「頭巾の秘密」2
呼び出されるままに、母の部屋の戸を開けた瞬間、俺は信じられないものを見た。
「な――っ!」
驚きに声を漏らすものの、その後が続かずに絶句してしまったのだって、俺が想像することも出来なかった事態に出くわしてしまったからに他ならない。
母の部屋にいたのはラエルだった。そして、湯を浴びたばかりなのか、薄着姿だった。いつも身につけている頭巾の代わりであるかのように、タオルを一枚手に抱えていて、頭を覆うようにごしごしと水分を拭っている。街に住んでいる女性たちに比べれば短すぎる髪が、その手から、タオルのすそから零れ、水滴がぽたぽたと床に落ちていった。
二滴、三滴と雫が落ちていくさまを無意識に目で追ってしまってから、俺は慌てて戸を閉めた。
(今のはなんだ?)
(ラエル、だよな。だって母さんにしては小柄だし、髪が短すぎるし、色も違うし……)
この俺が見違えるはずが無い。けれど、目にした光景が衝撃的過ぎた。まともに頭が働かないでいる。
(ラエルが、どうして?)
立ち入ることも出来ず、かといって立ち去ることも出来ないまま身動きが取れないでいると、いつの間にか不思議そうな顔をした母が俺を見ていた。
「あら、ロアーツ。早かったのね? ラエルちゃんはもう来たの?」
俺が何を見てしまったのか知らぬ母はのほほんと俺に問う。
とりあえず、俺は頷いて見せた。
すると、母が、満足そうな表情をして微笑んだ。
「ふふふ。おまえを主と慕うラエルだもの。利用するようで悪いけれど、悪い思いはさせないわ? わたくしに協力しなさいね」
「……利用って」
(一体何をさせる気なんだ、この母は)
俺の複雑な胸中……と言うより何処かへと行ってしまった平常心を取り戻すよりも先に、母は自らの手でその部屋の戸を勢い良く開け放つ。何しろ母の部屋なのだから、母にとっては躊躇う理由などありはしないのだろう。
俺は我知らずはらはらした。多分、そんなに時間が経っていない。
「ラエルちゃん」
母は確認するかのように彼女に呼びかけた。
「わたくしが渡した『薬』をちゃんと使いましたね?」
「……はい」
言葉少なに答えたラエルは、先ほどのようにタオルを頭に被った状態で薄着でいた。威力は減っているとは思うものの、ちょっと俺が見ていてもいい姿なのかどうか、俺には判断がつかない。
ラエルに気付かれたのかどうかはわからなかったが、先ほど垣間見てしまっている以上、バツが悪い。役得とか思うよりも前に、母が同席している以上、これは目に毒としかいえない状況だろう。
何故母は俺を呼び、俺を利用しようとするのだろうか。
疑問に思った俺がそれを尋ねようとしたとき、母が動いた。ラエルに向けていた体ごと振り返って俺を見る。――壮絶な笑みだった。
俺は何も悪いことをしていないのに、背筋を伸ばさずにはいられなくなった。
「ロアーツ」
「な、なんだよ」
「ラエルちゃんにお願いして欲しいことがあるの。おまえから、ね」
思わずラエルを見ると、困った顔をして俺を見ていた。
「ルレッセ様、もうご容赦くださいな。わたしとて、いい加減潮時とは思っていたんです……」
「いいえ、ラエルちゃん。わたくしは騙されないわよ? 潮時と称しつつ、あなたは最低でも三度、この地に来て染色をしているわね?」
母の言い分に、うっと、ラエルが呻いた。図星、だったのだろうか。唇を引き結んで、顔を俯かせてしまう。
母は母で「まったくもう」と呟いて、額に手を当てて途方に暮れたようだった。
(待てよ、染色?)
置いてけぼりを食らっていた俺は、はっとしてもう一度ラエルを見た。濡れたラエルの髪色は、今も色鮮やかに珍しい色合いをしている。
(……まさか、染める術を満足に知らないでいるのに、無理やりに染色を繰り返していたから?)
