「満ちる月」3
後悔しないと言ったラエルの声は決して震えてなんかいなかったから、俺は両手を彼女へと伸ばした。手を細い腰に当て、もう片方の手は後ろ頭へと。
そんな俺の行動の意味するところをわからないはず無いだろうに、ラエルは何も言わず、大した抵抗も拒否行動も取らなかった。
「俺を止めないんだな?」
言葉で確認したら、ラエルの眼が揺れたけれど、結局ラエルは何も言わなかった。俺がおもむろに頭巾の紐をほどいても、それは同じで、ただその体がびくりと震えた。
見ると、ラエルの髪は一月以上前に見たときと違っていた。一月そこらではその長さに変化は無かったようだったが、前よりも、全体的な色合いが薄っすらと茶色に近くなっていたのだ。
髪色が変わってきていると言ったラエルの言葉は本当だったらしい。移ろい行く色の髪は、まるで、その身をもって空の情勢を変化させていく『陽の色』のようだと、俺は思った。
俺はその陽の色に手を伸ばし、ラエルの頭を近くに寄せてから、頭巾に隠されていない晒された耳元にゆっくりと囁いた。
「目を閉じていろ」
そう言ってから、俺は、思うままにラエルに口付けた。
ラエルがどう答えようと、どんな反応をしようと、本当は構わなかった。
後悔すればいいんだと、俺は思ったから。ラエルだって、この俺自身だって。
このままでいたいと願っているくせに、結局、変わってしまう。……変わろうとしてしまう。
何度も何度も重ねて、角度を変えて、追いかけて。
やがて俺は、名残惜しみつつもラエルから離れた。
一応、口付けだけをした。きわめて安全で、健全なものだけをした。それだけだった。――ただ、正確に言うのなら、その祝福の類が『想い合う男女』のみに許されたものであり、俺たち二人には適切では無かった、というだけだ。
そして、俺はまだ、ラエルの身柄を解放していない。密着していた距離をそのままに、俺はラエルの腰に抱いた腕の力を緩めなかった。
ラエルの頭を俺の肩に預けるようにして、その髪を掬う。さらさらとこぼれる感触が心地よくて、無意識にそれを続けていても、ラエルは何も言わなかった。あまりのことに意識を失くしたわけでもなく、俺の腕の中にいても身動き一つせず、静かに呼吸を繰り返している。
俺はラエルが黙っているうちに、言ってしまうことにした。
本当は、話そうとは思っていなかったことを。
たった今まで決めかねていたことを、俺は、決めてしまうことにした。
前へ、進むために。
「さっき、腕輪の主は、俺におまえを託すと言ったんだ。おまえを……ラエルを頼むと言ってくれたよ」
驚いたように僅かに身を震わせたラエルが、呆然と呟いた。
「声が、そんなことを……?」
「口約束とはいえ、託された以上、俺は、俺に出来ることをする。それが、声の思いに応えることだし、不審者に狙われてるおまえのためだし、なにより、俺にとっての利点のためにな」
俺は一度、ラエルと距離をとるように、ラエルの肩を掴んで、その顔を正面から見つめた。
俺が何を言おうとしているのか知らないはずなのに、その目がゆらゆらと揺れて、不安げに俺を見ていた。
決断してしまった俺は、その目に惑わされることも無く、思いを口にしてしまうことができた。
「だから、俺――俺はヴァレンの家に弟子入りしようと思う。ここを出て、ヴァレンの門下生として一から修行する。学舎にも、もう行かない。……もしかしたら、ここに残るだろうおまえとは、離れ離れになるときもあるかもしれない」
「そんな――っ!」
「可能性の話だよ。ラエル。ヴァレンの修行がどういったものかわからないけど、覚悟はしてろってことだ。今は戦なんて起こってないし、ただたんに一つ屋根の下じゃなくなるって程度くらいだろうから、大丈夫だって。大体、俺、おまえだけの主をやめるつもりは無いからな?」
「――でも! ロア様と離れるなんて……っ」
嬉しいことを言ってくれるものだと、俺は、つい笑ってしまった。
「いいのか? そんなことを言って。――俺は、無断で、おまえに『男女の口付け』をするやつなのに。おまえの無事を考えれば、案外距離を置いた方がいいかもしれない相手なんだぞ? ……わかってるのか?」
身に起こらないとも限らない現実を教えようとする俺の言葉に、ラエルは俺を見た。見据えるような目で、俺を見上げてきたのだ。
まるで、俺に挑んでくるかのようである。
「わたしは、後悔しないと申し上げましたもの」
俺は、笑ってしまった。
それでこそ、俺を頑なに主と呼び続けようとする、ラエルという少女に他ならなかった。
心行くまで笑ってから、俺は、ラエルに言った。
「――なぁ、ラエル? 俺は、絶対に今このときを無かったことになんかしないからな? ――たとえ、おまえが忘れてしまっても、後悔しようと、何を思おうとも……」
俺は手を伸ばして、腕輪をつけた小さなラエルの手を取った。
真っ白でたおやかなその手に、俺は顔を寄せる。そして、そのまま手の甲に、唇を押し当てた。
指輪も、耳飾りも無い。けれど、この思いをラエルに伝えたかった。――うろ覚えの知識にかこつけてでも。
「俺は……ロアーツ=リーグルは、ラエルが好きだ。俺は、俺のために……おまえを守る力が欲しいんだよ」