「頭巾の秘密」3
あの夜の思いがけない出来事があってから、俺は見ることは叶わないだろうと思っていた彼女の二つの姿を目にすることができた。
一つは、風呂上り姿の彼女である。
母が言ったサービス云々の言葉から見るに、やっぱり普通なら見ることが出来ない姿だったのだと思う。今まで一年も同じ家で生活しているのに目にしたことなんて無かったのだから、父や母なりに、お互いがその姿を目にしないようにどうにかしていたんだろう。……そう、よく考えてみれば、俺も、ラエルに風呂上り姿を晒した覚えはないのだ。
こんなにでかい家なのに、風呂は一つしかないし、部屋に個々備えているわけでもない。そう、だからこその配慮があって、あの日の母の言葉に繋がっているとしか思えなかった。
(全ては承知の上で、か。あの夜の口約束は仕込まれていたってことだ。……俺ばかりか、ラエルまでもが両親たちの掌の上で転がされているなんて)
腹立たしくて仕方なかったが、乗せられてしまった以上何も言えるはずも無い。俺は、「もう一つのアレを見たじゃないか」と、自らに言い聞かせるように内心で呟いた。
それこそ、まさに、あの学友たちが邪な思いのまま策を企てていた『彼女の頭巾の中身』だったのだけれど。
(実際、濡れ髪に気を取られてて、あんまり正視出来なかったんだよな)
惜しいことをしてしまったものだと、我ながら思う。短すぎるように感じたことしか、今では思い出せない。
(そう、それが濡れていたせいで、頬とか項とかにぺったりと張り付いていて……)
我知らず、思考が怪しい部分に突入しようとして止めた。はっきり言ってその先は、思い描かないほうがよさ過ぎる。本当に目にしたものだけを思い浮かべようとしても、それ以外のものになってしまいそうなのだ。
(俺にある『そんな知識』なんてちっぽけで、下らなくて、大したものじゃないけど、それでもなぁ……)
母に呼び出された夜から二週間がたった。今夜の俺は、なんとラエルに呼び出されている。
俺は、あの日母に言われるまま母の部屋に向かったように、今度はラエルに言われるまま彼女の部屋の前でぼうっと佇んでいた。夕餉も済ませ、風呂も浴び、少し肌寒さを感じ始めている今、俺はどうしたものかと、取り留めの無いままに思考を巡らせていたのだ。
(大方他の奴らは、そんなことまるっきり考えてないんだろうな。思うまま、願うままにってか? 嫌だ嫌だ。男って悲しい生き物だよな、まったく……)
嫌悪したいと思うくせに、俺は、紛れもない男だった。ただ他の奴らと違っていることなんて、幸運にも同じ家に住んでいるだけなのだ。この間から、主様と呼ばれるような変な間柄にはなったものの、他の誰よりも近い位置にいて、ラエルのそばにいることができていても。
(それも、ただの結果だよな。一年前、彼女と出会うまでには『今』なんて想像もつかなかった。彼女は、『元旅人の少女』だったんだから……)
彼女と出会ってから一年が経って、『そばにいること』が当たり前となった今、いかにしてその『当たり前』を守り続けることが出来るのか。それが、俺の、俺にとっての難題で、頭の痛い障害と言えた。
嫌われたくないと恐れ、疑問を口にすることも出来ない臆病者。――それこそが俺の本当の姿、ロアーツ=リーグルなのだ。
呼び名のことなんか、気にしている場合じゃないと本当はそう思うのに。
「主様?」
ラエルの、『俺』を呼ぶ声がする。
そう考えてしまってからは、もう、俺は俺自身を嘲ることしか出来ない。
(ほら、彼女がオマエを呼んでいるぞ。ロアーツ。オマエが黙っているせいで)
俺は、既に、彼女の主としてあろうと自分自身で認識してしまったのだ。俺を主と呼ぶ彼女に応えようとするあまり。彼女が俺をロアーツと呼ぼうがロアと呼ぼうが、一緒であるかのように。
出し抜けに主様と呼ばれても、俺は、反応できてしまうのだ。……まるで、名に縛られてしまったかのように。
唯一の救いは、彼女の呼ばう主が、役目ではない俺自身にあるのではないかという、ぎりぎりの希望があるからかもしれなかった。混乱した彼女が口走った、たった二度の発言。それが俺の救いとなっているなんて、彼女は思いもしないのだろう。
暗い思考を打ち破ろうと、俺はきつく目を閉じる。目を開けたそのときになって、彼女が俺を呼んでいたはずなのにその姿は見当たらなかったことに気付く。俺は、とうとう幻聴を聞いたのかと愕然とした。
愕然としてしまってから、くすくすと笑う声が、俺の上の方から聞こえていることに後から思い当たった。
「お気付きですか? わたしのいる場所」
声の聞こえるまま、上を向く。邸の二階部分にいる俺の手が届くか届かないかの高さの位置にある天井裏から、ラエルがひょっこりと顔を覗かせていた。
俺は、驚きに目を瞠った。
(どうして――)
「どうして、そんなところにいるんだ?」
愕然とした思いを今度は唖然とした思いに代え、俺は疑問を口走った。
ラエルが得意気に「ふふふ」と微笑んだ。
「探検いたしましたの。ずっと前に。月が一番綺麗に見える場所を見つけたくて」
「月だって?」
「闇夜に浮かぶ、唯一の導きの光ですよ、主様?」
――旅の間、ずっと、わたしを支えてくれましたから。
そう言ったラエルが、止めと言わんばかりに、その唇に人差し指を立てた。
「もちろん、レフェルス様とルレッセ様には、内緒にして下さいね?」
出会った頃に俺が教えた仕草の一つを忠実に再現したラエルは、唖然とする俺を置いて、天井裏に消えてしまった。