「少年ロアーツと、主と呼ぶ少女」2
ラエルが俺のことを変な呼び名で呼び始めるようになってから数日が経った、とある日のことだった。
件の少女が食卓の間から出て行くのを待っていたかのように、父が話を切り出した。
「ロアーツ。あれは一体何の冗談だ? 何故おまえがラエルに『主様』などと呼ばれている」
(……ようやく、気付いたのか。もう一週間近く経っているのに)
俺はやるせない気持ちになった。
「あれは……俺にだってわけがわからないんだよ、父さん。ラエルにしろ、俺にしろ、悪い夢でも見てるんじゃないかと疑ってるんだけど」
あわよくば父が取り成してくれるかもしれないと企み、父とこそこそ喋っていると、俺の背後に人が立った気配がした。ちらりと頭だけで後ろを振り返ると、食後の後片付けをしていた母が驚いたように俺を見ていた。
「あら? ――じゃあ、あなたが悪趣味な理由とかで彼女にお願いしているわけじゃないのね?」
母の言葉が意味することに俺ははっと息を呑んだ。慌てて体勢を戻し、父と母とを見比べる。揃いも揃って目を丸くしているのを見て、俺は頭が痛くなった気がした。
「……冗談じゃない。どういう意味だ」
我知らず低い声が出た。
まさかとは思った。が、この二人ならば、俺に対して変な誤解をしてもおかしくはなかった。
何しろ、この二人にとっての優先順位は、ラエルが上位で俺が下位。悪いことと変なことは全て俺が企てていると考える二人のことだから、俺がラエルに言わせているとでも思ったのだろう。そんな誤解をされるのはものすごく腹が立った。
「まあ、それもそうよね。普通は名前で呼ばれたいものよね。『ロアーツ』とか。今までみたいに『ロア様』とかね」
母は俺の苛立ちに気付いているのかいないのか、どこ吹く風と言わんばかりにのほほんと呟いた。
「まあ、そうだろうな。元々彼女は物言いが丁寧で、わたし達にまで他人行儀が抜けないのは気になっていたが……、おまえのせいだったんだな。ロアーツ」
父が納得したかのように肩に手をかけてくる。俺はその腕ごと振り払って、睨みつけた。
「違うだろ! 俺のせいじゃなくて、アイツがこだわりすぎなんだよ! 大体俺は――!」
「あらあら。こだわっているというのなら、それはあなたもでしょう? ロアーツ。名前でもあだ名でも呼ばれなくなったからって不機嫌になっちゃって」
「わたしたちに当たるのがいい証拠だな」
うんうんと頷きあっている両親は、絶対に俺の反応を見て面白がっているに違いなかった。ラエルのことを少しでも思うのなら、自分たちも行動すればいいのに、俺に対してはいつもこんな扱い。本当に、たちが悪い。
「――うるさい! 今に見てろよ!!」
両親達に馬鹿にされっぱなしなんて我慢ならなかった俺は、その夜、ラエルに挑むことを決めた。
あれこれ考えているうちにあっという間に夜になって、真夜中になっていた。俺がラエルの部屋に向かった時には、もう夜更けも大分過ぎた時間だった。
出直すことも一瞬考えたが、俺はあえてそれを選ばなかった。
部屋に入れてもらうのは流石の俺も躊躇ったので、止むを得ずラエルに部屋から出てきてもらって、廊下に立って、そのままの状態で話を切り出した。
改めて呼び名問題の撤回を求めた俺に対し、ラエルは嫌味なまでに完璧に不敵な笑みを浮かべている。
「主様? このわたくしに、口喧嘩で勝とうとお思いなのですか?」
ラエルが自信満々なのには理由があった。まさに、れっきとしたものが。
だが、今はそれとは関係ない。そのはずだった。
「あのな、ラエル。確かに俺はおまえに口喧嘩では勝てない。この間からずっと負けっぱなしだ。……だけどな、今の俺はおまえと口喧嘩をしに来たわけじゃない。おまえに主様呼ばわりされる筋合いはないから、止めて欲しいって言いに来たんだよ」
