改ざんされた一頁
審議の三日前、工房の戸を叩いたのは、港の記録係だった。
「監査帳を見せてほしい」
彼は息を切らし、濡れた外套の内側から封印された包みを取り出した。
「審議官の命令です。提出前に、帳面の原本を確認するそうです」
リセは包みを受け取らなかった。
「原本は旧灯台の保管庫にあります。ここにあるのは写しです」
「それでも、確認しろと」
記録係が差し出した書面には、監査帳の一部を審議資料から除外する、と書かれていた。理由は、紙が破損し判読不能になったため。だが、その下に記された頁番号は、リセが整理した目録と一致しない。
紙に触れると、文字の間に引っかかるような違和感が走った。
「この命令書は、監査帳の第八頁を除外すると書いています。でも、目録では第八頁は水門の修繕費です。破損しているのは第九頁のはずです」
「写しの目録が間違っているのでは?」
「その可能性はあります」
リセはすぐに答えた。
「だから、今ここで決めません。原本と照合します」
記録係は困った顔をしたが、やがて包みを置いて帰った。封印には審議所の印があった。正規のものに見える。しかし、印が正しいことと、中身が正しいことは別だった。
ノアは窓辺から包みを見ていた。
「触れたか」
「命令書だけです」
「何が分かった」
「書かれた内容の食い違いだけです。誰が間違えたのか、誰が変えたのかは分かりません」
リセは封印を見つめた。
「でも、原本を確認する前に除外しようとしている。これは偶然ではないと思います」
「思うだけでは、審議で弱い」
「ええ。だから確かめます」
二人は旧灯台へ向かおうとした。だが、工房の前にはすでに人だかりができていた。先頭にいたのは、以前リセを詐欺師と呼んだ商会の代理人だった。
「監査帳の写しを押収する」
「その権限は誰から?」
「審議所だ」
代理人は命令書を掲げた。先ほどのものと同じ文面だった。
リセは命令書に触れた。二枚の紙には、同じ内容が書かれている。けれど、日付の書式が違った。片方は月を数字で記し、もう片方は古い港町の表記を使っている。さらに、署名欄の審議官の役職名もわずかに異なっていた。
「この二枚は、同じ日に同じ人が書いたものではありません」
代理人の顔から笑みが消えた。
「そんなことを言って、時間を稼ぐつもりか」
「違います。どちらが正しいかは、私には分かりません。だから、両方を保管して審議に提出します」
工房の奥から、ミナが出てきた。彼女は帳面を抱えている。
「写しはもう一部あります」
リセが振り返ると、ミナは静かに続けた。
「監査帳を最初に写したとき、私は頁ごとに番号を振りました。書き写した日付も、立ち会った人の名前も残してあります」
代理人が舌打ちした。
「素人の写しに証拠の価値はない」
「価値を決めるのは、あなたではありません」
ミナは震えながらも、帳面を開いた。
「第八頁には、水門の鍵を二人確認で管理する規則が書かれていました。第九頁には、鍵の改造費として商会の倉庫から支払われた金額が記されています。けれど、今日届いた写しでは、第九頁が欠け、第十頁が第九頁になっている」
人だかりの中から声が上がった。
「頁を飛ばしたのか」
「誰がそんなことを?」
代理人は命令書を奪おうとした。ノアが一歩前に出た。
「触るな」
短い言葉だった。代理人は足を止めた。
リセはミナの帳面を受け取った。そこには、監査帳を写した全員の署名があった。工房の職人、帳場の老人、夜番の少年。誰か一人の記憶ではない。何人もの手が、同じ頁を確かめていた。
「私の力は、紙に残った矛盾しか読めません」
リセは集まった人々に向けて言った。
「この頁が誰によって抜かれたのかまでは分かりません。でも、抜かれる前に何が書かれていたかは、ここに残っています。写しを作った人たちが、日付と署名を添えてくれたからです」
ミナが小さく息を吸った。
「私たちは、リセさんに頼まれたから写しただけです」
「違う」
リセは首を振った。
「あなたが必要だと思ったから、残してくれた」
ノアは工房の外へ出て、通りの両側にいる人々を見渡した。
「この包みは審議所へ運ぶ。誰か一人に預けない。町の代表を三人選び、封印を確認しながら持っていく」
水番の老人が手を挙げた。パン屋の少女も前へ出た。最後に、ギルが帽子を脱いだ。
「俺も行く。俺の証言が書かれた頁を、消させない」
代理人は何か言いかけたが、周囲の視線に押されて黙った。
その日の夕方、四つの写しが並べられた。どれも完全ではなかった。紙の擦れ、読めない数字、書き手の癖。それでも、抜け落ちた部分を互いに補い、記録が改ざんされる前の形が浮かび上がった。
リセは最後の欄に、こう書いた。
――この写しは、原本の代わりではない。原本が変えられた可能性を示す、複数の証言と記録である。
ノアがその文を読んだ。
「断定しないのか」
「断定できないことを、断定したくありません」
「それで足りるか」
「足りないなら、審議で皆に確かめてもらいます」
ノアは頷いた。
夜、工房の灯りを消す前に、リセは改ざんされた頁と、改ざん前の写しを並べて見た。違いはわずかだった。数字ひとつ、頁番号ひとつ、署名の位置ひとつ。
だが、そのわずかな違いが、誰かの罪を誰かの失敗に変えようとしていた。
明日、彼らは町の前に立つ。
リセは筆を置き、隣で鍵を包むノアを見た。もう、彼の記憶だけに頼ることも、自分の力だけに頼ることもない。
消された言葉は、残された手と目によって、再び姿を現していた。




