「少年ロアーツと、主と呼ぶ少女」3
ある種の喧嘩別れをした翌日、半ば予想していたとおりの事態が、居間で俺を待っていた。
現れた俺に対峙する母の姿と、その母の後ろに控えているラエルと、そんな俺たちを傍観する格好でいる父の姿があった。
俺はそれを見て、両親たち二人のそれぞれの仕事は良いのだろうかと、何故なのか比較的どうでもいいことに思い当たった。……まあ、仮にそれを言い出せば、俺やラエルだっていつもどおり学舎に行かなければ行けなくなるので、あえて俺は何も言わなかった。
今朝の俺は、誰にも眠りを妨げられなかったから、当然のごとく朝寝坊している。そのため、俺がひとりでに起きる時間帯――いまやお昼に近い頃合であるというのに、誰にも戸惑った様子はないのだから驚きだった。
今日一日、我が家にいる人間の全員が、俺とラエルの呼び名問題に時間を割くつもりらしかった。
「遅かったわね、ロアーツ! よくもまあわたくしのラエルちゃんを泣かせましたね?」
先手は母だった。母の声は異様に冷たくて、やはり、どうしようもなく俺にとって不利な一点をついてくる。
ラエルの目元は、誰がどう見ても赤く腫れ上がっていて痛々しかった。
(可哀想に……)
そう思うと同時に、誰がどう考えても俺のせいだということが、十分すぎるほどわかっていた。
「……ごめん。ラエル」
ラエルは俺の言葉に反応したようだったが、何も言わなかった。
「母は見損ないましたよ。この件に対し、決してあなたに味方しませんからね!」
母はじろりと俺を睨んだかと思うと、唐突に部屋を出て行ってしまった。
予想していたよりもやけに説教は短かった。
「――ああ、母さんなら、おまえの朝食を用意しに行ってるんだろう」
「はあ?」
母が出て行ったのを見送っていた俺は、父を見た。驚いたと言うより、拍子抜けしそうだった。
「朝食って? しかも、俺の? ……味方しないって言っておいて?」
「それとこれとは話が別らしいな。本当に、母親とは複雑な生き物だよ」
感慨深げに呟いていた父が、ふと俺に視線を向けてくる。
「……それで、まだ話は終わっていないぞ。ロアーツ?」
にやにやと笑う父の眼が、俺を見定めるかのようにすっと細くなった。
「まず、父さんはどっちなんだ? ラエル側なの? ……それとも?」
「わたしとしては、ラエルの涙の一件を聞いてみないと、なんとも言えないな」
やはり、父としても彼女の腫れた目元には見過ごせないものがあるらしい。逆の立場なら俺だって見過ごせないのだから、当然といえば当然なんだけれど。
「父さん。言っとくけど、俺はラエルを無理やり泣かせたわけじゃない。それに、口喧嘩してるつもりもない。ただ、ちょっとだけ意見の食い違いがあっただけだ」
「――意見の食い違い?」
父は半信半疑に呟いている。
「そうだよな、ラエル」
「……はい」
ラエルが小さく頷いてくれたので、俺は少しだけ安心した。口をきいてくれたことが事の外嬉しかったのもあったし、やっと話が進められそうだったからだ。
「それで、昨日の話の途中、ラエルが『感謝しているから』って言ったんだよ。俺に対してな。今朝になって気付いたんだけど、もしかして、ラエルが『あのこと』を勘違いしてるんじゃないかって」
「へぇ。彼女が勘違いを?」
父があまりにもわざとらしい声と言葉で俺をあおる。父の飄々としている態度に、俺はイライラした。
(知らん顔しやがって!)
「当たり前だろ! 俺がラエルに感謝される理由なんて、一つしかない。それに関しては、父さんと母さんが一番に知ってるだろ!?」
「おいおい、怒鳴らなくてもいいだろう?」
今度は逆に取り成そうとしてくる父。が、そんな反応を見ても、苛立ちは引いてくれない。――どうしようもなく、あのときの無力感を思い出してしまう。
(あのときだって、今だって。俺には何も出来ない。俺自身の力では何も……っ!)