「どういうことなんだ?」
俺が呟けば、ラエルが観念したように口を開いた。
「主様。先日の本を覚えていますか」
「ケインに借りたって言ってたっけ?」
そういえば、見覚えの無い本を持っていたような気がする。
「ケイン……? あー、あのシュバルツの子ね?」
俺の友人の一人だと説明すると、母は「そうだったの」と呟いて目を細める。俺は母にとって快くないことに協力してしまった形の友人にひどく同情したくなった。出し抜かれたと言う面では俺も母と同感の思いなので、ざまあみろとも思ったのだが。
「街に来る前は、その辺に自生している植物を用いて何とか形にしていたのですが無理があったのは自分でも承知していたんです。ますます人に見せられるような髪ではなくなったから、書物と言う書物を読んで、調べていたんです。ケインさんはわたしが何を調べていたかは知らないはずです。ただ、わたしは彼の善意をありがたく思って『本を貸して欲しい』とお願いしていたから……」
言外にケインを責めないで欲しいと訴えるラエルに、俺は言った。
「ラエル。なんでおまえは髪を染めたんだ?」
「――っそ、それは」
目を見開いたラエルが、やがて申し訳なさそうに顔を俯かせた。
「ごめんなさい」
ラエルは、答えることを拒否したらしかった。
無理強いをするつもりは無かった俺はため息をついた。同時に母もため息を吐いたようだった。
呼吸を合わせたわけでもないのに重なったその行動に、俺は内心笑ってしまった。
俺と母はお互いの顔を見て同意の色を確認して、俺は再びラエルを見やる。
「頭巾を身につけるんなら、人目にも触れないだろ? もう染めるのは止めたらどうだ?」
ラエルはただただ頷いた。
もとより俺の提案に見せた要求を否と言わせるつもりは無かった。こっちはあえて聞かないでいるんだから、それくらいの我侭だっていいだろう。
「あなたの髪が短いのも、染色をする上で楽だったからでしょう? 女の子なんだから、そろそろ髪を伸ばしてみてはどうかしら?」
ラエルの従順な姿に何を思ったのか、母が言った。
その瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、満面の笑みで笑うラエルが恥ずかしそうに長い髪を風になびかせている姿だった。
目にしたことなんて無い想像と言うよりも妄想と言うに相応しい行為なのに、俺にとってその光景は鮮やか過ぎた。違和感が無さすぎたのだ。まるで、未来を予知夢してしまったかのように、俺は、そんな彼女の姿が自然に思い浮かべることが出来てしまったのだ。
(……見たいな)
それを現実のものにしたいと言う俺の欲求は、その瞬間に生まれたのに、計り知れないほどの大きさとなって俺を支配する。
「ラエル」
呼べば、ラエルが浮かないような顔をしていた気がしていたけれど、俺は構うつもりはなかった。
「俺からも、お願い。邪魔にならない程度でいいから、髪、伸ばしてるところ、見せてくれよ?」
「……わかりました」
不服そうではあったけれどラエルは頷いてくれた。
しかし、そんなラエルの言葉を待っていたのは決して俺だけではなかった。
「さて。用件は終了ね?」
母は、用済みとばかりに俺を追い出しにかかった。
「ちょ! 母さん、ひどいじゃねえか!」
「あらあら、母は協力してくれるあなたに多大なる感謝はあるけれど、それ以上は無いの。それに、十分サービスはしてあげたでしょう?」
何のことを言われたかはわからなかったが、やはりこの場の同席は母なりに止むを得ないと言う考えがあったようだった。
「今から本格的に彼女に処置を施します。大人しく、あなたは待っていなさい」
母はぴしゃりと言って、戸を閉めてしまった。
仕方無しに俺は、その場を離れ、部屋へと戻ることにした。
いつかの楽しみがまた増えたなと、そう思いつつ。