「不吉な噂」3
ヴァレンタイン邸にて屋内武芸の通し稽古中、兄弟子の一人が、たった今の間も俺と手合わせの最中だというのに、不思議そうな顔をして俺に囁いてきた。
「いつものキレがないな、ロア」
「……ちょっと、悩み事があってね。ルード」
竹刀の攻めをかわしつつ答えると、俺の兄弟子の一人であるルードは、更に訝しげに眉を寄せた。
「単細胞なおまえが、悩み事? 不吉だな、冗談は止めて欲しいね」
「柄にも無いってことはわかってるけど、今、不吉って言われるのはちょっと堪えるな……」
「相談に乗るぜ、相棒。――それか、そんなこと考えられないくらい、滅多打ちにしてやろうか?」
ほんの一瞬の隙を見せた途端、ルードの持っていた竹刀が、俺の額に当てられていた。
両手を挙げて降参をした俺に、ルードが面白そうににやりと笑った。
「おまえの片耳の相手が、落ち込んでる?」
学舎出身のヴァレン流技者ならともかく、生粋のヴァレン門下生や、学舎そのものに関係が無い人物や、俺の家族に接点が無い人間は、『元旅人の少女』の話を知っていても、ラエル自体を遠巻きにしか知らないことが多い。
ルードも、聞くところによると生粋のヴァレンの門下ではないが、別の流儀の門下だったらしく、『ヴァレン』を紹介されて最近やって来たらしいので、俺の片耳の意味を知ってはいるらしいが、その相手であるラエルの姿自体は知らないらしかった。
「審査の儀が、俺以上に大嫌いらしいんだ」
この間の別れ際を思い出せば痛ましい彼女しか思い描けなくて、俺はやるせないため息を吐いてしまいそうだった。
あの日以来、リーグルの家にはまだ帰れずにいる。俺は自分で選び進み決めた道筋を後悔してはいなかったが、こういうときは少々歯痒い思いでいた。
守るための力を得るために『ヴァレン』に来たとはいえ、そばにいなければ守れるものも守れないのだから、彼女と会えない日々が続くと本末転倒に思えて仕方なかった。
「審査の儀? それが関係あるのか? 学生の身で、対象者でもあるまいに」
「まぁ、心配性なんだよ。俺の想い人は」
俺は腕立て伏せをしながら、ルードに答えた。
ヴァレンの掟のうちの一つに、『通し稽古の賭け勝負』という項目があり、お互いがそれを理解し了承した場合のみ、その通し稽古の最中での勝負の勝利者は、敗者に自分の望む修行をさせることが出来るというものがある。
どう考えても兄弟子と弟弟子の場合勝敗は最初から決まっているが、掟に組み込まれた正式な伝統である以上仕方がなかった。もとより、弟弟子は強い兄弟子に逆らってはならないとされていて、打ち負かせない兄弟子にはいずれ教えを請わなくてはならず、そうしなければ強くなれないのだから。
十中八九俺もルードも今日の通し稽古の結果がわかっていたから、俺は話がしたいために自分の身が動けばいい自主練の類を希望していて、ルードもそれを了承したからこそ、俺は一人、腕立て伏せなんかをやっているわけだった。
「かくいうおまえの毛嫌いも相当らしいが……。ここの跡取り息子が引っ張られていったときも、相当喚いたんだろう?」
「キリル師範代だろ? あー、あの人もどうせなら『偽者』に引っ張られていけばよかったのに……あの人の場合は王都で捕まったから仕方ないんだろうな」
今から四年前、ヴァレンタイン当主ギルバート氏が雲隠れさせてまで身を隠させたヴァレンタイン家時期跡取り息子であるキリル=ヴァレンも、つい一年ほど前に、ヴァレンタインの家の用事で王都に出向いた際、運悪く生粋の紫の御仁に出くわしてしまったらしく、そのまま王宮に召し上げてしまったのだと、風の噂で聞いた。もしかしたら、国はそのときのことがあってから、この街に来ていた偽者の存在を感知したのだろうか。
(――あーあ、本物が予告までして、こちらに向かうと宣言しているなんてただごとじゃないよな、まったく……)
内容が内容なだけに、俺はそれ以上のことを言葉にはせずに、軽くため息を付いて、腕立て伏せを続けようとした。
しかし、ルードは、その話に興味を持ってしまったようだった。
「偽者だって?」
「ああ、そう。エルズの街、三年毎にしか、御仁が来てなかったんだよ。だから、本物の御仁がお怒りらしくってさ?」
「本物も偽者もあるのか、あれに?」
苦々しげに言うルードに、そうだよなと俺は同意して笑った。
「俺も信じちゃいないし、その情報を持ち帰った父さんも信じちゃいなさそうだったけどさ。でも、ラエルはその話を聞いて取り乱しちゃって……」
「取り乱す? 彼女が何故?」
ルードが驚いて俺を見ていて、俺は話し過ぎてしまったことにたった今気付いた。
「いや、わかんないけどさぁ? 多分、誰かが連れて行かれるのが怖いんじゃないかな。街に慣れたっていっても、まだまだ人見知りなところあるし……」
「だとしても、取り乱すことはないだろう。何か特別な理由があるんだろ?」
門下生の中には筋肉馬鹿とか武芸馬鹿に近い俺のような者も多いが、決して頭の悪い奴らばかりではなく、ルードはどちらかといえば後者に分類される方と言ってよかった。
ルードの追求の言葉に、俺は鍛錬だけのものではない冷や汗を流していた。
「ま、まあ、それは、家人の秘密と言うことで」
「……そんなに、重要なことなら、無理には聞けないか」
苦し紛れの俺の言葉に、ルードは渋々ながら引いてくれたようだったので、俺はホッとした。
「だが、その噂、レフェルス殿が耳にしたのなら、わたしたちの耳にもいずれ入ってくるのではないか?」
「げ……」
(なら、隠し立てる意味も無いってことなのか?)
ホッとしたのも束の間、俺はルードに話してしまおうか迷ったものの、結局話さなかった。
俺の決意が固いと知るや否や、ルードは不服そうに俺を見下ろして「ノルマ増やそうかな」と呟いて見せたが、俺は脅しの言葉に屈せず、それをやりきって見せたのだった。