「少年ロアーツと、主と呼ぶ少女」4
「昨夜は、泣いてしまってごめんなさい」
父と母が去り、冷めてしまった朝食を自棄食いしていると、ラエルが言った。
朝食に向けていた視線を、ラエルへと向ける。父と母がいたときとは違う顔をして、ラエルは俺を見ていた。
「泣くつもりなんてなかったんです。だって、泣いてしまったら、優しいあなたは何でも言うことを聞いてくれるから。……だから、そんな卑怯な真似したくなかったのに。わたしのこと、怒っていますか?」
つらつらと語る声が、不安に駆られているように聞こえるなんて、気のせいだと思いたかった。
「別に、いいよ。もう」
俺はぶっきらぼうに答えた。そして、視線をほぼ平らげてしまっていた朝食へと戻す。
「おまえは、頭いいからな。こうなるような気はしていたんだ。……だから、いいんだ。別に。おまえが、泣くほど嫌がるなら、主様でも何でも、呼び名なんか別に……」
「――違うの!」
諦め気味に呟いていたら、ラエルが強く遮った。
珍しいと俺は思った。
(俺なんかはともかく、ラエルがこんな風に強く自分の意を通すことは滅多に見たことが無かったのに)
「違うって……何が?」
「わたしが、泣いてしまったのは、あなたに対する呼び名のことなんかじゃないの……」
ごめんなさい。ごめんなさい。
謝り続ける彼女の様子を不思議に思いつつも、俺は聞かないわけにもいかなかった。
「じゃあ、何だって言うんだ?」
ラエルが、俺を真っ直ぐに見る。
「あなたが『俺の気持ちがわかったか』って言ったでしょう? 初めてわかったの……すごく怖かった。すごく嫌だった……っ」
「――ああ。あれか。もしもの話で俺が言った『ラエルって呼ばれなくなったら』って話のことか」
頷いたラエルの眼を見ると、少し潤んでいるように見えた。そのときのことを思い出して感情が高ぶっているのだろうか。――何にせよ、由々しき事態であるように俺は思えた。
「だから、泣くなって。あんなこともう言わないから」
「本当?」
ラエルは驚いたように目を見開いて俺を見ている。
「本当だって。……えらく気にしていたんだな。あの言葉。俺にとってはただの腹いせ紛れの台詞だったのに」
「……ごめんなさい」
何とか笑わせようと思って、明るい口調で話そうとするのに、ラエルは変わらず湿っぽい顔をして、おまけにぐすっと鼻をすすらせるから、俺にとっては気が気ではない。
「いいって! もう、わかったから……」
「……わ、わたし、どうしたらいいんでしょう……」
俺の密かな努力も空しく、とうとうラエルは泣き出してしまった。
「あー……。ラエルってば、泣き止んでくれよ……」
俺の言葉に慌てたようにラエルが目をこすり、涙を拭おうとするけれど、その勢いは止まらないらしかった。後から後からこぼれてくるかのようで、可愛らしいしゃくり声まで上げ始めている。
どうしたらいいのかわからないけれど、泣いているラエルのために俺は何かしてやりたかった。慰めになるかわからないまま、俺はラエルに近付いて、彼女の身に着けている頭巾ごと頭を撫でた。
ラエルが驚いたように俺を見上げて、その拍子にラエルの目から頬へと一つ涙が落ちていった。
「でも……でも……っ。わたしは、違うのですよ?」
泣きながら、ラエルが言う。
俺は極力優しげな声になるように装って声を発した。
「何が違うんだよ?」
「わたしは……こんなにも異質な存在なのです。生まれにしろ、この髪色にしろ。どちらにせよ、わたしは……『ラエル』という名を持つのだから。……わたしは、違うのに。わたしは、ただの……、あなたの言う『ラエル』でいたいのに」
そういえば、彼女の髪色は、この街やこの地方では珍しい色合いだったかもしれないと、俺は思った。普段目にする機会が少ないせいか、ついつい忘れてしまいがちになるのだが。
頭巾を身につけた彼女の目から、また一滴涙が頬を伝っていく。
「わかることといえば、違うことだけだなんて。――わたしはっ、どうしたらっ! ……どうしたら、あなたのそばに……。ラエルで、いられるんでしょう?」
意味深な言葉だった。俺は思わず聞き返していた。
「……ラエル? おまえ、今何て言った……?」
俺は言葉の意味を何度か反復して、ある予感を胸に息を呑んだ。
「――ラエル、おまえ、まさか……っ!?」
かつて、身寄りも無い、行く当ても無い、何もわからないと告げた『元旅人の少女』を、俺は今一度思い出していた。
(まさか、唯一名乗ったその名前も――?)
