第五話 贈り物の温もり
事務所での共同作業が始まってから、二人の間には穏やかで、しかし確かな熱を帯びた蜜月のような時間が流れていた。俊宏にとって水曜日は、一週間のうちで最も待ち遠しく、最も神経を使う日となっていた。
水曜日以外の日でも、二人の交流は途切れることなく続いていた。俊宏が仕事の移動中、早苗の勤める不動産屋の近くを通る際、あらかじめ「あと5分で前を通る」とスマホに短いLINEを入れるのが、いつの間にか二人の暗黙の約束になっていた。
ハンドルを握り、見慣れた入谷の交差点を抜ける。不動産屋の店先が視界に入ると、そこにはすでに早苗がスッと現れていた。仕事の手を止めて外に出てきた彼女は、俊宏の車を見つけるとパッと顔を輝かせ、手を振ってくれる。
俊宏もまた、片手をスッと上げてそれに応え、軽くクラクションを一度だけ鳴らす。本当は、思い切り手を振り返したい衝動に駆られるが、硬派で育ってきた男としての理性がそれを押しとどめていた。
(いい歳して、何浮ついてんだ。……でも、あんなに嬉しそうにされると悪い気はしねえな)
そのわずか数秒のやり取りが、荒っぽい日々に追われる俊宏の心を、驚くほど軽やかにさせていた。
ある日の夜、俊宏のスマホが短く震えた。
「早苗:としちゃん、大変だ〜。お家の炊飯器が壊れちゃったみたい」
「早苗:困ったな〜明日からご飯どうしよう」
泣き顔の絵文字が三つ並んでいる。俊宏はリビングのソファで天井を仰いだ。困っている人間を放っておけないのは、彼の天性だ。あの小さい体で必死に生活をしている早苗が困る姿を見たくはない。
(炊飯器くらい、安いもんだ。早苗にひもじい思いはさせられねえ)
翌日、俊宏は仕事の合間に近所の家電量販店へ寄り、信頼できるメーカーの炊飯器を選んだ。あまりに高級すぎると、かえって早苗に気を使わせてしまうと考えた、彼なりの配慮だった。
そしてその日の夕方、事務所での作業を終えた際、無造作に箱を差し出した。
「ほら、これ持っていけ。炊飯器だ」
「えっ、いいの~? こんなの……。嬉しい、としちゃん、ありがとう!」
飛び上がって喜ぶ早苗の姿に、俊宏は「別に、安物だ。気にするな」と不器用な嘘をつきながら、照れ隠しに顔を背けた。
その夜、早苗は贈られた炊飯器を愛おしそうに箱から出し、キッチンに据えた。すぐにでも使いたい衝動に駆られたが、彼女はあることを思いつく。
早苗はその夜、あえてご飯を炊かなかった。
翌朝、まだ外が薄暗いうちに目を覚まし、丁寧に米を研いだ。スイッチを入れ、静かに蒸気が上がるのを待つ。初めて炊き上がった真っ白なご飯を、愛おしそうに見つめるのであった。
翌日、朝早く、俊宏のスマホに早苗から連絡が入る。
「早苗:としちゃん、おはよう~」
「早苗:今日、お店の前を通るとき、少しだけ止まってほしいな~」
「早苗:お願いがあるの~」
理由もわからぬまま、俊宏は仕事車を走らせた。入谷の交差点を抜け、彼女が勤める不動産屋の前に差し掛かる。ハザードランプを点けて車を寄せると、店の中から早苗が小走りで駆け寄ってきた。
セミロングの髪を揺らし、身長百五十センチほどの小さな体を弾ませてやってくるその姿は俊宏の理性を根こそぎ奪っていくほどに可憐であった。
「としちゃん、おはよう〜はい、これ! としちゃんにプレゼントしてもらった炊飯器で、今朝初めて炊いたご飯なの。私もお昼に同じお弁当を食べるからね。……はい、お仕事頑張って~!」
窓越しに手渡されたのは、まだほんのりと温もりの残る手作りのお弁当だった。
それは完全な不意打ちだった。
「お、おい……なんだよこれ。変な気を遣うなよ」
俊宏はぶっきらぼうに突き放した。しかし、手の中に伝わるずっしりとした米の重みと、包みから微かに漂う出汁の香りに、抑えようとしても口角が緩んでしまう。
「いいから! じゃあね~!」
早苗が満面の笑みで手を振りながら店へ戻っていく。俊宏はあえて目を合わせず、片手をぶっきらぼうに上げて車を出した。だが、バックミラーに映る自分の顔は、六十四歳の男とは思えないほど、だらしなく綻んでいた。
(ったく、あいつ……。サプライズなんてガラじゃねえだろ。……同じ弁当かよ…)
昼時。現場近くの路肩に車を停め、俊宏は一人で弁当の包みを開いた。ふっくらと輝く真っ白なご飯。一口運ぶと、米の甘みがじんわりと五臓六腑に染み渡った。
(……うめえな。あいつ、こんなに料理上手かったのか。それにしても、同じ弁当か。……まさかこの歳でこんな気分になるとはな)
俊宏は一人、誰もいない車内で口元を緩ませた。
同じ頃、早苗も不動産屋の奥にある小さな休憩室で、自分のお弁当箱を開いていた。
(としちゃん、今頃食べてくれてるかな~)
早苗は一口ずつ、慈しむようにご飯を噛みしめた。一人ぼっちで食べるはずだった昼食が、俊宏にプレゼントされた炊飯器と、同じメニューのお弁当のおかげで、まるですぐ傍に彼が座っているような温かさに満たされていた。二人の距離は、たとえ離れていても、このお弁当という「共有」によって一つに結ばれていた。




