「御機嫌伺い」1
待ち望んでいた休日を得て、俺はコーラルを連れてリーグルの邸へとやって来た。
迎え出てくれた母には「ラエルと会いたい」と言ってラエルの様子を窺ってもらうように頼み、俺たちは玄関のすぐ近くにあるちょっとした庭先の前で待つことにした。
何しろ、約束無しの突然の訪問であるのだから、ラエルに会いたくないと言われてしまったらそれまでだった。
俺の意図を理解し、俺の部屋に行きたいなどと文句を垂れるわけでもなかったコーラルが、言う。
「……しばらくの間に変わったよな」
「は? 何がだよ?」
「何がって聞かれると漠然としてて答えにくいけど」
呟いたコーラルが、ふと俺に目を向けてくる。いつも見ているような笑顔とかふざけているような顔ではなかった。
「おまえだって変わったよな。ロア。俺と同じように何も考えずに馬鹿やってたはずのおまえが、突然学舎を辞めるわ、この邸を飛び出すわ。何をするかと思ったら、あの『ヴァレン』に入門騒動。難関なはずの正規の試験におまえは運良く合格してるし。しかも、四年もそれを続けてるしさ……」
元悪友であるコーラルの言葉は、意外すぎて、俺を落ち着かせなくした。
コーラルは幼少時代からの、ラエルよりも長い付き合いをしている。それこそ、何をするにも一緒だったし、嬉しいことや悲しいこと、叱られたこと、それら全ての時を共有してきた相手なのだ。友人、親友を通り越しての、唯一の悪友と言いきれる人物だろう。そんな相手に、感慨深げに語られて見つめられてなんて、街を騒がすやんちゃ坊主であった『俺たち』らしくなくて仕方なかった。
柄にも無い雰囲気を壊したくて、俺は笑った。
「案外、俺には『この道』しかなかったけどな」
悩む日々もあるけれど、後悔はしていない。
思いつつ、自信有りげに言えば、コーラルもぷっと吹き出して笑った。
「やっぱ従兄弟だな! ケインも言ってたぞ、それ。体力馬鹿のロアらしいよなって」
「体力馬鹿って……。確かに、俺のやってること諸々はカラダを鍛えなきゃ話にならないけど」
「『誘拐事件』のとき、悪党と戦ってほぼ無傷だっただろうが! あれ、俺たちの中で伝説になってるからな?」
ラエルの『迷子』自体は、街警備の関係者以外には巧妙に隠しきれているものの、あのとき起きてしまった『誘拐事件』のことだけはそうはいかなかった。街を上げての捜索隊が組まれたほどの大騒動だったため、うやむやに済ませることは出来なかった。
結局のところ、現場の第一発見者である俺が悪党を追い払い、攫われかけたラエルを保護した。――そんな、根も葉もない噂だけが残った。
(――情けねーよな。攫われかけたはずのラエルに助けられてしまったのは、俺の方なのに)
その噂話を認めることも否定することも出来ない俺には、こんなとき苦笑いを浮かべることしか出来ないのだ。
「ロア?」
精一杯苦笑を浮かべていると、母の声がした。見れば、玄関先にいる母が呆れたように俺たちを見つめていた。
「ロアーツ? まさか、ずっと外にいたの? てっきり部屋にいるものと思っていたのに。おかげで探したじゃないの……」
ぶつぶつ文句を言う母の様子に、俺とコーラルはお互いの顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
昔々、こんな風に二人して母に怒られたような気がする。俺の反応もコーラルの反応も正にそのときの再現のようで、俺が思うにコーラルも、母も、その頃のことを思い出していてもおかしくはないような、共感めいた空気があった。
「本当にお待たせしました。支度に手間取ってごめんなさい」
母の案内と共にラエルの部屋に入ると、ラエルはカウチに腰掛けているわけでもなく寝具に身を起こしたばかりの格好のまま俺たちを出迎えてくれた。
「おい、その格好……」
思わず口に出てしまった文句は、最後まで言えなかった。ちらりとコーラルの様子を窺う。コーラルもコーラルで苦笑いを浮かべてしまっていた。
ラエルは寝巻き姿だった。見覚えのあるというほどその姿を見たことがあるわけではないけれど、ごく普通の基調的なものだったから、多分コーラルだってすぐにそれがわかっただろう。俺とコーラルは、恐らく同時に焦ってしまっていた。
固まった俺たち二人を見たラエルは不思議そうに首を傾げ、母はそんな俺たちに気にも留めなかったかのように、テーブルにティーセットを並べ始めた。
「ああ、コーラル君は知らないんでしょうけれど、しばらくの間、ずっと臥せっていたのよ、ラエルちゃんってば。わたしの言葉なんか全然聞いてくれないし。――いいこと、ロアーツ。おまえからも、きつくラエルちゃんに言い含めておくのよ」
それじゃあごゆっくりねと、言うだけ言って、母は出て行った。
