「満ちる月」1
あれから一月が経って、次の満月の夜を迎えた。俺は気が気じゃなかったが、何とか平静を保とうと必死になっていた。
あの十六夜の夜、彼女が打ち明けてくれたことが真実ならば、今頃、腕輪は彼女に交信を求めて光り、彼女もその声と言葉を交わすはずだったからだ。
やっぱり、あの屋根裏部屋で話をするのだろうかと勝手に思っていたら、ラエルが俺の部屋にやって来た。――その手に、光る腕輪を持って。
「腕輪が、あなたと話がしたいと言っています」
俺は苦笑してしまった。なんだか、ラエルの言い分がおかしかった。
話がしたいというのは『腕輪の主が』であって、『腕輪自体が』ではないだろうに。
少し仏頂面な顔をしているあたり、ラエル自身は気が進まないことなのだろうか。
「主様。わたしは席を外しますから、後で屋根裏部屋に来てくださいね? 話をしたくないのならそれで構いません。わたし、待ってますから」
ラエルはそう言うと、腕輪を置いて行ってしまった。
俺の目の前には、俺の机の上で不気味に明滅を繰り返す腕輪が一つ。
どうしたものかと思っていると、腕輪が身震いするかのように震え始めた。その振動音が机に伝わり、思っていたよりもがたがたと音がしたので、俺は思いがけず声を上げて驚いてしまった。
「び……びっくりした」
「――おまえが、主様とやらか」
振動が止む。震えが止んだとともに腕輪から発せられた謎の声は、どうやら男の声のようだった。
やはり腕輪と言う金属を通しているからなのか、少しくぐもったような、反響した後のような声で、人とは思えないほど低い声に聞こえた。
さて、こう言っては変になるが、『声』とは、まるっきり初対面である。なのに、その声の男が、俺を迷い無く『主様』と呼んだ以上、俺について何かしら彼女から聞いていることを意味していた。
その、俺のことをある程度以上知っていそうな男の声が、言う。
「あの者の言葉を思うなら、我が声に応え、名を名乗って欲しい」
まず、何と答えていいものか、と俺は思った。そして、何を聞きたいのだろうとも。
そもそも声の厳かな言い方に何も思わないわけではなかったが、ラエルはこの声のことを命の恩人と称していた。そして、旅に送り出してくれたとも。――となると、どう考えても、俺たちの出会いのきっかけを作ってくれたのは、この声の持ち主である腕輪の主に違いなかった。
ラエルの救い手に、俺は、試されているのかもしれなかった。こんな、見えない相手と言葉を交わすと言う、ありえない現象を用いられてまで。
「俺は、ロアーツ。ロアーツ=リーグル。歳は十二。一年前、彼女が街にやって来てからずっと、彼女は俺と両親達と一緒に同居している。俺が彼女の主みたいなことになってるけど、あれはただ、彼女が俺を主と呼びたいと言ったから言わせているだけで、俺は俺で彼女のことをラエルと呼んでるんだけど……」
彼女がどう俺のことを話しているのかは知らないが、俺が本心そのままにラエルとの関係を言うと、やがて声が考えるように唸りを上げて、沈黙の後に言った。
「偽りは?」
「いや、まったくないけど?」
即答すれば、声が笑った。
「――そうか、わかった。おまえと、彼女を……『ラエル』を信じよう。待てるときまで、我……いや、わたしは待つ。本音を言えば、一度彼女の身柄が危ういと感じた時点でその街に滞在を許したくは無いが、致し方あるまい。わたしの代わりに、『ラエル』を頼むぞ?」
声がそれを言い終えた途端に、腕輪の光は途絶えてしまった。
思っていたよりも、その交信はずっと短かった。
腕輪を手に屋根裏部屋に向かえば、天窓から覗く丸い月を見上げていただろうラエルが、不安そうに俺を見つめ返してきた。
「どうでした?」
「どうでしたも何も短かすぎたよ。俺、名乗っただけだったし」
言いながら、腕輪を渡す。ラエルはそれを受け取って、すぐさま左の腕に取り付けた。
俺はラエルの隣に立って、月を見つつ、気になっていたことを尋ねることにした。
「なぁ、腕輪の主は俺のことを知っていたみたいだったけど、一体どう説明してるんだ?」
「――え!? ご、ごめんなさい、主様。そんな、勝手なことは喋っていませんよ? 聞かれたことに当たり障りない程度に答えたと言うか……」
「いや、俺もそういう意味で聞いたんじゃないけどさ……」
(――俺のことを命の恩人様にどう称してくれたかなんて、気になって仕方ないけど……正直に話してもらうのも、なんか怖いな)
おどおどして、俺を見上げるラエルに、俺はこっそりため息を吐いた。
(まあ、いいや。なんにせよ、その恩人様とやらは、俺に『託す』と言って下さったんだしな)
(でも、あの台詞は……)
「『待てるときまで』ってのは、意味深だよな……」
俺の呟きに、ラエルが不思議そうな顔をして尋ねてきた。
「主様?」
「いや、こっちのことだ。――にしても、あの腕輪、本当に何でもありなんだな。さっきのこととはいえ、あの日父さんがぐっすり寝付いちゃったわけもよくわかったよ。『声を届ける』なんて、そんな、すごい代物があったんだなぁ……」
「魔力を宿した腕輪だそうです。わたしには詳しいことがわからないのですが、ある程度魔力を持つ者、魔術に長ける者なら扱えるらしいのです。声の主曰く声の主は後者で、わたしは両方らしいのですが」
一瞬、聞き間違えたかと思ったが、ラエルは真面目な顔をして俺を見ていた。
俺の反応も当然だと頷いていて、その目が「信じろ」と語っているかのようだった。
この世界に、いや、今の時代に、そういった類の『魔のもの』は現存しないとされているが、その存在が完璧に否定されているわけでもない。
要するに、魔法も、魔術も、魔の力も存在はするらしい。しかし、滅多にお目にかかれないもののはずなのだ。
「ラエル、おまえ……頭の良いおまえが魔術なんてものの知識があったって不思議じゃないっちゃ不思議じゃないけど……魔力自体もあるのか? 冗談だろ?」
「わたしに言わせれば、魔力にしろ魔術にしろ、持っていないに決まっています。……ですが、皮肉なことに、不審者を撃退する程度にはこの腕輪をちゃんと扱えるんです。――昔のわたしはすごいでしょう? たった一年前なのに、こんな武器一つで、一人で旅していたなんて」
他人事のように過去のことを振り返るラエルに、俺は笑った。
「そのことなら、もう心配しなくてもいいだろ? もう、旅する必要なんて無いじゃんか」
「――そうですよね。わたしにはロア様がいますもの」
「へ?」
茶化した言葉なのに、思いがけず早い回答だった。俺は咄嗟に答えられず、ラエルを見た。ラエルも、俺を見ていた。
俺は、半ば混乱していた。ラエルのそんな身の変わりように。
何かが、おかしい。
「眠いのか? まさか、俺を待っている間にこっそり酒でも飲んだのか? 連日の騒ぎに体が参っちまったのか?」
「いいえ。別段いつもと変わりませんわ、ロア様」
ラエルは、俺の戸惑いを見て、楽しげに笑っている。
「だって、おまえ、いつもと全然――」
違和感を感じるのだと言おうとして、俺はそれをラエルに止められた。
「――っ!」
遮られたんじゃない。少女の手が俺の口元に当てられていて、俺の発言を押し留めたのだ。