「行方不明?」2
母は、不安で不安で仕方ないだろうに、俺には笑顔を向けてきた。
「無事を祈りましょう、ロアーツ。わたし、この間に、お夜食作ってくるから……」
先ほど、母を頼むと、父は言った。
仮にも俺は父から母を頼まれた立場だというのに、その母が俺を支えようとしているなんて……。
(――そう思われてるってのは、情けないけど……)
正直、その心遣いにありがたいと思いつつ、俺はゆっくりと立ち上がった。
ちらりと、周囲を見渡してみる。打って変わって静かな庭先が、そこにはあった。
誰も、いない。
先ほどまで報告に現れていた自警団の連中は、再び持ち場を手分けして駆け出して行ったし、父は父で、仕事関係の伝をあらっているんだろう。そして、いくら夜食を作りに行った母だとて、そんなに早くに戻ってくるはずも無い。自分たちの分のみならず、この捜索を手がける全ての者たちの食糧を仕込みに行ったのだから。
俺は、その瞬間、大人たちの暗黙の言いつけを破り去った。
消沈していたのも、悔しい思いをしていたのも、大人たちが居並ぶ前では、何も出来なかったから。――全てはこの、一時のチャンスを掴むためだった。
俺は、自らの手でラエルを探すべく、街の大通りを駆け抜ける。
実を言えば、ラエルが向かうだろう場所の、大体の見当はついていた。俺とラエルの秘密の場所。初めての約束を交わした場所である街を見渡せる裏手の丘へ行く方法は、俺たち二人だけが知っている。
だから、中央へと続くその道を通ろうとしていて、ふと視界に入ったある通りの場所に、俺は目が釘付けになった。
街に位置する、不良とかなんとかが出没する柄の悪い通りが、ぼんやりと見えた。そこは日が沈み始めていることとは別の意味で薄暗く、建物の外観もどこか小汚い。何より、そこを漂う空気が違っていた。冷たい、人を人とは見ないような、ぴりぴりとした刺すような空気が、そこにはあるのだ。
それなのにも関わらず、何故だかその場所には、子供にしか知られていないある抜け道があった。『近付くんじゃない』と、口うるさく言う大人たちは知らないだろう、人知れぬ場所へと続く、古い抜け道の奥の奥。
俺は、その抜け道の前まで来ていた。
きらりと光った道端の見覚えのあるきらめきを放っておけなかったのだ。
「っ!? ……これ!」
抜け道は、目の前に広がる垣根をすり抜けなければならない。一見、大きめに見えはする穴があるけれど、実際にはそれも小さい子供でしか通れない。何も知らない誰かがその隙間を強引に通ろうとすれば、何かが犠牲になる。
たとえば、着ていた衣服が小さな枝に裂かれるだとか、持ち物である何かだとかを取り落とすとか……。
視線の先、飛び出た枝に引っかかって落ちただろう、鈍く光る腕輪。ラエルが左手首に身に付けていた彼女の持ち品だった。
しゃがみこんで、それを拾う。手にとって、くるりと回したりして、隅々まで観察する。宵闇のわずかな光に、きらりとそれが光った。思ったとおり、それは彼女の持ち物に違いなかった。
「――この先、か」
意を決して、俺は垣根の中に身を進めた。
迷う暇なんて、俺には必要なかった。
思っていたよりも、進み易くは感じたものの、行く手は中々厳しかった。小枝とか、窪地とかで足を捕られたり、身を裂かれ、全くの無傷とはいえなかった。
どこまで続くかと思われた抜け道の、空けた場所に出たとき、一人の男の姿と、見覚えのある少女の姿をようやく目にすることが出来た。
「てめぇ! ラエルを離せっ!!」
男は俺の言葉に気付いて振り向いたが、その表情を変えなかった。
「――なんだ、ただの……ガキか」
呟いた男が、薄く笑う。
ちらりとラエルを見て、俺を見たかと思うと、またにやりと笑ってから、引っ張ったままでいた彼女の腕を離す。視線を彼女に向けたまま、男は懐を探り、鈍く光る小刀を取り出した。
歯痒い思いで俺は唇を噛んだ。向けられている刃物の先にいるのが自分だとて、その近くにいるのは他ならない彼女だった。
自由になったはずの彼女は何も言わず、動こうとせず、男の持つナイフと俺とを呆然と見返しているようだった。
「悪いことは言わん、小僧。道を、引き返せ」
男の声は冷たく、ただ低かった。俺が否定すれば、男は面倒臭そうにため息をついた。
「なあ、小僧? お前だって命が惜しいだろう?」
嘲笑う男の声を聞きながら、俺は男の手元と彼女とを見比べる。男の言葉の意味がわかったのだろうか、ラエルも懸命に頭を振って――頷いていた。
俺が頭を振りたくなる気持ちとは違う意味合いなのだろうなと俺は思い、暢気にも苦笑いを浮かべてしまった。
涙を浮かべるその眼はまるで、逃げろとでも言っているようだった。
(――逃げられるかよっ!)
