第四話 罪が重なっていく想い
同窓会、そして山田のお見舞いを経ててと早苗の距離はスマホの画面を通じて急速に縮まっていった。
かつての俊宏であれば、指先でちまちまと文字を打つ作業など、面倒の極みだと吐き捨てていただろう。だが今は、ズボンのポケットでスマホが震えるたびに、誰にも見られないよう口角を緩ませる自分がいた。
連絡はいつも、朝早くの早苗から始まる。
まだ家族が起きてこない薄暗いリビングで、俊宏がコーヒーを啜っていると、手元のスマホが立て続けに震える。
「早苗:としちゃん、おはよう~」
「早苗:今日は朝からいいお天気だね〜お洗濯物がいっぱい干せそう」
「早苗:今日も一日、怪我しないように気をつけてね」
並んだ早苗のメッセージに対し、俊宏は迷いながらも短い返信を一つだけ返す。
「俊宏:おはよう。ああ、今日は現場だから助かるよ。早苗も気をつけろよ」
早苗の言葉はいつも積極的で、それでいて押しつけがましくない温かさがあった。それに対して、俊宏はどうしても受け身になってしまう。長年培ってきた硬派な気質が、気の利いた返信を邪魔するのだ。
(本当はもっと気の利いたことを書きてえんだがな)
正直に言えば、次から次へと届くメッセージに「おいおい、またかよ」と呆れる自分もいる。返信の内容を考えるのも一苦労だし、仕事の手が止まることもある。だが、その「面倒くささ」こそが、今の俊宏にとっては贅沢な重みだった。誰かに気にかけてもらえることの気恥ずかしさと、それを上回るほどの充足感。
(ったく、早苗はよくこれだけ話すことがあるな……。でも、通知がねえと、それはそれで落ち着かねえんだから、俺も焼きが回ったな)
俊宏は自分の不器用さに苦笑しながら、それでも画面を閉じる前に、彼女の名前を指でそっとなぞるのが日課になっていた。
昼休み、作業着のポケットがまた小刻みに震える。
「早苗:今、お昼休みかな~?」
「早苗:入谷の近くに新しいパン屋さんができたんだよ~」
「早苗:今度、としちゃんにも食べてほしいな~」
俊宏は握り飯を頬張りりながら、周囲の目を盗んで画面を叩く。
「俊宏:そうか。パンはあまり食わないが、早苗が言うなら今度行ってみるよ」
「早苗が言うなら」という一言を打つのに、俊宏は五分も悩んだ。送信ボタンを押した後、熱くなった耳を冷やすように冷たいお茶を飲み干す。
夜、家の中が静まり返った頃に届く言葉は、さらに俊宏の心を揺さぶった。
「早苗:今日も一日お疲れ様〜。としちゃん、ゆっくりお風呂に入ってね」
「早苗:私はこれから少しだけ読書して寝るね~。おやすみなさい」
「早苗:また明日ね〜としちゃん」
「俊宏:ああ、おやすみ。また明日」
たった一行の返信。だが、その文字を目にするだけで、一日張り詰めていた神経がふわりと解けていく。そんな日常が、いつの間にか俊宏にとって、かけがえのない活力になっていた。
ある水曜日の夜。二人は上野の隅にある、落ち着いた雰囲気のイタリアンレストランにいた。
「水曜休みなんだな」
俊宏の問いに、早苗はパスタを巻く手を止めて頷いた。
「そうなの~。不動産業界って、契約が水に流れるって縁起を担いで、水曜日を定休日にするんだって〜大手だと火曜日は火災を連想させるからって、火と水を連休にしてるみたいだよ」
「へえ、ゲン担ぎか。職人の世界と同じだな」
「あのね、としちゃん……。ちょっと相談があるんだけど……」
早苗が急に声を落とし、ワイングラスの縁を指でなぞった。詳しく聞けば、不動産屋のパート給料だけでは、西浅草のマンションでの一人暮らしは想像以上に厳しいという。
(早苗はパートで頑張ってるって言ってたな。この年で一人、生活を支えるのは並大抵のことじゃねえ。……俺にできることはねえか)
俊宏らしい、無骨な優しさが頭をもたげる。
「……それなら、うちに来ないか。俺の会社だ。人手はいくらあっても足りない。月に二回、水曜だけでもいい。事務の補助を頼めないか」
「えっ?」
早苗は驚いた顔をした後、パッと表情を明るくした。
「本当に~? としちゃんの会社で働けるなんて、そんなに心強いことはないよ」
(よかった……。あいつ、あんなに嬉しそうな顔して。これなら俺も、少しは胸を張ってあいつを支えられる)
こうして、月に二回の「水曜日」という特別な時間が始まった。
早苗に任せたのは、取引先への請求書の発行業務だった。早苗が事務所に来る時間には、すでに従業員たちは現場へ向かい、事務所はしんと静まり返っている。必然的に、そこは二人きりの空間となった。
事務所の一番奥に俊宏の席があり、その右斜め前、かつて経理担当が座っていた席に早苗を座らせた。
伝票と突き合わせ、請求金額に差異がないか一軒ずつ確認していく。間違いがなければ、俊宏の印を一つずつ丁寧に押印し、三つ折りにした用紙を封筒に入れて封をする。
これまでは俊宏が現場から戻り、夜遅くに重い体に鞭打って、目をこすりながら一人で行っていた作業だ。
「としちゃん、ここの金額、伝票と百円だけ合わないみたいだけど?」
早苗が書類を指差しながら尋ねる。
「ああ、どれだ」
俊宏は彼女の背後から覗き込むようにして、手元の請求書を指差した。
教えるために身を寄せると、すぐそばから早苗の石鹸のような香りが漂ってくる。ふとした拍子に彼女の肩と自分の腕が触れそうになり、俊宏は思わず息を止めた。
(いけねえ……。何をドキドキしてんだ、俺は)
修羅場をいくつも潜り抜けてきたはずの心臓が、情けないほど激しく打っている。
慣れない手つきで朱肉をつけ、慎重に印を突く早苗の指先。封筒の糊を丁寧に湿らせるその仕草。事務所の静寂の中で、二人の距離が、物理的にも心理的にも限界まで近づいていく。
(早苗:こうしてると、なんだか不思議。としちゃんがすぐ後ろにいてくれるだけで、なんだか守られているみたい……。でも、こんなに近くにいたら、私の心臓の音まで聞こえちゃいそう……)
「としちゃんのおかげで、私も助かるし、としちゃんの仕事も減るなら、これって最高だね」
早苗が振り返り、悪戯っぽく微笑む。その無邪気な笑顔の裏側に、俊宏は自分と同じ、危うい高揚感を感じ取っていた。
「ああ。……助かるよ、本当に」
夜遅くまで一人でやっていた事務作業が、今は二人だけの共同作業に変わった。
「ちょっと外に出てくる」
俊宏は、事務所内に充満する二人の熱気に耐えきれなくなり、逃げ出すように席を立った。
表へ出ると、下町の冷ややかな風が火照った顔を撫でる。俊宏は深く息を吐き出した。
(ったく、情けねえ。まるでガキの初恋じゃねえか……)
その頃、事務所に残された早苗も、一人で小さく溜息をついていた。
(早苗:としちゃん、慌てて出て行っちゃった。……もしかして、私のこと意識してくれたのかな。いい年して、こんなにドキドキするなんて……)
一通ずつ封筒が積み上がっていくたびに、二人の秘密もまた、確かな形を持って積み重なっていく。外はすっかり暗くなっていたが、事務所の明かりの下、二人の影は分かち難く重なっていた。




