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第1話 二人の距離と心の距離

東京都台東区竜泉。


かつて樋口一葉が名作「たけくらべ」の舞台として書き上げ、五千円札の肖像としてこの街を見守るようになった。路地裏には今も昭和の残り香が漂っている。


千束通りの商店街から一本入れば、夕暮れ時にはどこかの家庭からカレーの匂いが流れてくる。遠くで三ノ輪橋へ向かう都電荒川線の走行音が、かすかな地響きとともに耳をかすめた。


この下町で、松本俊宏は育った。


かつては紺の特攻服をなびかせ、排気音を響かせて風を切っていた少年も、今では従業員の生活を背負う経営者だ。二十二歳の娘と十五歳の息子を持つ父親でもある。


強面の顔には年輪のようなシワが刻まれたが、情に厚く、困っている人間を放っておけない性格は変わらない。地元の誰もが彼を兄貴分として慕っていた。


そんな彼が、ふとしたきっかけで中学校の同窓会に顔を出すことになった。会場は上野駅近く、夜の喧騒が心地よい大衆居酒屋だ。


店員に案内された個室の襖を開けると、そこには二十人ほどの同級生が集まっていた。


「おー松本、久しぶり」

「としひろ、老けたなぁ」


一斉に注がれる視線と声。俊宏は照れくさそうに笑い、空いている席に腰を下ろした。酒が飲めない彼は、迷わず烏龍茶を注文する。


隣に座る幹事の佐々木健二、通称ケンジが笑いかけてきた。


「そういえば、としひろは飲めなかったな」

「ああ、何度か挑戦したけど、体質だけはどうにもならねえ」


俊宏は苦笑いしながら、会の準備をしてくれたケンジに礼を伝えた。昔からクラスをまとめるのが上手かった男だ。


「竜中、同窓会にかんぱーい」


ケンジの発声とともに、部屋の熱気が爆発した。竜中こと竜泉中学校は2002年に廃校となり、もう存在しない。母校がない寂しさはあるが、その分、再会を喜ぶ声は野太(のぶと)く響いた。


「お前、そのハゲ方は進化しすぎだろ」

「うるせえ、お前のその腹こそ妊婦かと思ったわ」


瞬く間に、彼らは中学時代の呼び名へと戻っていく。


「俊宏、お前、昔は触るもの皆傷つけるナイフみたいだったのに、今じゃ仏様みたいな顔してんな」


当時、一緒にやんちゃをしていた石田弘、通称ヒロシが茶化してくる。


「やっと大人になったんだよ。俺たちはもう六十四だ。丸くもなるさ」


「確かにな、俺たち歳をとったよ」


二人は顔を見合わせ、少しだけ寂しそうな表情で笑った。厳しい教師の物真似や、体育祭の失敗談。思い出話に花が咲き、意識だけが三十年以上前の教室へとタイムスリップしていく。


しかし、ふと周りを見回した俊宏の動きが止まった。座敷の対角線上、遠くの席に彼女が座っていた。


森下早苗。


全校生徒が憧れたマドンナ。そして俊宏にとっては、生まれて初めて女性を意識し、不器用ながらも一途に恋をした相手だった。


「早苗……だよな」


洗練された美しさを(まと)った彼女の姿に、俊宏は心臓を強く掴まれたような衝撃を受けた。俊宏と森下早苗は、小学校一年生からの付き合いだった。わんぱくな少年だった俊宏は、昔からずっと、可憐な早苗に恋をしていた。中学生の時に少しだけ付き合った時期もあったが、当時はお互いに初心すぎて、何となく自然消滅してしまった。


話しかけに行こうにも、彼女の周りには常に誰かが集まっている。遠くから聞こえてくる彼女の鈴を転がすような笑い声に、俊宏の鼓動が早まる。


相変わらず、早苗は人気者だ。硬派を自認する自分が、あの輪の中に鼻息荒く飛び込んでいくのは、どうにも気恥ずかしい。


結局、俊宏にできたのは、ぬるくなった烏龍茶を

(すす)りながら、彼女の横顔を盗み見ることだけだった。


実は、早苗もまた、遠くで豪快に笑う俊宏の存在を

強く意識していた。俊宏はいつも皆の輪の中心にいた。


「としちゃん。相変わらず、人気者だ」


早苗は、十五年前に離婚したことや、今は入谷の不動産会社で受付しながら、西浅草のマンションで一人きりで暮らしている現状を、誰にも話していなかった。


華やかに装ってはいても、内側は空っぽだった。夜ごとに押し寄せる孤独感に押し潰されそうな毎日。今の俊宏に幸せな家庭があるのかさえ、彼女には分からない。


目が合いそうになると、早苗は慌てて手元の烏龍茶に視線を落とした。


「元気?」という当たり前の挨拶さえ、今の自分にはあまりにも重く、喉の奥に引っかかって出てこない。


結局、その日は一度も言葉を交わす機会がないまま、三本締めの合図とともに(うたげ)は終わった。


俊宏は帰り際、人混みに消えていく彼女の後ろ姿を、言いようのない喪失感とともに見送り続けた。連絡先さえ知らない。このまま一生、会わずに終わるのだろうか。


数日後の夜。俊宏は自宅で夕食を終え、寛いでいるとスマホが不意に震えた。


ケンジが作成したグループLINEへの招待。次々と参加者が増えていく通知の中に、その名前を見つけた

瞬間、俊宏の指が凍りついた。


「森下早苗」


彼女のプロフィール画面を恐る恐る開く。そこには、抜けるような青空と、どこまでも続く険峻(けんしゅん)な山脈の写真が設定されていた。凛としていて、どこか人を寄せ付けないその景色は、昔から高嶺の花だった彼女そのもののようで、俊宏は思わず息を呑んだ。


「早苗も、これを見てるのか」


居間で家族がテレビを見て笑っている。そのすぐ隣で、俊宏の心は一気に中学生の頃へ引き戻されていた。


彼女は今、何をしているのか。独りなのか、誰かといるのか。知りたくてたまらない衝動が、大人の理性を追い越していく。


その頃、西浅草の静かな部屋で、早苗もまた青白い画面を見つめていた。


「松本俊宏」


メンバー一覧にあるその名前を見て、張り詰めていた緊張がふっと解けるのを感じた。


今の自分にとって、彼は唯一、あの輝いていた青春時代を知る、としちゃんだ。


誰にも頼れず、一人で踏ん張ってきた十五年。その孤独の淵で、彼女は吸い寄せられるように俊宏のアイコンをタップした。


もし彼に守るべき家族がいても。たとえ今の安定した生活を壊すことになったとしても。


昔みたいに、もっと繋がりたい。


再燃した淡い恋心と、未来への危うい期待が、早苗の指先を激しく震わせていた。

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