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第3話 二人の距離、心の距離

週末の午後、俊宏は入谷の交差点近くに黒いセダンを停め、ハンドルを握る手から伝わる確かな熱を感じていた。家族サービスで使い古したはずの車内が、今日に限っては自分をどこか遠い場所へ運んでしまう異質な空間に思えてならない。


(俺は何をこんなに落ち着かねえんだ。ただのお見舞いだろうが)


心の中で毒づくが、バックミラーに映る自分の顔は、いつになく整えられた髪型のせいで余計に浮ついて見えた。その時、助手席の窓を小さく叩く音がした。


「としちゃん、お待たせ~」


ドアを開けて乗り込んできた早苗は、品の良いラベンダー色のカーディガンを羽織っていた。車内に、あの頃の記憶を呼び覚ますような、石鹸の清らかな香りがふわりと広がる。


「お、おう。待ってねえよ、今来たところだ」


「ふふ、ありがとう~。いい車だね、としちゃんに似合ってる」


早苗がシートベルトを締める際、細い指先が俊宏の視界をかすめた。それだけで、俊宏の心臓はアイドリング中のエンジンよりも騒がしく脈打ち始める。


車が走り出すと、早苗は最近の出来事を話し始めた。かつて、ガキ大将だった俊宏の隣を、お姫様のような早苗が歩きながら一生懸命に話していたあの頃と、何も変わらない光景だった。俊宏は前を見つめたまま、時折相槌を打つ。


(ああ、そうだ。早苗はいつもこうやって、俺の隣で笑っていたんだ)


言葉少なめであった自分と、よく喋る彼女。

その対比が心地よく、同時に彼女の横顔を盗み見たいという衝動と、見つめてしまえばすべてが崩れてしまうのではないかという恐怖が交互に押し寄せてくる。


病院での山田浩一との対面は、二人の緊張を少しだけ和らげてくれた。山田は管に繋がれながらも、二人が連れ立って現れたことに目を見開いた。


「おい、お前ら……。まだ続いてたのかよ」


「バカ言え、山田。同窓会で久しぶりに会ったんだよ」


俊宏は照れ隠しに声を荒らげたが、山田は力なく笑いながら、二人を見つめた。


「お前らを見てると、タイムスリップしたみたいだぜ。あの頃の竜中、そのままじゃねえか」


その言葉に、早苗は少し顔を赤らめ、俊宏は視線を逸らした。山田の衰えた姿は、自分たちが過ごしてきた歳月の残酷さを物語っていたが、同時に「今」という時間の尊さを、無言のうちに突きつけていた。


病院を出る頃には、日はすっかり落ちていた。駐車場へ向かう道すがら、俊宏はさりげなく切り出した。


「早苗、……飯でも行くか?」


「いいの? 私は何でもいいよ~、としちゃんに合わせる」


早苗の「何でもいい」という言葉を聞き、俊宏の脳細胞がフル回転する。六十四という自分たちの年齢を考えれば、本来なら和食や蕎麦あたりが妥当なところだろう。しかし、俊宏の頭に浮かんだのは「焼肉」だった。


(早苗はパートで働いてるって言ってたな。一人暮らしで、贅沢なんてしてねえはずだ。肉でも食って、精をつけてもらわねえとな)


それが俊宏らしい、無骨で真っ直ぐな優しさだった。


「よし、焼肉に行こう。スタミナつけねえとな」

「えっ、焼肉~? ふふ、としちゃんらしいね~」


案内したのは、地元の人間しか知らない隠れ家のような店だった。俊宏は運転があるし、そもそも酒が飲めない。氷のたっぷり入った烏龍茶を注文し、早苗にはビールを勧めた。


「私はいいよ~、としちゃんが飲めないのに悪いもん」


「いいんだよ。俺が飲ませたいんだ。お前、今日は疲れただろ」


俊宏の強い押しに、早苗は「じゃあ、一杯だけね~」と、嬉しそうにグラスを傾けた。肉が焼ける香ばしい匂いが立ち込め、次第にアルコールが回り始めた早苗の白い頬が、淡い桜色に染まっていく。


「覚えてる? 修学旅行のときのこと」

「ああ……あの日か」


早苗が思い出し笑いをする。当時、マドンナだった早苗の写真を無理やり撮ろうと群がる他校の男子生徒たちを、俊宏は鋭い眼光だけで追い散らした。


「としちゃん、あの時すごく怖かったんだよ~。でもね、本当は守ってくれてるんだって分かって、すごく嬉しかったんだ~」


「……よせよ。俺はただ、あいつらが気に入らなかっただけだ」


俊宏は網の上のカルビを裏返しながら、心の中で叫んでいた。


(本当は、あの時、誰にも触れさせたくなかった。今も……今だって、同じなんだよ)


早苗もまた、グラスを見つめながら、心の内で独白を繰り返していた。


(としちゃん。あの日の絆創膏の温かさを、私はずっと忘れてなかった。でも、今のあなたには守るべき家族がいる。私は、どうしたいんだろう……)


聞きたいことは山ほどあった。


(今の生活は幸せなのか)

(私のことを一瞬でも思い出してくれたことはあったのか)


そして、


(あの時、なぜ俺を……)

(あの時、なぜ私を……)


だが、二人はその問いを飲み込んだ。


店を出て、夜風が火照った体を冷やす。西浅草の早苗のマンションへと向かう車内は、不思議なほど静かだった。


「送ってくれてありがとう、としちゃん。今日は本当に楽しかった~家に着いたらLINEしてね、心配だから」


マンションの前で車を停めると、早苗が名残惜しそうに助手席から俊宏を見た。


「分かった。LINEするよ。早苗、また飯食おうな」


俊宏の言葉に、早苗は一瞬だけ瞳を潤ませ、小さく頷いた。


「うん……。待ってるね~」


彼女が車を降り、オートロックの扉の向こうへ消えていく。その背中を見送りながら、俊宏はハンドルに額を押し当てた。車内に残された、かすかな石鹸の香りと、彼女が座っていたシートの温もり。


二人はそれぞれの胸に宿った疑念や葛藤を、心の奥底へ深く埋め込んだ。明日のことは分からない。

今はただ、この胸の高鳴りを壊したくないだけであった。

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