「彼女の決意」1
「契約……?」
呆然と呟く俺の間抜けな顔とか仕草とかは、きっと、ラエルの恐ろしいほど真剣な表情とは見比べるまでも無く対照的だっただろうと、俺は思う。
「また大層なものを」
「利点はあるはずです。わたしは、あなたに証明したい。あなたもわたしの証明が欲しい。違いますか?」
「そりゃあそうだけど。……でも、どうする気だよ? 四年前のときのようにまた名前と名前で縛るのか? それだって、腕輪の主のように名前が奪われるってことがあるんなら、信用ならないじゃないか」
ラエルの説明はご尤もだったが俺としてはどうせそういうことをやるのなら確かなことしか認めないつもりだった。
「――いいえ、この魔術ならば、きっと大丈夫」
ラエルは自信満々ににこりと微笑んだ。その笑顔を見ていると心のどこかがホッとする気がして、俺もつられて笑顔を浮かべてしまっていた。
なんだか、意地になっていた心すら、釣られて素直な気持ちになっていくようだった。
「聞かせてくれよ、ラエル。俺はおまえの力になりたい。おまえのためになることなら、俺はなんだってしてやる」
ラエルが俺を見つめたまま一つ瞬きをした。そして、すっと目を細めたようだった。
「絶対に笑わないで下さいね?」
「は?」
契約を望むに当たって、お互いにあったぴりぴりしたような緊張感が、その瞬間、俺側のモノだけが途切れてしまった。
(――笑うって、何?)
疑問を問いかける間すら、ラエルは与えてくれなかった。
「――眼を閉じて?」
聞き慣れたその言葉に俺は「あ、なるほどな」と思いつつ、眼を閉じた。先程のことはともかくとして、ラエルは決まって俺に『祝福』をしてくれるたびにそう呼びかけてくることが多いので、すぐさま納得できたのだ。
望まれるがままに目を閉じる。待ったとも待っていないともいえないほど、僅かな数秒の間。
しかし、訪れた衝撃は、柔らかな唇なんかではなかった。
「いてっ!?」
予想外の場所に痛覚を覚えて俺は目を開ける。見れば、ラエルは起用にも俺の左手の薬指にだけがぶりと噛み付いていた。
「……何してんだよ、おまえ」
呆れてそう言えば、ラエルがまた真っ赤になった。俺の手を掴んだまま睨みつけてきた。
「眼を瞑ってて下さい!」
「瞑る必要性なんて無いだろ」
祝福をしてくれるかもと勝手に期待して見事に裏切られてしまった脱力感に、俺は投げやりにラエルに文句を言った。
「わたしだって恥ずかしいんです!」
開き直るかのように宣言したラエルは再びその勢いのまま俺の指にかぶりついてきた。突然の痛みは一瞬で今やくすぐったささえ感じるかのようだった。
「……これが、必要なことなのか?」
ラエルが何をしたいのかさっぱりわからない俺は、知らず邪な疑いを企みかけんとしている。――のだったが、熱心に噛み付いているラエルの歯の動きが時折強まることがわかった俺はあることに思い当たって首を傾げた。
「――って、待てよ? 噛んでるのは……歯形をつけたいわけじゃないよな?」
噛み付いたままのラエルが、驚いたように俺を見上げて口を開く。ラエルの求めていることをおぼろげに理解した俺は、唯一身につけていた小刀を懐から出してラエルの噛み跡を目印に線を引くように刃先を引いた。
望みどおり、赤い筋からうっすらと丸い雫ができて、手の平へと垂れていく。
「主様っ?! なんてことを!」
「え? おまえ、俺の血が欲しかったんじゃないの?」
「そ、それはそうですが……そんな言い方ひどいです! わたしは吸血鬼なんかじゃありません!」
想像上の生き物のそれではないと断言したラエルは、憮然とした表情を見せた一瞬の後、困ったように俺の左手を――流れ出る血を見つめた。
「でも、一緒かもしれませんね。あなたにそう思われても仕方ないのかも……今からしようとしていることを思えば……」
「いやいや、俺、思ってないから。今晴天だし、おまえ十字架嫌いじゃないし、にんにくの匂いがおまえからした覚えは無いけど、別に嫌いそうじゃないし、腕輪とか首飾りとかはまがいものの銀だろうけど大丈夫そうだったし……」
