ナポリタンと銀の皿
その老人は、音もなく静かに店に入ってきた。
上品なスーツに身を包み、白髪を綺麗に撫でつけていた。
杖をついてはいるが、その歩みには乱れがない。
古書店街の外れにある古い喫茶店。
昼間はサラリーマンと学生が行き交うこの街も、夜は静まり返っている。
老人の姿を見つけて、店の奥からコック姿の老マスターがにこやかに出迎えた。
「いらっしゃいませ、藤堂さん」
「やぁ、今年も寄らせて貰ったよ」
「いつものお席に、どうぞ」
「ありがとう」
藤堂、と呼ばれた老人は、杖を置いて、小さな風景画のかかっている壁の前の席に腰を下ろした。
「ナポリタンを一つ」
「かしこまりました」
老マスターは笑顔で頭を下げると、厨房へ立ち去った。
「お孫さんが後を継ぐと言っていたね」
「ええ。しっかりやってくれていますよ」
老マスターが自ら、湯気の立つ銀の皿を運んできた。
「お待たせいたしました。ナポリタンです」
老人は顔をほころばせて、フォークを手に取った。
「ああ、これだ。これが食べたくてね」
「どうぞ、召し上がってください」
老マスターが水の入ったグラスをテーブルに置いた。
「ああ、この味だ。こればかりは、他所では食べられない」
「気に入って頂けて、なによりです」
「マスターとも長いつきあいになるね」
「藤堂さんが会社に入ったばかりの頃から、ですものね」
「退職の記念に、妻と食事に来たのが昨日のことのようだよ。あれからもう何年になるかな」
「あの時は驚きました。もっと良いお店もあったでしょうに」
「妻に、このナポリタンをどうしても食べさせたくてね」
老人と老マスターの思い出話は尽きることもなく続いた。
「ああ、おいしかった。ごちそうさま」
「ありがとうございます」
「また、来年」
「はい。また、来年」
老人は来た時と同様、音もなく店を後にした。
老マスターも静かに厨房の奥へ姿を消した。
少し照明を落とした薄暗い店内で、小さな風景画のかかっている壁の前のテーブルには、銀の皿に盛りつけられたナポリタンと、少し照れくさそうに笑う二人の男性が写った、セピア色の写真が置かれていた。




