「秘めていたもの」3
握られていた手を払い、俺はその手を引っ張った。俺の座るカウチの方までくっついて来た体を加減もせずに力任せに抱きしめたときには、ラエルは身を震わせてしゃくり上げるほど泣き始めていた。
服が濡れる冷たさを感じたが、そんなことすぐに気にならなくなった。
俺の背や胸辺りに回ったりする何かの存在は他でもない俺のものとは違う手の平で、その感触があった。服が掴まれて、縋ってくるような指先の動き。触れ合ってゼロになった距離の中、漏れる吐息は直接響くようで耳に心地よく、お互いの体は熱を持ったように熱かった。
夢見るような心地でひとしきり抱きしめてから、俺は背に回していた両腕の片方を解き、その手でラエルの顎をそっと持ち上げる。
「未練たらしくおまえを思い続けている俺の答えなんて、一つに決まってるだろ?」
馬鹿だなと呟けば、ほろりとまたラエルの眼から涙が零れ落ちた。流れていくその軌跡が美しく、泣き笑う彼女の表情がそれ以上に綺麗で俺は吸い寄せられるように近付いて、その涙を掬う。舐めれば、僅かに塩気がした。
頬の下に落とした唇をそのまま涙の跡を追うように口付けていく。
柔らかな頬に、つぶらな目を覆う瞼に、涙の跡が残るこめかみに――飽きるほどそれを繰り返して、最後に額に優しく口付けてから、俺はすっかり泣き止んだ様子のラエルに笑いかけた。
「おまえがどんな存在でも関係ない。俺がおまえの主である限り、おまえは俺のラエルなんだから」
「主様……」
調子が戻ってきたらしく、またその呼び名で俺を呼ぶ。
つい出鼻をくじかれたように思えてしまい、それを誤魔化したかった俺は苦笑にも似た笑いを浮かべてしまった。
「俺が言ったことだけどさ。――今は、それ、言うなって」
顎元に伸ばしていた手でラエルの唇に触れれば、ぴたりとラエルの動きが止まり、頬を紅く染めてくれた。俺が何をしようと思っているのか感付いたのかもしれなかった。
腕の中の体が僅かに身じろいだような気がしたが、なんてことはなく俺の片腕の力に及ぶほどではないもので、やがて身動きを止めたラエルは困ったような目で俺を見上げてくる。先ほどまで泣いていたその眼は魅惑的に潤んでいて、背筋を走る何かを感じて俺は体が奮い立つかのようだった。
ごくりと息を飲む音がしたかと思うと、それを皮切りにラエルがゆっくりと目を閉じた。
「ん……」
触れれば、彼女の吐息が甘く響く。
四年前の告白のとき以来の口付けは、俺のものとは違う柔らかさが変わらずにあった。閉じていた目を薄く開け、ラエルが大人しく目を閉じてじっとしているのを目で確認した俺は、彼女の頬に置いていた手をずらして頭巾を外すと、現れた柔らかな髪を撫でた。前に見たときよりもまた赤みを増した茶色になっているような気がした。
息継ぎの間に角度を変えて、また触れ合う。口付けを楽しみ、彼女の髪の滑らかさや指どおりすら楽しんでいると、口付けたままのラエルが笑っている気配がした。
「な、なんだよ?」
気になって口付けを止めれば、思いっきりクスクスと笑われてしまった。
「――もう。ぼさぼさになっちゃったら、ロア様のせいですよ?」
ラエルは文句を言う割りにはおかしそうに笑っているようだった。
そんな表情をしているラエルと口付けていたときそのままの距離でいるのはとても新鮮な思いがしたが、一度目はあのときの告白のときで、今が二度目なのだから、慣れたような感覚では逆におかしいことに気付いた。
額と額を寄せ合えば、ラエルの微笑みが変わる。苦笑から、恥ずかしそうな笑みになり、やがては困ったような微笑みへと。
何に対して困っているのかは知らないが、困ったように眉根を寄せて微笑んでいるその表情が俺は好きだった。――もっと困らせてやりたいと、常々思っていたのだから。
触れ合わせていた額を離して、にっこりと満面の笑みを浮かべてから、俺は再び彼女に近付いて――迫る。ラエルは何の躊躇いもなく俺を受け入れてくれた。俺の思惑はだまし討ちといえるような気もしたが、言質に近い言葉を耳にしていた俺に恐れはなかった。
