第2話 指先から伝わる鼓動
下町の夜が深まり、周囲の家々の灯がひとつ、またひとつと消えていく。松本俊宏は風呂から上がり、誰もいないリビングのソファへ体を沈めた。
テレビの電源は切れたままだ。手元のスマホの画面だけが、俊宏の顔を青白く照らし出している。画面には、先日作成された同窓会のグループLINEが表示されていた。参加者一覧の中に、その名前はある。
森下早苗。
俊宏はその文字を、指先でなぞるように見つめていた。
「個別に送るなんて、やっぱり不自然だよな。いい歳して、何を浮ついてんだか」
自分に言い聞かせるように呟いてみる。
若い頃の自分なら、迷うことなどなかった。紺の特攻服を風になびかせ、爆音を響かせて彼女の家の前まで乗り付けたこともあった。経営者として修羅場をくぐってきたはずの指が、たった一行の送信ボタンを前に、今は臆病に固まっている。
だが、あの同窓会の夜。遠くの席で、誰かと笑いながらも、ふとした瞬間に早苗が見せたあの瞳。どこか遠くの空を見つめるような、あえかな寂しさを湛えた横顔が、俊宏の胸の奥底に刺さったまま抜けない。
「もし、あいつが今、一人で苦しんでるとしたら」
人情に厚く、困っている人間を放っておけない俊宏の性分が、大人の理性を静かに塗りつぶしていく。俊宏は意を決して、友達追加のボタンを押し、短いメッセージを打ち込んだ。
送信ボタンを押した瞬間、俊宏の心臓は中学の運動会のスタートラインに立った時のような、激しくも懐かしい鼓動を刻み始めた。それは、この数十年忘れていた、生きているという生々しい感覚だった。意識は濁流のように五十年前の記憶へと引き戻されていく。
一九七○年代。竜泉の街は今よりもっと活気と、少しの危うさに満ちていた。小学生だった俊宏は、ガキ大将としていつも膝に擦り(す)傷を作り、近所の頑固な職人たちに怒鳴られながら街を駆け回っていた。そんな泥だらけの彼にとって、同じクラスの森下早苗は、まるでお城のお姫様のように端正で、決して手の届かない存在だった。
ある日の放課後。俊宏は他校の生徒との小競り合いでこしらえた傷を隠すように、校庭の隅にある大きな銀杏の木の陰に座り込んでいた。
「また喧嘩したの? としちゃん」
風に揺れる風鈴のような声に顔を上げると、そこには夕日に照らされた、白いソックスが眩しい早苗が立っていた。彼女は優等生で、いたずらばかりしている俊ななき宏とは、住む世界が違うように見えた。
「……うるせえよ。関係ねえだろ」
照れ隠しで、突き放すような言い方しかできなかった。だが、早苗は怯むことなく、自分の通学鞄から小さな絆創膏
を取り出した。
「関係なくないわ。同じクラスだもの。……痛くない?」
そう言って、彼女は俊宏の頬の傷に、ためらいがちに小さな指を伸ばした。彼女の指先が触れた瞬間、俊宏の体中に電気が走った。喧嘩でぶたれた痛みよりも、その指先の温かさが、何倍も強く幼い胸を締め付けた。
早苗の石鹸のような清らかな香りと、真っ直ぐな瞳。俊宏は言葉を失い、ただ彼女を見つめることしかできなかった。
「後で、ちゃんとお家の人に消毒してもらってね」
そう言い残して、ランドセルを揺らしながら走り去った彼女の後ろ姿を、俊宏は日が暮れるまで見送っていた。それが、不器用な少年の、一生忘れられない初恋の始まりだった。
西浅草のマンションで、早苗もまた同じ記憶の片隅に触れていた。ロック画面に浮かび上がった、松本俊宏、という文字。彼女は思わず息を呑み、心臓を両手で押さえた。
「嘘……としちゃんから?」
震える指で画面をスライドさせると、そこには彼らしい、飾らない言葉が並んでいた。
「久しぶり。夜分に悪い、俊宏です。同窓会、ゆっくり話せなくて残念だったよ」
無骨な文字が、早苗の凍てついていた心を一気に溶かしていく。この十五年間、これほどまでに誰かからの言葉を渇望した夜があっただろうか。彼女は込み上げる涙を堪えながら、何度も文字を打ち直した。
「私こそ~。としちゃんが元気そうで、本当に安心した。連絡くれてありがとう」
送信した後、早苗はスマホをそっと胸に抱きしめた。温かな機械の熱が、自分の鼓動と共鳴している。俊宏の元に、すぐに返信が届く。
「俊宏:早苗は今、何してるんだ? 同窓会じゃ周りに人が多すぎて、全然聞けなかったよ」
「早苗:私はね~、今は入谷の不動産会社で受付の
仕事をしてるの~。もう十五年も前に一人になっちゃったから、毎日必死だよ~」
「俊宏:十五年も前……。離婚したってことか? 知らなかったよ。大変だったな」
「早苗:そうなの~。最初は不安だったけど、今は仕事があるだけでありがたいかな」
「俊宏:そうか。苦労したんだな。……あ、そういえば、山田浩一が同窓会に来てなかっただろ。あいつ、今入院してるんだってな。ケンジから聞いたよ」
「早苗:えっ、山田君が~? 知らなかったわ。大丈夫なのかな~」
「俊宏:検査入院らしいけど、顔出しに行こうと思って。来週あたり、お見舞いに行こうかと考えてるんだ」
「早苗:そうなんだ~。私も一緒に行ってもいいかな~? 久しぶりに私も会いたいし」
「俊宏:もちろん。一人で行くより、早苗が来てくれた方がコウイチも喜ぶだろうしな。じゃあ来週、一緒に行こう」
「早苗:本当~? 嬉しい。じゃあ、来週の予定合わせようね~」
画面越しに届く、早苗特有の柔らかな語尾。俊宏の顔は、自分でも制御できないほど綻んでさにちいく。山田のお見舞いという名目が、二人の再会を後押しする。一通ごとに二人の距離が縮まっていく。
俊宏は、この高揚感を止めることができなかった。早苗もまた、俊宏という強くて大きな存在に、知らず知らずのうちに心が吸い寄せられていく。
下町の夜はさらに深く更けていく。しかし、二人の掌の中にある小さな窓は、熱を帯びたまま夜明けまで対話を続けていた。




