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第六話 転居と蜜月

水曜日の夕暮れ。俊宏の事務所で事務作業を終えた早苗は、椅子から立ち上がれずにいた。その小さな肩が、いつになく力なく落ちている。


「としちゃん、相談があるの……」


消え入りそうな声で打ち明けられたのは、切実な住まいの悩みだった。今のマンションは家賃が高すぎて生活が立ち行かず、市営住宅に移りたいが、すでに二回も抽選に外れてしまったという。


「としちゃん、こういうの、何とかなったりしないかな~? 私、もうどうしたらいいか分からなくて……」


(すが)るような瞳に、俊宏の胸が(うず)いた。放っておけない性分の俊宏は、一時は区議会議員に頭を下げることまで考えた俊宏だったが、ふと思い出した知識が彼を冷静にさせた。俊宏は早苗の目を見て、確信を持って告げた。


「早苗、安心しろ。市営住宅の抽選ってのはな、外れた回数がちゃんとカウントされてるんだ。二回外れたってことは、次は当選確率がぐんと上がる仕組みになってる。三度目の正直だ、次は必ず当たる。俺の勘は外れねえよ」


「えっ……本当に? としちゃん、(なぐ)めじゃなくて~?」


半信半疑(はんしんはんぎ)のまま、祈るような気持ちで三度目の申し込みをした早苗のもとに、数週間後、運命の通知が届いた。


「当たった……。嘘、本当に当選しちゃった……!」


早苗は震える手で通知書を握りしめ、すぐに俊宏にLINEを送った。


(早苗:すごい……としちゃん、本当に予言者みたい。あの時、力強い声で大丈夫だって言ってくれたから、私、明日も頑張ろうって思えたんだ。としちゃんは、私の魔法使いなのかな……)


一方、俊宏も報告を受けて、事務所で一人、小さくガッツポーズを作っていた。


(俊宏:よしっ……! まあ、仕組みを知ってりゃ当然なんだが、あいつのあの喜びようを想像すると、柄にもなく鼻が高いぜ。あいつの不安を一つ、俺が消してやれたんだな)


引越し当日。俊宏は仕事用の二トントラックを自ら運転し、早苗の住むマンションへ向かった。


「よし、運び出すぞ」


気合を入れて部屋に入った俊宏だったが、拍子抜けするほどに荷物は少なかった。一人暮らしの彼女の部屋はすでに完璧に整理されており、段ボール箱が数個、整然と並んでいるだけだった。


「準備、早かったんだな」

「うん、早く新しい生活を始めたくて。としちゃん、よろしくね」


作業着の袖をまくり、俊宏は慣れた手つきで荷物を積み込んでいく。早苗も細い腕で小さな箱を運び、二人の共同作業はあっという間に終わった。


新居となる市営住宅に到着し、鍵を開ける。


「お邪魔します……」


初めて入る早苗の新居。何もない、まだ他人の匂いのしない部屋に、二人きり。俊宏の胸に、かつて味わったことのないような高揚感(こうようかん)がこみ上げてきた。


荷物を運び入れ、一緒にガムテープを()がして荷解きを始める。


「これはこっちがいいかな~?」

「ああ、そこがいいんじゃないか。重いものは俺がやる」


狭いキッチンに二人で並び、あっちだこっちだと相談しながら食器を並べていく。その光景は、まるで若かりし頃に夢見た早苗との「新婚生活」そのものだった。


(俊宏:ったく……。六十四にもなって、新婚さんごっこかよ。でも、なんだろうな。この狭い部屋を自分たちの手で整えていく感じ。長年連れ添った家族とは違う、この瑞々しい感覚。あいつと並んでるだけで、自分が若返ったような気がしてくるぜ)


早苗もまた、隣で甲斐甲斐しく動く俊宏の大きな背中を見つめ、胸を熱くさせていた。


(早苗:としちゃんの広い背中……。この人が、私の新しい生活を一緒に作ってくれてる。なんだか、ずっと前からこうなることが決まっていたみたい。この部屋、まだ何もなくて寂しいはずなのに、としちゃんがいるだけで、こんなに温かいんだ……)


片付けが一段落し、がらんとした部屋で二人は並んで座った。


「ありがとね、としちゃんがいなかったら、私、今頃どうなっていたか……」


早苗がそっと俊宏の腕に寄り添う。


夕暮れの光が差し込む新しい部屋で、俊宏は彼女の肩を抱き寄せた。不器用な男が守り抜いた、これが彼らの「新しい家」の始まりだった。

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