げるなりして俺にしがみついてきた。
「優しいんですね、主様」
「まあ、おまえにはな。これがあのコーラルだったら放って帰ってるところだ」
ふふっとラエルが笑い声を上げた。元気が出てきたのだろうか、ラエルはよく喋るようになった。
笑う顔が見たくて首だけで何とか振り向くと、ラエルは片腕で俺にしがみついていて、もう片腕でその髪を隠すように俺の上着で抑えているようだった。
目が合ったからだろうか、ラエルが話しかけてきた。
「ねえ、主様?」
「なんだよ?」
「今お見せした力のことお聞きにならないんですか? あなたに見覚えがあるということは、わたしは目的を持ってあなたにそれを行使したということなんですよ?」
「なんだ、問い詰めてほしいのか?」
すると、「そういうわけではないですけど」とラエルは困ったように呟いた。
「おまえ自身が困る話ならわざわざ振るなよな」
俺はこれ見よがしにため息を吐いてみせた。そして、前を向いて歩き出す。少し考えて、あのときのことを思い出しながら質問に答えた。
「聞かなくたって、あのときの行動の大方の理由くらい察しがついてる。――おまえの目を見た俺が驚いた途端、おまえは慌ててその目を引っ込めて泣き落としにかかっただろ? 実際俺にはそれのほうが困ったし、参った。結局俺はあのとき以来その目を見ていない。おまえがどう判断したのかはわからないけど、つまり、それからは必要が無かったってことだろ? ――もう済んだことなんだし、いいじゃないか」
ラエルは俺の言葉にうんともすんとも言わなかったが、しがみついてきている腕が俺の考えを肯定したかのようだった。
「あの……いつか、お願いしたいことがございます」
「いつか、ね。いったい何だよ?」
「……こればかりは、本当に、あなたを利用することになります。ごめんなさい」
「そんなのいいから。――って、俺に出来ること限定だけどな? 俺はどうしたらいい?」
言いにくそうにしているのを見かねて俺がそう言えば、ラエルはそもそもは自分から言い出したことだろうはずなのに、観念したかのように思い切った声でそれを言った。
「わたしが先ほど行ったあの契約には続きがあります。恐らく、その続きが、腕輪の語ったことなんです」
「――へえ?」
明瞭に語ろうとしない腕輪と、母と、今のラエルの言葉に、俺自身気付かなかったわけじゃなかった。
歩みを止めて先ほどのように首だけで振り返ってラエルを見る。俺の言葉少ない反応に何を思ったのか、ラエルが神妙な顔をしていた。そして、ごくりと息を飲んだかと思うと、たっぷりの間の後に言った。
「……わたしの力を失くすためには、わたしのすべてを引き換えに、です」
ラエルが、ぎゅっと俺にしがみついてきた。
俺はつとめて平静な声でそれを反復する。
「ラエルのすべて、か」
「もしも、主様が……」
呟くラエルの声は泣きそうな声だったが、一転して明るいおどけた声色になった。
「もしもそのときが来たら、きっとあなたの全てもわたしに下さいね?」
俺の肩に顔を押し付けたまま声を震わせているラエルの声はすごく小さな声音だったけれど、位置が位置だけに耳元で囁かれるも同然であればいやでも聞き取れてしまった。
俺は知らず知らずに息をのみ、そして、ひっそりとため息をついた。
(――なるほどな。あの野郎も母さんも、渋った反応をするわけだ)
「いいのか? そんなこと俺に言っても。せっかく気付いてないフリをしてたのに」
「だって、首飾りのこと、ばれてしまったんですもの。……それに主様は、きっと」
ラエルはそこで言葉を切った。
「わたし、信じています。主様はわたしを何者からも守って下さること。だから、いいんです」