これ以上父を見ていたら間違いなくキレてしまいそうだったので、俺はラエルに向き直った。
「ラエル。聞いて欲しい。――あのとき、ラエルを助けたのは俺じゃないんだ。父さんと母さんで……俺じゃないんだ」
俺とラエルとの間には、血の繋がりなんてものはない。恐らく、父と母との間にも無いだろう。――なのに、何故同居しているのかと言うと、元旅人の少女であるラエルが街に訪れたそのとき、たまたま出会ったのが俺だったからだ。
あのとき、街の勇志で結成されている自警団の男たちに詰問されて、少女はただただ困りきっていた。
「ラエルは、あのときのごたごたで忘れてしまってるかもしれない。でも、俺は覚えている。俺がおまえを助けたんじゃなくて、俺が――『リーグル』の家の『ロアーツ』が、周りの大人たちに言い張ったからこそ、父さんと母さんが何とかしてくれたんだって……」
俺と父と母が名乗ることを許されている『リーグル』の名は、街に住む者ならば誰もが知っている、街の『三邸宅』を意味する家名の一つだった。三邸宅は、エルズの街にとって重要な役割りと使命を持つらしく、色々な力としがらみとを併せ持っている。
といっても、邸宅の当主はあくまで母のみだった。しかも、邸宅『リーグル』の継承は、世襲制ですらない。俺は、たまたま継承者として相応しい現当主の母の子だから、その名を名乗っているだけでしかない。
だから、あの日、初めて出会った少女が心底困り果てていても、俺には何も出来なかったのだ。俺自身には、何も。どうしようもできないまま、成り行きを見ていることしか出来なかったのだから。
いつの間にか、居間に戻ってきていた母が父の傍らに立っていて、二人して俺とラエルを見つめていた。当初はラエルの味方ばかりかと思っていたけれど、どうやら傍観者を決め込んでいるらしかった。
ふと、ラエルの様子を見やる。視線をきょろきょろと彷徨わせていたラエルは、俺と眼が合うと、居たたまれないかのように肩を竦ませるのだった。
「あの……」
ラエルの声が聞こえて、俺はてっきり『わたしの勘違いでした』とでも言ってくれるだろうと、楽観した。
「わたし、そのことなら覚えています。――すべて知っていますよ?」
「へ?」
ラエルの言葉に、思わず、間抜けな声が出た。
「ど、どういうことだ?」
「先日、レフェルス様にもルレッセ様にも申し上げましたけれど、わたし、あのときのことを覚えていますよ? 多分、あなたよりも正確に」
父と母それぞれに視線を向けてから、ラエルは俺に向き直り、薄く微笑んだ。
「行く当ても無くたどり着いたこの街で、わたしは門前払いされそうになっていました。わたしを取り囲む人々の視線。けれど、よくよく見れば、自警団の門守役の人たちも、周りで成り行きを見ていた人たちも、皆が困っていたようでした。……恐らく、規則としてわたしは追い出されようとしているのだと、いつしか、わたし自身にもわかっていました。同情的な視線、申し訳なさ、後ろめたさ。そんな感情があの場を渦巻いていて。ある種の一触即発的な雰囲気を、あのとき、あなただけが壊して下さったのですよ?」
≪――おい、門守のオジサン、みんな!≫
≪――こんな女の子一人に何やってるんだよ!!≫
ラエルの言葉を聞いて、俺は当時の記憶を思い出す。
あの日、たまたま通りがかっただけの俺は、野次馬連中を押しのけて、そうやって周りの大人たちに食って掛かったような、そんな気がしてきた。
「え、えーっと……。そうだったような、そうじゃなかったような……?」
思い出してしまったような気がする。
とはいえ、今更それを認めるのも忍びなかったので苦笑いしていると、父と母が大げさに肩をすくめて見せた。
「……どうやら、おまえの方が勘違いしていたみたいだな。ロアーツ」
父がにやにやと笑っている。
「我が息子のことだから、どうせ忘れていると思っていたわ」
母は「ごめんなさいね」と囁いてラエルを見やった。ラエルはラエルで「いいんです、わたしは別に……」とか呟いている。さっぱりわけがわからなかった。
「そもそも、わたしの質問に答えていないしな。――で、ロアーツ? 結局、昨夜ラエルが泣いた原因は何だったんだ?」
俺があっと言う間もなかった。上手い言い訳を考え付くよりも先に、ラエルに真実を告げられてしまった。
その、子供じみた理由を。
「実は……嫌だと、言われてしまっただけなんです」
言葉が続かない。俺は居たたまれない思いで、二人を見た。父と母も固まっていて、恐らく絶句していたようだった。
「……呆れた。どっちもどっちね」
母の呆然とした声は、すぐさま父の笑う声にかき消された。
若干言い回しを訂正させていただきました。すみません。8.23