「不吉な噂」1
夜市に出かけた翌朝、リーグルの邸に泊まった俺はラエルと共に表面上仲良く朝食を取っていた。
母が、嬉しそうに給仕してくれていた束の間、廊下を歩み寄る音に俺は怪訝に思ってそちらを見ると、どこか疲れたような顔をしていた父が立っていた。
「なんだ、来ていたのか。珍しいこともある」
朝食の場に現れた父は、驚いたように俺を見ていたが、俺だって驚いていた。いないと思っていたはずの父が、何故なのか邸に戻っていたからだ。
「……も、もう帰ってきてたんだ。父さん。幾らなんでも早過ぎないか? 確か、一昨日出発したばっかりだし、目的地である出先って街の森の奥を越えたところにあるんだろう?」
「流石、自警団門守役だな。一丁前にわたしの仕事も知っているとは」
一瞬朗らかな笑みをした父だったが、すぐさま、その表情は暗い笑みに変わってしまった。
「変な噂が広がっているから、わたしだけ先に帰ったんだよ。仕事仲間たちは多分まだ森の中で四苦八苦しているんだろうな……」
父はそう言って、食卓の場、白いテーブルクロスを敷いている長机を前に、ラエルの隣に座った。
対面する形の位置にいる俺は、複雑な思いでそれを見ていた。目の前にいる父が元俺の席に座っているのは、やはり胸に来るものがあった。
リーグルの後を継ぐことを一度も考えたことは無かったし、継ごうとしても頭が良いわけではないから難しいし、植物学自体には勉強してまで知りたいことなんて無かったから、どちらにせよ俺はリーグルの名を捨てる運命にあった。
けれど、やはり居心地のいい実家を出て、新しい場所を求めた俺に、実家暮らしの頃のような待遇は全てがすべて許されるわけではなかった。部屋が残っているだけありがたいし、昨夜のように突然に訪れても追い返されないだけましだった。
そんな感傷めいている俺のことを父は父で渋い顔をして見ているので、またラエルのことで何かを言ってくるのだろうかと身構えた俺だったが、どうやらはずれらしかった。
訝しげた俺を、父が、困った表情で見つめ返したからだ。
「なぁ、ロアーツ」
「……何?」
「おまえは知っているのか、あの噂」
「噂って言われてもな」
実を言うと父がそれを口にしたときから気になっていたが、生憎、見当がつかなかった。
ヴァレンの家に弟子入りし修行に通ううち、俺には『素質がある』らしくこの四年もの間とんとん拍子に稽古の師が変わった。俺に稽古をつけてくれる師連中の皆が皆『素質』云々について満足げに語ってはヴァレンタイン当主であるギルバート氏に報告していて、その氏は氏で『君なら大丈夫だから』だと称しては自警団の任務に就かせてくれたから、俺はヴァレン流技三・四年目にして若輩の身ながらも自警団の門守役や不寝番の任にも就くようになっていた。……これでも、まだ、十六なのに。
父の仕事の出先を知っていたのも、門守役をやる上で手続きに関わることが多くなったから、ちょっとした方面の情報通にはなっていたのだ。
「どんな噂だよ? 街の? 外の?」
街の噂ならば多すぎてわからないが、門守の仕事をやる上で耳にした街の外の噂だろうかと思い、尋ねたら、父は更に困惑した顔をして俺に言った。
「御仁偽者説だ」
「――は?」
二の句が告げなかった。
外は外でも、見当違いもいいところだった。
「御仁って……あの、紫の御仁様ですか? 監査の?」
黙ったままでいたラエルが、興味を引かれたかのように会話に入ってきた。父に問いかけるように、話の先を促すかのように、その顔を向けている。
「正しくは、王直属の配下であらせられる私兵『審査の儀』担当者だ。本来なら一年毎の儀式であるのに、三年毎にしか来ないのはおかしいと思っていたが……」
「な、なんだって!?」
(――あの面倒臭い儀式が、本来は一年毎!?)
俺は思わず、嘘だろと悲鳴を上げた。
「ある事情で『イライブには一年毎には来れなくなった』と監査人たち皆がそう答えるものだから、わたしたちはそれを信じていたんだが、そんな特例、イライブ地方だけではなかったんだよ。何とこの街にしか、三年毎に来ていないらしい。なんだか、笑ってしまうだろう? 前のボールドさんの一件は何だったんだろうか……」
「……あの、その御仁が偽者だったと、どうして発覚したんですか? ちゃんと、監査人らしく、優秀な者を選び王都に導いていたのなら……」
不思議そうに問うたラエルに、父は、困ったように言った。
「本物を名乗る者が、予告しているんだ。今度の春、神聖なる黄金の娘を王都に遣わすとね」
父の言葉に、俺ははっと息を飲んで押し黙った。思わず、ラエルを見る。予想道理、ぶるぶると身を震わしていた。
「こ、黄金って言ったか、父さん?」
「ああ、言ったとも。まったく、これが皆に知れたらどうなると思う? 王都に行きたいと馬鹿なことを考える娘達が、競って髪を染め始めるぞ。黄金など、どうあっても染め上げることなどできんと言うのに……」
「あの、レフェルス様?」
震える声で、ラエルが言った。
「少し席を外しても宜しいでしょうか。ちょっと、彼に、お話したいことがあるので……」
ラエルが俯いたままの顔を、俺に向ける。父は、見事に勘違いした。
「ああ、あの耳飾りの件か。なんなら、わたしがガツンと言って言い聞かせようか?」
「いいえ、わたしからお願いしてみますから。主様、ちょっと来てくださいますよね?」
「もちろん、俺は意を変えないけどな?」
俺は、ラエルの話しに合わせるように言って、席を立った。
部屋を立ち去り際、俺は、父に確認した。
「なぁ、父さん。さっきの噂、根も葉もない噂である可能性は?」
「どうだろうな。もしかしたら、そうかもしれんがな。そもそも、わたしたちのように渡り歩く連中以外はまだ知らんと思うが……」
「そっか、ありがとう」
廊下を歩き、父も母も俺たちを見ていないことを確認してから、俺は今にも倒れてしまいそうなほどふらふらしているラエルに手を伸ばし、歩き出した。
「ここじゃまずいだろ? 俺の部屋にするか、それともおまえの?」
「わたしの部屋に、行きましょう……」
ラエルは、今にも気絶してしまいそうなほど、真っ青な顔をしていた。