言葉を残されたコーラルも俺も、とりあえず母が用意した茶を飲みつつ、どうしたものかと再び顔を見合わせてしまった。
まず、コーラルが言った。
「深刻そうだな、おい」
どう応えていいものかわからなくて、俺はコーラルに何も言わなかった。
確かに、あの日のラエルははさみを持ち出そうとするほど錯乱していた。
だけど、あれから何日も経っているし、あの日から何も連絡を受けていないし、家に来てラエルに会いたいと母に言ったときも、母は別段いつもと同じ様子だったから、――だから、俺は楽観的な思いでいた。心配じゃなかったわけじゃないけれど、悲観的なことを考えるよりかは、元気付けてやりたいとか、笑わせてやりたいとか、そんなことばかり考えてしまっていたのだ。
でも、まさか、未だに床に臥せっているままとは思いも寄らなかった。
「お二人ともどうしたんですか?」
思い悩む俺と黙ったままでいるコーラルに、ラエルは不思議そうな顔をした。
ラエルが臥せっていたという事実にショックを受けて、未だ発言できそうになかった俺よりも先にコーラルが立ち直ったらしく、いつもの脱力感めいた空気を醸し出してラエルに話しかけた。
「ラエルちゃん。ロアから落ち込んでるって聞いたよ? 大丈夫?」
ラエルの目が見開かれて、その動きが止まった。
「え……ロア様から、聞いたんです?」
コーラルの前だからなのか、ラエルは躊躇うこともなく『俺の名』を呼んだ。
ラエルに主様と呼ばれ始めてから数年が経ったが俺に対する呼び名に関しては、ラエルにとって譲れないこだわりがあるらしかった。
俺と二人、もしくは俺と両親達の四人でいるときは、ラエルは俺を相変わらず主様呼ばわりするのだが。――しかし、時と場合とその相手によっては、時たま、ごく僅かな間のときだけ、俺のことを昔のように『あだ名』呼びするのだ。
とはいえ、この条件に叶う相手は少なく、俺の幼少時代の友人たちの筆頭であるコーラルやケインくらいにしか発動されないが。
ラエルが俺のことを密かに『主様』などと呼んでいるなんて知らないコーラルは、ラエルに笑顔を浮かべたままぞんざいに俺を指差した。
「この間、街の巡回役だっただろうに、ロアってばさ、浮かない顔して落ち込んだまま歩いてたんだ」
「え?」
ラエルが驚いたように顔を上げてコーラルを見つめた。俺もコイツは何を言い出す気だろうと思って、コーラルを見つめ返した。
勿体つけたようにゆっくりと喋るコーラルは、笑顔のままだった。俺にはそれがにやにや笑いにしか見えないのだが。
「辛気臭いから、仕方無しに何かと思って聞いてみたんだよね。そしたら、ラエルちゃんが落ち込んでるって言うもんだからさ。まあ、俺には直ぐわかったんだけどね。どうせロアがラエルちゃんに酷いこと言ったんだろうって。ね、そうなんでしょ?」
「いえ、その……そういうわけじゃ、無いんです」
コーラルの言葉に、ラエルは顔を俯かせてもじもじとしていた。
僅かとはいえ、ラエルから言葉を引き出したコーラルがふと息を吐いたのがわかった。よくよく見れば、体に妙な力が入っているのが見て取れた。何気ない会話なはずなのに、コーラルは必要以上に会話運びに集中しているのだ。話の行く先を誘導するために。
「そうなの? ――でも、それにしてはラエルちゃんってば、落ち込んでいるままなんじゃない? もしかして何か、他にも、悪いことでもあった?」
「あの……いいえ……」
俯いたままのラエルは、否定しながらも、やがて押し黙った。恐らく、まだ、あの噂のことを気にしているに違いなかった。
こうなってしまうと、噂のことを知らず、話すわけにもいかない相手であるコーラルには、為す術は無いように思えた。実際、コーラル自身それ以上を聞くことを躊躇っているようで、沈黙が広がっているままだった。
明言を避けるラエルの理由もわかるだけに、どうすべきか俺はこの場においても迷っていた。
(俺が馬鹿みたいに謝り倒すより、話の上手いコーラルにこの場を任せたほうがいいに決まってる。でも……)
認めたくない思いが、俺を惑わす。
俺にだって適材適所とか、役割りとか、得意不得意の意味だってわかるけども。
「埒が明かない。これまでだよ、ロア」
笑顔を絶やさずにいたコーラルが、ふと表情を消して言った。
やんわりとうららかな会話を続けていた人間とは思えない口振りに、名を呼ばれた俺ばかりか、ラエルまで驚いた表情で、コーラルを見ているようだった。
俺とラエルの視線を受けても全然物怖じしないコーラルは、俺にきっぱりと宣言した。
「ラエルちゃんには突然ですまないんだけど……この間の約束を、今、ここで守ってもらう。――というわけで、ロア、出て行け」
コーラルの今までに無い弁舌を前に、俺は為す術も無く、ラエルの部屋から一人追い出された。