ラエルに交渉すると決めてから、俺は今までの経験をもとに、直球作戦をすることに決めていた。
理想では、言質を取りたかった。けれど、頭の良くない俺が言質を取ろうなんて企めば、逆に彼女の手玉にされてしまう危険性が高く、今までにも何度かその苦しみを味わっているからだった。
「いいえ、そんなことはありません。わたしは、あなたにこそ感謝しているのです」
棒読みとは言わないが、余りにもすらすらと答えられると、本当にそう思っているのかどうか怪しいと、俺は思う。
(――大体、感謝しているのなら、俺の望むようにしてくれればいいのに)
「感謝しているからこそ、あなたを主とお呼びしたいのですよ」
続けざま、俺の思考を読み取ったかのようにラエルが言う。
問答が、幾度も繰り返されて、幾度も俺が押し負けた。
「……なあ、どうしてもか?」
「どうしても、です」
間の取りかた、にこりと微笑むタイミングまで、ラエルのそれは完璧に思えてならない。……そもそも、ラエルはどこでこんな技術を得たのだろうか。
(俺とラエルは一緒に住んでいて、一緒に学び舎に通って、一緒に友達連中と遊ぶ仲であるばかりか、それこそ、四六時中そばにいたのに? ……やっぱり、成績の良さだろうか)
しかし、どれだけラエルの口が上手かろうと、俺にだって譲れないものがある。
だから、俺は、体中にある力という力を振り絞ってその思いを言葉に変えた。
「お、俺は……ロアって呼ばれるほうが……その……嬉しいんだけど、な?」
(――い、言ってしまった!)
あまりの恥ずかしさに、俺はまともに彼女の顔が見れなくて、顔を俯かせてばかりいた。
けれど、ラエルはすぐには何も言わず、声を上げるなどの反応を見せなかった。俯いたままでいる俺は、彼女の様子が気になって仕方なかった。
(一体、ラエルはどんな反応をするのだろう?)
俺は恥じる気持ちを押しやって、恐る恐る顔を上げて様子を窺おうとして、彼女の申し訳なさそうな表情に気付いてしまった。
「あ、あの。――ごめんなさい」
俺は、振られた。
完敗だった。
思いがけず、かなり落ち込んでいると、ラエルが部屋の入口近くから出て来て、廊下にいる俺のそばにまで歩み寄ってきた。
まさに目の前、手を伸ばせば届く距離まで近付いてきたラエルが言った。
「そんなに、嫌ですか」
「嫌」
即答してしまった。
してしまってから、気付く。まるで、駄々をこねる子供みたいだと。……だけど、それは俺にとって紛れもない本心だった。
気まずい思いのままラエルを見やると、窺いがちに見上げてくる眼が、ゆらゆらと揺れているのがわかった。ラエルも、迷っているのかもしれなかった。
チャンスだと、俺は負けん気を奮い立たせた。
「ほら! おまえだって、急に――ラエルって呼ばれなくなったら嫌だって思うだろ?」
はっと息を呑むような気配がして、ラエルが押し黙った。そして、顔を俯かせてしまう。
妙な間があった。
その絶えず続く沈黙の間に、俺はラエルが考え直してくれることを信じていた。
(――ああ言えば、きっと、呼んでほしくないっていう俺の気持ち、わかってくれるはずだよな……)
そして、ふと黙ったままでいるラエルを見て、仰天した。ラエルが、ぽろぽろと涙を流し、泣き出していた。
「ラ、ラエル!? なんで泣いて――っ!」
涙した眼と目が合った途端、揺れる眼の原因に気づく。
原因は、今の今まで喋っていた、俺しかいない。
「――ご、ごめん。ラエル。悪かった。――あ、あの、頼むから、泣くなよ?」
伸ばした手で涙を拭っていても、ラエルは一向に泣き止んではくれなかった。
どうしようもないまま俺が立ち尽くしていると、あっという間にラエルは部屋に戻ってしまって、ドアを閉められてしまった。ノックをしたところで開くはずもなかった。
どうしようもない矛盾を見つけてしまい、訂正させていただきました。すみません。8.29