「不吉な噂」2
部屋に着いた途端、ラエルは、先導するように前にいた俺を追い越してしまって、部屋の中をずんずん進んでいった。
「おい、ラエル!」
走ってはいないが、常よりも歩みの速い彼女はあっという間に、姿見の前に立った。彼女の横幅よりあるかないかくらいの、長さは俺の背丈以上にもある、大きな縦長の鏡だった。
がくりと膝を付くように、ラエルが床に座り込んでしまった。
「どうして……?」
震える声で呟いたラエルは、両腕で頭を抱え込むように小さくなる。
痛ましいその姿に、俺が思わず駆け寄って抱きしめようとしたら、それよりも先にラエルが俺に縋ってきた。
中途半端に片膝を付いた俺に凭れ掛かるようにして、ラエルが俺を見上げた。
「ねぇ、主様。審査は、再来年のはずでしょう?」
「父さんの話だと、偽者に我が物顔されてたから、その腹いせに今度の春……なのかもな」
「――っ、いやっ!」
怯えるように身を震わせる彼女に、俺は彼女の背を撫でて慰めようとした。
「どうして? 何故今になって、『わたし』を……?」
聞き違えてしまったかと思うほど、小さなラエルの声がした。
「ラエル、今おまえなんて――?」
聞き返そうとしたそのとき、ラエルは俺を突き飛ばした。いや、恐らく突き飛ばそうとしたのだろうけれど、結果的に俺は尻もちもつかなかったし、ちょっと体勢を崩しかけただけだった。俺に腕を突っぱねた形のラエルはと言うと、俺との体格差の反動でそれなりによろめいていただろうに、すぐさま立ち上がっていた。
「おい、ラエル?」
「はさみ……」
聞こえてしまったか細い声に俺ははっと息をのむ。その呆然とした呟きが意味する言葉に、俺はラエルが何をしようとしているのかを悟った。
俺に背を向けて、勉強机だろう書物の広げられている机に向かおうとする彼女を、俺は彼女の背中側から抱きしめた。身動きを封じるように。
「主様、離して!」
「ラエル、やめろ! 馬鹿なこと考えるな! そんなことをしなくても、大丈夫だから!」
「いや、いやなの! 戻りたくない!」
「――俺が、守るから! ラエル!」
押し問答を繰り返すうち、いつの間にか、部屋に父と母が飛び込んできていた。
「ラエルちゃん!? どうしたの!」
「――母さん、鎮静薬を! 早く!」
暴れるラエルの姿と取り押さえようとする俺の姿に二人は狼狽したようだったが、すぐさま母は部屋を飛び出していった。
立ち尽くすばかりの父は、俺たち二人を呆然と見ているようだった。
「ラエル……君は……っ!」
父が何かを呟いたようだったが、俺はそれに構っている暇なんて無かった。
「父さん、手伝ってくれ!」
「あ、ああ」
やがて、到着した母の手にしていた薬を使い、しばし、ラエルは眠りについた。
頭巾をしていないままの姿で眠るラエルを、母がそっと撫でている。
父と俺は、そんな二人を、一歩下がった場所で見つめていた。
「ねぇ、ロアーツ。ラエルちゃんは、どうして……?」
「わからない。父さんの話した噂話を聞いた途端――だったから」
「そう……」
気づいたときには、母は泣いていた。
「この子は、一体何に苦しんでいるんでしょうね。一体、何を恐れて……」
父と俺とが知る迷子騒動のことくらい、いまや母だって知ってしまっている。
けれど、俺のみが知る腕輪の秘密や眠る少女自身の名前のコトだって母は知らないはずなのに、その少女の抱える深い闇を恐れ、母は体を震わせて泣くばかりだった。
「ロアーツ」
父が、今度は俺を呼んだ。
「仕事だろう?」
「うん」
今日は半日休みで、明日の昼過ぎまで不寝晩の見回り任務を引き受けていた。
母が、驚いたように、今度は俺を見据えていた。
「代わりはいないの? あなた、全然休んでいないじゃない」
「本当は、朝食食べた後仮眠を取るつもりだったんだ。だけど、今更寝れるわけないし……、ついでだから、警護の役目やりながら、どうしたらいいか何か考えてみるよ」
「そう……」
母の眼が何かを語っていたが、俺はそれに気付かなかったふりをした。
母の横に並ぶように一歩前に出て、俺は眠るラエルに近付いた。どうしようか迷ったものの、僅かに『陽の色』の髪に触れて、頭を撫でた。起きなければいいと思いつつ、起きて欲しいと思いつつ。
俺が触れて、ラエルは少し身じろいだように見えたけれど、結局目覚めなかった。
「じゃあ、ラエルを頼むよ」
名残惜しい思いのまま、俺は身支度をするために自室に向かい、支給されていた仕事着に着替えて、家を出た。
「元気ないなー、ロア。どうしたんだよ?」
街の見回り中に出会った悪友の姿に、俺は、なぜか救われるような思いがした。
見覚えのある学舎特有の男子の制服姿を着ている俺の幼馴染の一人は、不思議そうに俺を見ていた。
「コーラル。久しぶり」
「俺は久しぶりでもないけどな。実は、俺、ロアが詰め所前で立ってるの、『たまーに』見にいってるんだぜ?」
こっそり行ってたから知らなかっただろうと笑うコーラルの顔を見ていると、俺は、なんだか体から力が抜けていくような思いだった。
(昔から、コイツは脱力系と言うか。こういうやつだったよな……)
俺は思わず目を細めてコーラルを見てから、せっかくだからと思って、ラエルのことを当たり障りない程度に喋ってみることにした。
「……実は、ラエルの元気が無いんだ」
「な、なんだって!?」
コーラルは、予想道理飛び上がるかのように驚いて、俺を見返してきた。
「ロア! おまえ、酷いことしたんじゃないだろうな?」
「何で俺が酷いことしたって前提なんだよ! ……ちょっと、あってな。俺も両親達も、慰めようにもどうしたらいいかわかんなくて困ってんだよ……」
「慰めるったって、簡単じゃねぇか」
こともなげに言われると、ついムッとして、俺は人の気も知らないでと、事情を語れない身の上なのに腹が立った。
「簡単じゃねぇんだよ!」
「いーや、簡単! 彼女を心配する気が俺の『次』にあるロアなら、大丈夫だ! ――な?」
目から鱗とは、まさにこのことを言うのだろうと、俺は思った。
コーラルが、にやりと思わせぶりに俺に笑顔を向けている。
「……もしかして、おまえ……」
「ほら、ロア、おまえもちょっと元気になっただろ? ――ったく、警護の見回りの任務の最中のくせに辛気臭い顔しやがって! 仮にも、恋敵の俺が、仕方無しに元気付けてやったんだから、今度、ラエルちゃんとデートさせろよな?」
「――考えとく」
「へ?」
俺の返事に驚いただろうコーラルが、素晴らしいほど間抜けな顔をした。