「紫の御仁」1
「そういえば、聞いたか。ロアーツ。ラエル。近々この街に『紫の御仁』が来るらしいぞ」
父の言葉に、俺は「げーっ」と呻き、ラエルが驚いたように「えっ?」と呟いた。
「紫の御仁?」
「ああ。もしかして、ラエルは旅をしていたから知らないのかな? 紫の御仁。『審査の儀』を行われる王宮の使いだよ」
「『王宮』の――?」
呆然と呟いたラエルに、父がわかりやすいようにと言葉を柔らかくして伝えようとしているのを、俺は気だるい思いで見つめていた。
このエルズの街には、三邸宅なんていう大層なものがあるにはあるが、決して国の都なんかではなく、その都と交流が深い腰巾着的な都市ですらない。どちらかといえば、偏狭な土地にある街である。
古くからの住人たち曰く、『この地で暮らしこの地で生きるのなら、国とか王とか貴族とか、そのような知識すら学ぶ必要性すら無い』――らしい。
街に生まれ、外に出ることはなく育った俺にとってみれば、エルズの街の中だけが、俺にとっての世界であり、それですべてだった。そもそも、国とか王とか、そういう名詞ですら本の中の物語の世界のように思えてならないのだから。
しかし、曲がりなりにも街は領地の一つだった。他ならぬ人々や街が王の下に属している以上、決して無関係でいられるわけがない。この辺境のイライブ地方エルズの街にも、王とか国とかに関わらざるを得ない取り決めごとが、ただ一つだけあった。
それが、『審査の儀』と呼ばれる仕来り。国王陛下の名の下に、『紫の御仁』によって行われる一種の試験だった。
(――っち。面倒臭いよな。もう『前』の審査から三年が経っちまったなんて……)
俺の記憶が正しければ、約三年ごとにその面倒臭い仕来りを無事にやり過ごさねばならなかった。
そう、丁度三年前の審査の対象は、料理人だった。あのときは街一番の宿屋の主人が一種の『白羽の矢』に立たされて、王都に向かう羽目になったのだっけ。
審査に受かった者は、王の名の下に王宮へと召し上げられるらしく、任期は当人にすら不明で、宿屋の主人は半年後くらいに帰ってきた。洗練された王都の文化に触れてしまった宿屋の主人は「王都はすごい」とだけ一月程言い続けていたような気がする。
「審査人は誰が見てもわかるように、紫の布を身につけているらしい。――その当人が、今、決まりとして詰め所で身分証明を行っている。明日にでも街に入って、今回の審査対象者を選りすぐるんだろうね」
「……父さん、そんなこと言ってて、父さんが対象者に選ばれたらどうするんだよ?」
まるで他人事のように楽しんでいる父に、俺は突込みを入れた。
父は、俺の言い分に、にやりと笑って見せた。
「わたしが選ばれるはずが無い。わたしはこの地の物資運送を一手に率いる男だからね。イライブの血が貧窮することを王とて望まぬだろう?」
「その商人魂のおかげで、全然家に居付いて下さらないようですけどね。あなた?」
母は複雑そうな顔をして父を見ていた。
「王も何を思ってこんな儀を始めたのでしょうね。以前の宿場のボールドさんがいなくなったときも、奥さん困ってらしたもの。今回は、誰が王都に攫われてしまうのかしら」
「母さん、その言い方……やばくないか?」
俺も内心では同じようなことを思っていたが、とてもじゃないが口にする勇気は無い。
「あら、こんなの誰が聞いても同じように思うに決まっているわ。召し上げられると言うことは、言い逃れも許されない強制的な命令なんだもの。無事に終わると良いのだけれど」
憂う母が、黙っているラエルに気付いたらしく、慌てたように近付いていって、ラエルを腕に抱いた。
「大丈夫よ、ラエルちゃん。わたしもレフェルスも決して選ばれないわ? それに、審査は生業をする大人しか選ばれないとされているから、心配しなくても、大丈夫よ?」
母の腕の中からラエルが頷く声はしたものの、なんとも弱弱しい声音だった。
「あの話を聞いてからずっと何か考え込んでいると思ったら……まさか、おまえがそんな行動に出るなんて、夢にも思わなかったよ」
「そうですか?」
ふふふとラエルが微笑んで、天窓の下から外を見る。
「何処にいらっしゃってるんでしょうね、紫のお人は」
「人だかりと常にあるからな、審査人は。この家の近くには来ないとは思うぞ?」
あえて「来たら来たで困るけど」と、俺は口にせずに置いた。
俺とラエルの利害の一致、つまり『紫の御仁』になんて会いたくないという理由で、俺たちは両親達にばれないように、ラエルの秘密基地である屋根裏部屋に引き込んでいた。
ようやっとその部屋への正しい行き方を知った俺は、この部屋を簡単にラエルに開け放してしまったことを軽く後悔してしまったほど。それくらいこの大きな天窓から見える景色は魅力的で、秘密の場所であること自体、俺を惹きつけるものだった。
「今日、確か、試験ありましたよね。学舎」
ラエルが思い出したようにぽつりと言った。
授業を初めてサボろうとした彼女だから、罪悪感に苛まれてでもいるのだろうか。
「いつもやってる、発破掛けの学力審査だろ? 俺たちは父さんから知らせがあったからこうして休もうと企めたけど、他の奴らは悲惨だよな。学舎の審査に、本物の審査人。対象者ですらないってのに、こんなに気分が滅入るんだもんな。俺たちが大人になる前に、こんな審査速く終わって欲しいもんだぜ」
「そうですね……でも……」
ラエルが、ふと、俺を見た。
「遠い地にまで目を向けて、優秀な能力を持つ人を見出す。その思い自体は、王は、間違っていなかったと思うのです」
「――まあ、そうか。確かに、そうじゃないと王都に住むお貴族様たちばかりが偉そうにするばっかりなんだろうな」
言われてみればそうだと思って俺が頷くと、ラエルがはっとしたように口に手を当てた。
「す、すみません、主様。わたし、すごく偉そうなことを――」
「いや? そうじゃないだろ。至極当然と言うか、そういう見方もできると言うか……別に気にしてないから、そんな風に恐縮するなって」
「す、すみません……」
「態度までそんな慇懃無礼なのはやめろって。俺は呼び名だけしか認めていないんだからな?」
「気をつけます」
ラエルは、俺と秘密基地に隠れている間中、ずっと元気が無かった。
いや、というか、紫の御仁の話が出ていてから、ずっとだった。
審査は、審査人が満足しきってしまうまで、行われる。
きっと、明日も明後日も、だ。
ラエルがどんな思いでいようと、明日こそは外に出ねばならないだろうなと、俺は柄にも無く現実的に思うのだった。