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第七話 遠き日の熱

夜の事務所には、換気扇の回る低い音だけが響いていた。事務所で一人の俊宏は、デスクの椅子に深く身体を沈めた。iQOSを口に加え、独特の香りを胸に深く吸い込む。吐き出した白い蒸気が、デスクのライトに照らされてゆらりと揺れた。窓から見える夜空は狭いが、その向こう側に、ふと五十年近く前の「広島の空」が重なった。十代の終わりの、あの剥き出しの季節が鮮烈に蘇る。


中学を卒業してすぐ、手に負えない暴走族だった俊宏は、親の手によって山奥の寺へと叩き込まれた。更生という名の、文字通りの監獄だった。


朝四時、凍てつく空気の中での起床。十六歳の、底なしの胃袋を持つ成長期の俊宏にとって、そこでの食事は拷問に近かった。出されるのは、薄い出汁に野菜の切れ端が浮いた汁と、一握りの麦飯、それに一切れのたくあんのみ。一汁一菜とは名ばかりの、飢えをしのぐためだけの最低限の栄養だ。


「いただきます」の唱和が終わるやいなや、それを数分で胃に詰め込まなければならない。味わう暇などない。喉を通る熱さだけが、自分が生きている証だった。食い足りない腹は、一日中、獣のように鳴り続けた。


午後は素手で、凍るような冷水の張った便所を(みが)き上げた。指先の感覚(かんかく)がなくなるまで陶器を(こす)り、その後は一畳(いちじょう)雑巾(ぞうきん)がけを、腰を落として何十往復もさせられた。


空腹で目が(くら)み、ふと反抗的な目を向けようものなら、容赦なく竹刀が飛び、裏山での果てしない穴掘りが待っていた。掘っては埋め、掘っては埋める。何の意味もないその作業が、若者の無駄なエネルギーを削ぎ落としていった。


肉体も精神も極限まで削られ、ただひたすらに「己」と向き合わされる日々。そこで出会ったのが、広島から送られてきた和彦だった。


和彦もまた、地元では名の知れた不良だった。最初は反発し合ったが、共に理不尽(りふじん)制裁(せいさい)に耐え、消灯後(しょうとうご)に布団の中で二人は将来の夢を語り合う「戦友」になっていた。


「なぁ、カズ、ここを出たら、死ぬほど肉を食おうぜ」


「ほうじゃの、とし、ここを出たら広島に来んさい。ぶちええツレを紹介してやるけぇ」


修行を終えて東京に戻り、少し落ち着いた頃、和彦から誘いが入った。十代の終わりの夏、俊宏は夜汽車(よぎしゃ)(ゆら)られ、広島へと向かった。


当時の広島は、東京に負けず劣らず暴走族が荒れ狂う激しい街だった。和彦のツレたちと合流し、改造バイクの排気音を響かせて土手を流した。寺での飢えを晴らすかのように、お好み焼き屋で山盛りの肉を食らい、夜の海に飛び込んで笑い転げた。一週間の滞在。解放感に身を任せて遊び呆けていた、そんな帰る二日前のことだった。


和彦の先輩から紹介されたのが、二歳年上のサヤだった。大人びた化粧、少し(かす)れた声。思春期真っ盛りの俊宏は一瞬で心を奪われた。


残された時間はあと二日。寺で抑圧されていた反動もあり、頭の中は彼女への下心でパンパンだった。どうにかして抱きたい、その柔らかな身体に触れたい。だが、サヤの余裕のある眼差しに見透かされている気がして、結局、指一本触れられぬまま帰りの日が来た。

広島駅のホームで、俊宏は震える手で自分の住所と固定電話の番号を書いたメモを差し出した。サヤはふっと笑い、自分の連絡先を記した紙を俊宏のポケットにねじ込んだ。「気が向いたら、電話してきんさい」


東京へ向かう列車の窓。遠ざかる広島を見つめながら、俊宏は勇気のなかった自分を呪い、激しい後悔に襲われていた。


それから数週間後のことだ。俊宏は、当時付き合っていた女と、ボロアパートで同棲していた。その日、女がバイトに出かけ、俊宏は一人、ぼんやりと天井を眺めていた。


ジリリリン――。


不意に、黒電話が沈黙(ちんもく)を破った。


「……もしもし」


『としくん? 私よ、サヤ』


「え?サヤ?サヤなのか」


心臓が、(のど)の奥までせり上がってきた。


『今、東京におるんよ。あんたに会いに来ちゃった……今から会える?』


頭を殴られたような衝撃(しょうげき)だった。携帯電話なんてない時代だ。あの年上のサヤが、一人の青二才に会うためだけにすべてを投げ打ってやってきたのだ。


「待ってろ……すぐ行く!」


同棲していた女のことなど、一瞬で頭から消え去っていた。八重洲の改札口。人混みの中に、白いワンピースを(まと)ったサヤが立っていた。


「……本当に、来ちゃった」


その一言で、俊宏の理性は音を立てて(くず)れた。広島では手も握れなかった自分が、その夜は彼女の情念(じょうねん)に飲み込まれるようにすべてを(ささ)げた。


iQOSの加熱が終わる合図の振動(しんどう)が、掌に伝わる。


寺の飢え、広島の熱い肉の味、そしてサヤさんの白い身体。それらすべてを背負って生きてきたからこそ、今の自分がある。


今までの自分はどれほどの人間を傷つけ、愛してきたのか。


「……若かったな、俺も」


俊宏は立ち上がり、事務所の明かりを消した。

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