それが意味することを思い、俺は涙する彼女をただただ見つめてしまう。
「……主様……」
彼女の、誰かを呼ぶ声がする。
俺にはそれが、救いを求めるような声に聞こえた。
「もしもわたしが、……わたしが、『ただのラエル』ですらいられなくなったら、わたし……っ!」
迷いも、ためらいも。決意も、本心も。――その言葉を告げるまでの、たった一瞬のように俺に思えた。
「――言うな」
俺は、彼女の言葉を遮るかのように呟いて、その身体を抱きしめていた。
思いがけないほど細くて華奢な身体だった。戸惑ったようなその身体が一度身じろいでから、俺に身をゆだねるように僅かな重みが加わって、俺の背にその手が触れた。
瞬間、壊したくないと、強い思いが胸を突く。――我知らず、縋ってくる腕とは比べほどにもならない力で、抱きしめているのに。
「皆が知ってるよ。おまえのことを。街に来てまだ一年しか経ってないのに、頭が良くて、真面目で、気立てが良くて。……生まれた頃からずっと住んでいる俺なんかより街の人気者じゃねぇか?」
彼女が求めている言葉なんて、俺にはわからない。けれど、安心して欲しくて、泣き止んで欲しくて、俺は言葉を紡ぐ。
何かの呪いのように、言葉のわからぬ幼い子どもに、その都度言い聞かせるように。
「……主様っ」
泣き止もうとしていてもなお、彼女はその呼び名を口にしている。
だから、俺は、彼女に囁いた。
彼女の泣き顔は、もう見たくなかったから。
「俺がおまえの言う主様になれば……おまえは俺のそばに……ラエルでいてくれるのか?」
「――っ!」
しゃくりを上げかけた少女の声が、止まる。見上げてくる涙に溢れる目を、俺は見つめ返した。
「おまえが俺をそう呼びたいのなら、勝手に呼べばいい。けれど、絶対に忘れるなよ。俺の名は、ロアーツ=リーグル。……いや、ただのロアーツなんだよ。ラエル」
やがて、いつの間にか泣き止んでいたはずの声が「ありがとう」と呟いた。それから、ちょっとだけ間が空いて、「ごめんなさい」と、小さく囁いてきた。――そんな、たどたどしくてつっかえたような、湿りっ気交じりのその言葉たち。
俺は、それ以上の文句はもう言わなかった。言おうとする気にもなれなかった。
何かに不安がり、怯え、涙した少女のことを、俺は純粋に知りたいと思った。何故なのかと、疑問にも思った。話してはくれないのかと、期待して思うこともあった。――そう、決して、『記憶を失った』とは言わないでいる、彼女に対して。
でも、無理強いはしたくなかった。だから、彼女が話してくれるまで待とうと思って……、何も言えないまま、共に過ごした日々が増えていくばかりだった。
「――主様!」
他の誰でもない俺を呼ぶラエルの声に、俺は頷きはしないし、否定もしない。
いつもと同じ台詞を繰り返す彼女に、俺は笑う。苦々しい気持ちが、少しでも顔に出ないようにと、心の中に押し込めて。
「あのなあ、ラエル。――だから、俺は、ロアーツだって……そう言ってるだろう?」
望む答えが返るはず無いとわかっていても、俺はそう言わずにはいられなかった。
たった一年だけの間、ラエルは俺の名を呼んでくれていた。思い返せば、どれほどの短い間であっただろう。どれほど、その頃に戻れたらと思っているのだろう。
あの頃のように、いつかまた、ラエルが俺の名を呼んでくれる。――そんな日々が戻ることを、俺は信じていた。
お読み頂きありがとうございます。
ひとまず、「主と呼ぶ少女」一区切りです。
初めて物語を書きたいと思った時に思い浮かんだのが、二人の人物と、その人物が発した『主様』という言葉でした。
そのときから、紆余屈折しましたが、なんとか形としていきたいです。8.18