「十六夜《いざよい》の月」2
「主様……」
追いかける俺は全力だったし、逃げる側のラエルがとぼとぼ歩いていたせいもあって、俺はなんとか彼女が跳ね橋へと歩む前の間一髪で、その腕を掴み取ることが出来た。
けれど、その瞬間、ラエルの悲鳴が上がった。我知らずその腕を掴む手に、力を失いそうになるけれど、何とか思い直して掴み続けた。
ラエルは取り乱してしまったかのように俺の手を振り払おうとする。華奢な彼女の抵抗なんて何のその、びくともしなかったけど、俺はわざとよろめいたフリをして彼女を掴む手を離し、そのどさくさ紛れに彼女の体ごと腕で抱きすくめることに成功した。――これで、彼女はどうあっても俺の手からは逃げられないはずだった。
この、俺とラエルとの攻防の合間にも、その腕輪は鈍く光り続けている。彼女を完全に捕らえた今、いつ、先ほどのようなことが起こっても不思議ではなかった。
「ああ……とうとう、知られてしまいましたね」
ラエルが、震えた声で言う。最早彼女は諦めてしまったかのように、俺に抵抗していない。
俺は何と言って良いのか迷ってから、それを認めた。
「――そりゃ、たった今身に起こったことくらい、わからなかったらまずいだろ? 前後不覚になったわけじゃないんだし」
ぎゅっと抱く腕に力を込めて、俺は言った。
「おまえが望むのなら、それを使うのもよし、俺を説得するのもよし。いずれかの手段で、この腕を振りほどけばいい」
「そんな――っ」
ラエルの困惑声を俺は無視した。
「俺は、絶対におまえを逃がさない。――さぁ、どうする?」
やがて、大人しく俺の腕に収まっていたラエルは、先ほど大事そうに嵌めた腕輪をおもむろに外してしまった。
「……ひどい人。わたしがあなた相手に使えるはずが無いと、知っていらっしゃるんでしょう?」
記憶の途切れる前、意識が薄れていく合間に耳にしたラエルの声は、いずれも彼女自身が意図してした行為ではなく、何者かの指示に従おうとする彼女の躊躇いがわかったからこそ、俺は、全力で彼女の行く手を阻もうとしたのだ。
俺の背に彼女の腕が回ったと同時に、カランと音がした。軽やかな金属音。見れば、足元にころころと転がる彼女の腕輪があった。
「ラエル、落としてるぞ?」
「落としたんですよ。――あなたがそうさせたんでしょう?」
俺とラエルの会話の合間にも、腕輪は明滅を繰り返していたが、やがて光は途絶えた。
俺は、俺にとっての危機を脱したと判断し、身じろぐ彼女に促されるままに腕を解いた。
ラエルが、俺より少しばかり離れてから、俺を見上げてくる。
「迷いがわたしを躊躇わせ、選択を求めていました。あなたをとるか、あの声に従うべきか」
「『あの声』って?」
足元に転がった腕輪を拾ったラエルは、それを手にして呟いた。
「この腕輪は、ある人が下さいました。肌身離さず持っていろと厳命された理由を知ったのは、初めてわたしが『迷子』になった日のことでした。そして、満月の日。――主様、わたし、満月のたびに、この腕輪と『交信』していたんです。その日その時間だけ、腕輪から聞こえてくる声の人と、話をしていたんですよ?」
明かしてくれた腕輪の秘密に、俺は「そうか」と呟いた。
「だから、ずっとそれを持っていたんだな。……旅をしてきたおまえの、唯一の武器か」
そして、いつぞやに語った、月についての話も頷ける。
月を見て、闇夜を照らす唯一の光だと、彼女は言った。
もしかしたら、心細い外の旅の間中、彼女は腕輪から発する声だけを頼りに、道行く道を流離っていたのだろううか。
ならばきっと、月は彼女にとっての救いなのだ。だから、月の見えるきれいな場所を邸の中にも求めていて、屋根裏部屋に繋がる俺の部屋を望んだのだ。
「……やっぱり、主様は、わたしの突拍子もない話を信じて下さるんですね?」
ラエルが、声と言葉だけは嬉しそうに、表情は悲しそうなまま、言った。
「わたしを……罵ってくれればいいのに。胡散臭いやつだと、責められてもおかしくは無いのに……」
手にした腕輪ごと体を震わせて縮こまらせている彼女に、俺は近付いて、その腕輪を取って元通り左の腕につけてやった。
されるがままのラエルが、俺がはめ込んだ腕輪を見つめて、呟いた。
「昨夜の交信はできませんでした。今までに無い初めてのことでした。そして、今日、わたしの手元にこれが戻ったとき、腕輪は突然あなたを眠らせてしまった。そして、街中の人を同じように眠らせてしまった。――きっと、そんな無理なことをしたら、いくら魔術に長けた人で全盛期の秘具であるこの腕輪だって無事に済むはずが無いのに。でも、腕輪が言いたいことなんてわたしにはいやとでもわかりました。街を変えろと、住む場所を変えろと言ったのが、わからないはずなかったんです」
――でも、わたしは。
囁いたラエルが、また、涙を流した。
「ごめんなさい。わたし、あなたを騙すようなことをしている。……あなたを利用している。――でも、わたしには、もう、戻れないの。この街から出て行くことなんて出来ない。たとえ、命の恩人である腕輪の主が何を望もうと、わたしにはあなたがいない日々になんて、もう戻れない」
涙する彼女を安心させてやりたくて、俺は腕を伸ばし、彼女の背を撫でた。
「もう、そんな風に考えなくていいから……」
静かに涙するラエルを、俺はずっと慰めていた。