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ナポリタンと銀の皿

掲載日:2026/08/12

その老人は、音もなく静かに店に入ってきた。

上品なスーツに身を包み、白髪を綺麗に撫でつけていた。

杖をついてはいるが、その歩みには乱れがない。


古書店街の外れにある古い喫茶店。

昼間はサラリーマンと学生が行き交うこの街も、夜は静まり返っている。


老人の姿を見つけて、店の奥からコック姿の老マスターがにこやかに出迎えた。


「いらっしゃいませ、藤堂さん」

「やぁ、今年も寄らせて貰ったよ」

「いつものお席に、どうぞ」

「ありがとう」


藤堂、と呼ばれた老人は、杖を置いて、小さな風景画のかかっている壁の前の席に腰を下ろした。


「ナポリタンを一つ」

「かしこまりました」


老マスターは笑顔で頭を下げると、厨房へ立ち去った。


「お孫さんが後を継ぐと言っていたね」

「ええ。しっかりやってくれていますよ」


老マスターが自ら、湯気の立つ銀の皿を運んできた。


「お待たせいたしました。ナポリタンです」


老人は顔をほころばせて、フォークを手に取った。


「ああ、これだ。これが食べたくてね」

「どうぞ、召し上がってください」


老マスターが水の入ったグラスをテーブルに置いた。


「ああ、この味だ。こればかりは、他所では食べられない」

「気に入って頂けて、なによりです」


「マスターとも長いつきあいになるね」

「藤堂さんが会社に入ったばかりの頃から、ですものね」

「退職の記念に、妻と食事に来たのが昨日のことのようだよ。あれからもう何年になるかな」

「あの時は驚きました。もっと良いお店もあったでしょうに」

「妻に、このナポリタンをどうしても食べさせたくてね」


老人と老マスターの思い出話は尽きることもなく続いた。


「ああ、おいしかった。ごちそうさま」

「ありがとうございます」

「また、来年」

「はい。また、来年」


老人は来た時と同様、音もなく店を後にした。

老マスターも静かに厨房の奥へ姿を消した。


少し照明を落とした薄暗い店内で、小さな風景画のかかっている壁の前のテーブルには、銀の皿に盛りつけられたナポリタンと、少し照れくさそうに笑う二人の男性が写った、セピア色の写真が置かれていた。


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― 新着の感想 ―
神保町の古本屋街などを思い起こしながら拝読しました。 900字にも満たないのに、しっとりしみじみした味わいに惹かれます。 お盆ですものね……。年に一度の逢瀬というと七夕みたいですが、男性同士の友情、い…
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