俺は彼女を、男を、強く睨みつけた。
「そいつ、俺の友達だからさ……。返してくれない? オジサン?」
精一杯の皮肉に、男は間を置いてまた笑った。
「へえ。おじさん、ね。――なんだ、いい度胸してるじゃねえか。嫌いじゃないぜ?」
にやりと男が口元に弧を刻む。彼女の体の震えが、目に見えてあからさまになった。
「小僧。お前さんに免じて、チャンスをやろうじゃないか」
「チャンス? ――何?」
口では興味心身気に聞くフリをすると、男はまた機嫌良く笑う。
「お前だって、男だろう? この俺に、勝ってみろよ? この嬢ちゃんにいいとこ見せてやればいい」
男は、道端に転がっていた木の棒を投げてきた。
「へへ。俺が敵で、コイツが囚われの姫さんで、……んで、お前が勇者――と。ま、立派な剣じゃなくて悪いけど、獲物が無いよりはマシだろうしなあ」
「――だ、駄目! やめて、主様! わたしはいいから、早く――!」
今まで何も言わず黙っていたラエルが、ここにきて悲鳴を上げた。
「おーおー、嬢ちゃんも可愛いこと言うじゃないか。どうすんだ、小僧? 俺はどっちでも構わねえんだぜ……?」
ちらと、足元に転がる木を見やる。何処にでもある木の棒だった。強いて言うなら、ちょっぴり太めの。
俺の力では、たやすく折れそうにもないそれ。多分、男が持つあの小刀を受け止めるくらいは出来るだろう。――けれど。
(――これで今、目の前にいる男に勝てるのだろうか?)
自分自身に問いかけてみたところで、答えを出すのは他でも無い、自分一人。
男と、彼女が、俺の答えを待っていた。
(――俺はっ、何のためにここにいる?)
「……やるよ。俺が勝てばいいんだよな?」
「そんな、――主様っ!」
決意を非難するような声がした。自分に発破をかけているとは知られたくはなくて、俺はにやりと笑ってみせた。
(――わかってる。わかってるんだ、ラエル。でも、俺は……っ!)
俺にだって、それが何を意味するのかは知っているし、わかっていた。
これが、昔仲間内でやったお遊びではないこと。目の前で剣を持って構えているこの男が、授業をしてくれる師でもないこと。
そう、相手は俺を阻む敵であり、これは実戦なのだ。
勝たなければ、負ける。――死ぬ。
それで、すべてが終わる。
「――ロア様っ!」
少女の呼ぶ声が懐かしい呼び名のように聞こえた気がしたが、そんなことに気をかけている暇は、今の俺には無い。
俺は、ひたと男だけを見た。
挑んだからには、片時も逸らしてはいけないのだから。
「おいおい、今生の別れでもあるまいに。――いや、やっぱそうなっちまうかな……」
笑う男は騒ぐ彼女をあしらって、腕を掃った。悲鳴を上げた彼女に、俺は内心で呟いていた。
(――ごめん)
その、たった一言だけ。
「――しゃあねえな。遊んでやるよっ!」
言葉とともに笑う男が、ゆっくりと俺に歩み寄ってきた。