「行方不明?」6
落胆した様子の父がラエルの部屋を出て行ってから、俺は宣言した。
「――お、俺は、父さんとは違って無理強いはしないからな! そりゃ、気にならないって言ったら嘘になる。だけど、俺は……約束は守る。あのとき、おまえが望むから、俺はおまえの主様呼びを甘んじて受けた。だけどそれは、本当に主従関係になるつもりで受けたわけじゃない。俺がおまえをラエルと呼ぶ代わり、おまえが俺を主と呼ぶ代わりの、そういう取り決めだったと思ってる。だから、仮におまえの主様気取りができるかもしれないからって――俺は、おまえに、無理強いで聞いたりはしないからな!」
よくもまあ言い切れたと、俺は我に返ってからそう思った。すべてを喋りきったことが我ながら不思議でならなかった。
「――で、でも、おまえがどうしても話したいって言うなら、いつでも聞くからな!」
長い建前の後に付け加えた本心から出た言葉は、思いのほか熱が入りすぎて、それとわかったのだろう。ラエルが、ぷっと吹き出して笑った。
バツが悪い思いで、俺は頭を掻いた。正直、居たたまれなかった。
「ふふ。――では、主様? せっかくですから、わたしにもわかっている『あること』をお話ししようと思います」
「――へ?」
驚くべき話の展開に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「――い、いいのかよ?」
「別に構いません。というか、大したことがわかっているわけでもないんです」
「だ、だけどさ……」
俺が思わず口ごもったのには理由があった。――そう、いつぞや、大したことじゃないと言って、彼女が俺に秘密を明かしたとき、世にも珍しい輝きを放つ髪色を明かされたのではなかっただろうか。
だから、ラエルのいう「大したこと」に信用がならない気がして、俺は気が気ではなかった。
「――ほら、わたし、ラエルって、あの日、名乗ったでしょう? ……あれ、多分、嘘なんです」
「なっ――!?」
俺の「やっぱり」と言う驚きの言葉は、言葉に出来ないまま、俺の口の中から消えていった。
(――結構、重大だろうが、それは!?)
けれど、頭の何処かで、ラエルがこんな嘘をつくはずがないと、俺は思った。
以前の夜、証しだと言って見せてくれた髪の話も『俺に伝えたいことの一つだから』と言って、彼女はこんな風に場を設けてきちんと話してくれたのだから。
「――というか、わたし自身が何者かわからないんですよね。多分というのも、断定できないからであって……。ふふ、嘘も嘘。名無しのゴンベさんとはよく言ったものですよね?」
ラエルは、続けざまに言う。俺とラエルが出会ったあの瞬間のことを。街の自警団の男たちの前で、名を明かしていたときのこと。
ラエルの言葉に、俺も思い出していた。――あのときの彼女のこと。
「いつともわからない思い出の中で、わたしは、ある名前で呼ばれていました。恐らく、『ラエル』と、呼ばれていたのです。自警団の方に問われたとき、名前と思いつくもので、唯一わかることがそれだった。そう呼ばれていた記憶があったから、多分、名前だろうと、そう思っただけで。……今はともかく、あの瞬間、それを名前と自覚するまでの間、わたしは、ラエルではなかったのに。でも、何もわからないから、あのときはそう言うしかなくて。――おわかりですか? あのときにしろ今にしろ、わたしは、わたし自身は、自分が何者なのかすら、知らないということなのです……」
ラエルは困ったように小さく微笑んでいる。まるで笑うしかないのだと誤魔化そうとしているかのように。
でも、俺にはそれが、寂しそうな笑顔にしか見えなかった。
「嘘ばかり、わからないことばかりのわたしは、いつも思うのです。ここにいて良いのだろうかと」
言い終えてからもう一度、ラエルが笑う。先ほどとは違う微笑みを、俺に見せようとしている。
でも、その頑張って笑おうとしている彼女のことが、俺にはわかってしまった。
「ラエル……」
偽ってまで、笑顔を見せずともいいのに。
俺は無理に笑ってまで本心を隠そうとするラエルに、一瞬の間、声を掛けるのを迷った。その理由などは無く、ただ単に、どう言葉を掛けて慰めていいものかわからなかった。
そのとき、くるりと、ラエルは俺に背を向けた。まるで俺の視線から逃げるように背けた少女は、その身を抱くようにして、彼女は彼女自身に呪いの言葉を吐く。
「主様も、そう。レフェルス様も、ルレッセ様も。皆さんが優しくして下さるからと言って、わたしは、甘えてはいけないのに。――これ以上、あなた方を巻き込んでしまったら、わたしは……っ」
その言葉を聞いた瞬間、俺ははっとした。激しく後悔するとともに、先ほどまでの自分を責めていた。
恥ずかしかった。どうしようもなく。どうして、何故迷ってしまったのだろう。
「ラエル……」
いつも謙虚で、時に皮肉な喋りをするけれど、その根は優しすぎる少女。自分が何者かもわからないなんて、彼女自身が何より不安だろうに、他人を心配しようとするそんな少女。
(――迷うなんて! 俺は、どうして、躊躇ったんだ!)
俺は衝動のまま彼女をその背から抱きしめた。
「え、主様……!? な、何を?」
「おまえはあの約束のこと……一度でも忘れたか?」
ラエルと出会ってから、一年が経ったあの日、誓った約束。ほぼ契約ともいえそうな誓いのことを、俺は口にする。どこか、祈るような思いを込めながら。
「――っ! 忘れるはず……ありませんっ」
ラエルの言葉に、俺はラエルに知られぬようこっそりと息を吐く。
「おまえが覚えているなら話は早い。……でも、俺は、何度でも言うし、何度でも誓う。俺がおまえに主と呼ばれる限り、俺がおまえをラエルと呼ぶ限り――俺たちは、ずっと一緒だ。それがある限り……これからも、そうだろ? ほかのことなんて気にするなよ……」
抱きしめた彼女の体が、震えた。伸ばした手を、掴まれる。俺よりも小さな、彼女の手に。
「あなただけは。――主様は、いつもわたしを……ラエルと、そう呼んで下さるのです。主様だけが」
それから、たった今気付いたと言わんばかりに戸惑った声を上げた彼女は、一度窮屈そうに身じろいでから、器用に俺の腕の中でその体の向きを変えて後、今、晴れ晴れとした顔で俺を見ていた。
たとえ、その声がいささか頼るモノ一つ無いかのように小さく心細い声だったかもしれないけれど、ひとまずとはいえ、俺は彼女がそんな表情を見せてくれたことが嬉しかった。
笑顔を浮かべて微笑むラエルの姿をずっと見ていたいと思うのに、俺はどうしてだか胸がむずむずして直視できず、ふいっとそっぽを向いた。
「っ……あ、当たり前だろ! おまえは、昔から……たった一人の、ラエルなんだから……」
俺の腕の中でうんうんと頷いて見せる少女が、俺にはどうしようもなく愛しく感じられた。