再開した口付けの合間、俺はおもむろに舌で彼女の唇をぺろりと舐める。閉ざされていたはずの唇は僅かに力を失い、俺の進入を簡単に許してしまった。
暖かい口内に、俺は我を忘れた。そろりと入り、確かめるように辺りを探ったくせに、いざ彼女のそれを見つけてしまえば、すぐさまに追いかけて逃げ場など無い彼女を追い詰めてしまった。
何度も言うが俺は彼女と口付けたのは二度しかない。何度もしたのだって今が初めてだし、どうすれば良いのかわからない……とは言わないが知識だけがあるだけで、他にしたい相手もいなかったし、興味本位で女を買いに行くような真似はしたくなかった。ラエルという恋う人がいる俺に必要とは感じなかったし、それをラエルに知られてしまえば気まずい以上の思いをするとわかりきっていた。だから、今まで男女の口付けをしたくても出来ないわけだったのだ。
今初めてラエルにそれを行っているのに、不思議と俺は取り乱していない。それ以上に無我夢中なせいだろうか。それとも、やっぱり本能がそれを知っているのだろうか。
俺はさっきまで髪を撫でていた手をラエルの後ろ頭に回していて、もう片方の手はそのままラエルの細い腰を抱えるように抱きしめている。いつの間にかラエルを逃がさないようにしていたようで、俺の本能は恐ろしくしたたかだった。
俺もラエルも、いつの間にか呼吸がままならなくなって肩で息をしていた。繰り返す呼吸は限りなく熱を持ったもので、口付けの合間に漏れ出るラエルの声は常とは明らかに違っていた。力を失っていくラエルのまるで眠たそうにとろんとした目は、俺に女という異性を意識させるものだった。
変わり行くラエルの姿と行為の音と相まって、気が急いてしまいそうになる。体の一部がまずいことになっていることは既にわかっていたが、とてもじゃないが口付けをやめようと言う思いにはなれなかった。
俺はその先を考えないようにして目を閉じた。意思を持って彼女との口付けを存分に味わった。
(――どうか、このままで……)
離れたくなかった。憎からず思ってくれているのだとわかっただけに、今までの想いが爆発しそうだった。……けど、そんな言葉自体『物は言いよう』なだけで単にやめれないだけだった。ずっと、こうしていたかった――したかっただけだ。
ラエルが泣きそうな声になっている。いや、泣いているのかもしれない。俺は今どう考えても自分よりも無力な相手に襲い掛かっている。自分よりも強力な相手に身動きを封じられた彼女は、さぞかし怖かろう。恐ろしいだろう。
(俺は、嫌われたくなんてないのに――)
その瞬間、突如放たれた衝撃――激しい波のような熱が痺れを伴ない俺を襲った。
「――うぁっちいいいいいいい!!?」
「――痛っ!?」
俺はすぐさまラエルの体から離れると一番痺れている手を確かめた。両手だけではない、体全身が火傷したかのような熱ととても巨大な静電気が身に走ったかのようだった。耳をすまさなくてもぱりぱりだのびりびりだの、未だ体内にそれが残っているような音がする。
熱を逃そうとして手をブンブン振り回しつつ、俺はラエルの左腕を見つめてやはりと唇を噛んだ。ラエルの着ている衣服の袖の下、銀の細工が美しい彼女の腕飾りらしきものが淡く光を発していたのだ。
と、そこで、俺は情けなくも悲鳴を上げてしまった一瞬のとき、当のラエルの声を聞いたことを思い出した。
「ラエル!?」
「――っつ」
見れば、カウチに横たわり痛みに耐えるように眉根を寄せてラエルは息を殺している。慌てて駆け寄ったものの、何故ラエルまでそんな表情をしているのかがわからなくて、俺は焦った。
「どうしておまえが、腕輪の――?」
「そのほうが、効果的だと思ったまでのこと……久しいな二人とも」
部屋に響いた声は、以前聞いたものとは寸分変わらない人の声とはとても似つかない人外のような声色。――突如放たれた電撃の原因は、ここしばらく交信を控えると宣言していた腕輪の主直々のものだったのだ。