全力で否定すれば、ラエルはおかしそうにくすりと微笑んだ。
「……ありがとう、主様」
あまり痛くないように血が出過ぎないようにと最低限の傷だけを作ったが、放っておいたせいで滴るほどの血が俺の手から流れていた。
そんな俺の手を掴んだラエルは、一度俺を見た。申し訳無さそうな眼をしているラエルに一度頷いてやると、ラエルは俺の手に吸い寄せられたかのように近付いて、口に付けた。
目の当たりにした光景にはっとして、俺は驚いてあさっての方向を見た。指にかかる息遣い。目を閉じて黙々と舐めるラエルの舌の暖かさ。
ともすれば、まじまじと見つめるばかりか邪な考えが浮かんできそうなこの状況に、俺はできるだけ深く何も考えないようにして、ラエルが何故こんなことをしようとしているのかを極力考えようとした。――が、何も思いつかなかった。
「……俺の血をどうするんだ?」
指に一舐めして終わりかと思っていたのに、ラエルは俺の様子を窺うようにして流れ出る血を黙々と啜っている。
そんなに深く切りつけたわけじゃないから勢いよく血は出ない。流れる血を少しずつ吸うようにラエルが俺の指に触れているままだから、あえて気をそらそうとしなければ、妙な気分のほうにばかり傾いていってしまいそうだった。
「まさか美味しいとか思ってないよな?」
気を紛らわせようと頑張って冗談を言ってみる。思ってもいない『吸血鬼疑惑』をさも捨てきれていないかのように俺が茶化してみれば、ラエルはむっとしたように眉を吊り上げ、一度俺の手から離れた。
「まずい、とは言いませんけど……」
口元を抑えるように片手を当てて眉根を寄せたままのラエルが、俺を見上げた。
「いいですか、主様? わたしにあるらしい魔力は髪を黄金色に染めてしまいますが、実際のところわたしの『血』に宿っているらしいのです。ですから、こうして人様の血を啜れば、わたしの血の魔力は薄まるかなと思ったんです」
改めてラエルを見れば、見事な黄金色は相も変わらずに見えて些細な変化が起こっているようには見えなかった。
が、そんなことよりも、俺はイイことを聞いたと、思わずほくそ笑んだ。
「なるほど? ――おまえの体を作り変えたら良いわけだ?」
にやりと微笑んだ俺が何を思いその隙を窺っているとも知らず、ラエルは不思議そうに眉根を寄せた。
「作り変えたらって、そんな言い方は――っ!?」
ラエルがはっと息をのむよりも前に、俺は彼女の体を抱き寄せた。
「つまり……ラエルの体の血を薄めたら良いんだろう? 『俺のモノ』で」
にやにやと笑う俺に、ラエルが俺のすぐそばに見えた頬を赤く染めた。ラエルは慌てて腕を伸ばして俺から距離をとろうとしているらしかったが、俺は気にせずにもっとラエルに近付いた。
口付けると、少しだけ俺のモノらしい血の匂いがしたが、かまわずに続行する。が、ラエルは、俺の予想以上に抵抗しようとしていた。それは、未だかつてないことだった。
「……主様! なんで、よりにもよって今!!」
「手伝ってやっただけだって」
しれっと言えば、ラエルがいつも以上に声を荒げた。
「だめっ!」
言われたところで、と言う言い分は……俺が男だからなのだろうか。
そもそも、この場所に駆けてくるきっかけになってしまった腕輪の存在さえなければ、思いが通じたことを実感するためにラエルとの口付けをもっともっと堪能する気でいたのだ。ラエルの抵抗なんて、肉体的にも精神的にも痛くもかゆくも無かった。
口付けに満足してもラエルを離したくなくて抱きしめたままでいると、ラエルが「もうっ」と、俺の肩あたりをたたいてきた。
「いてっ」
条件反射に呟いたものの、全然痛くなんて無かった。ラエルもそれがわかっていたのだろう、くすくすと笑い声を上げている。俺はラエルを抱きしめたまま、丘の上に寝転がった。当然、体格差を考慮して俺が下で、ラエルが俺の上だ。
視界が変わった拍子にラエルが驚いて俺に抱きついてきて、身を硬くしていた様子だったが、しばらくそのままの体勢でいたら、体の力を抜いて俺に体重を預けてくれた。