第七章 /強襲
港町と村の夜は深く、霧は波間に漂う黒い影の輪郭を増幅させる。荒牧神主は護符と祝詞によって港町を一時的に守ったが、長時間の祝詞と護符作成、残穢の影響で心身ともに疲弊していた。膝をつき、筆と巻物を押さえながら荒牧は深く息を吐く。
「……この力では、七人ミサキを完全には封じられぬ……」
港町の波音が不規則に響き、霧の奥に揺れる微細な影が、荒牧の背筋に冷たい緊張を走らせる。残穢の圧力は依然として強大で、護符と祝詞だけでは、影を港町と村から追い払うことは不可能であることを、荒牧は痛感した。
荒牧は、六地蔵を管轄する寺社仏閣に援助を要請する決意を固める。港町の電話線や僧侶との書簡で連絡を取り、状況を説明すると、応援に向かう者として尼僧の青雀が選ばれた。青雀は冷静かつ慈悲深く、地蔵菩薩の秘法に精通している僧であるという。
数日後、村の山道に沿って小さな人影が見えた。深い紺色の衣をまとった尼僧、青雀である。歩みは緩やかで静かだが、その目は鋭く港町と村の異様な空気を見据えていた。荒牧は村の入口で彼女を迎え、深々と頭を下げる。
「青雀尼僧……ようこそ。七人ミサキの影は港町に潜み、村にも浸透しています」
「承知しました。護符と祝詞で押し返すだけでは十分ではない。地蔵和讃を用いた大規模な祭壇を構築しましょう」
荒牧と青雀は、村の広場に祭壇を設置する準備に取り掛かる。祭壇の設置場所は、港と村の中央を結ぶ視線が通る場所で、影の潜伏を一望できる石畳の上に選定された。祭壇は複数の層に分かれ、護符を配置するための台座、火を灯すための燈籠、波間や霧の動きに対応する鏡面板などが組み込まれる。
荒牧は墨と筆を取り、護符を祭壇の各台座に丁寧に置く。墨の匂い、和紙の手触り、微かな霊力のざわめきが手先に伝わる。青雀は巻物を広げ、地蔵和讃を確認しながら口に出して節を合わせる。彼女の声は港町の波音や霧に溶け込み、祭壇全体に清廉な空気を広げる。
「南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩……」青雀の声は低く、しかし港町と村の霊的な張力を押し返す力を帯びていた。荒牧も同調し、筆で護符に微細な霊力を注ぎ込む。墨と和紙、燈火の揺らぎ、鈴の響き、霧の揺らぎ――全てが交錯し、祭壇に宿る霊力が港町と村全体に波及する。
村人たちも、疲労困憊の中、祭壇周辺に集められ、護符を握り、青雀の節回しに合わせて声を上げる。微かな声でも波音や霧の揺らぎに共鳴し、祭壇の力を補完する。港町と村全体に漂う影の微細な輪郭が、わずかに薄れる瞬間が訪れる。
荒牧は祭壇全体を見渡し、青雀と息を合わせながら地蔵和讃を繰り返す。「影は完全に消えぬが、この祭壇があれば港町と村全体を一時的に守ることができる」
祭壇の完成と共に、港町の波音はわずかに静まり、霧の奥に漂う影の揺らぎは微細になった。しかし荒牧の胸中には、依然として残穢の濃さが重くのしかかる。村全体を覆う影の力は、護符や祝詞だけでは完全には封じられないことを、荒牧も青雀も痛感していた。
港町と村を守る戦いは、科学観測と護符・祝詞、そして地蔵和讃を用いた大規模祭壇の力によって、一時の清廉さを取り戻すことができた。しかし七人ミサキの影は完全に消えたわけではない。霧の奥深く、波間に潜む影は、次の満ち潮に備えて再び蠢き始めていた。
荒牧と青雀、柏木、そして村人たちは、疲労を抱えながらも祭壇の周囲に留まり、次の襲来に備える。港町と村全体の命運を賭けた、静かで緊張に満ちた夜が更けていく。
村の広場に完成した祭壇は、六体の地蔵菩薩が六道を象徴する形で配置された大規模な構造物である。祭壇全体は石畳の上に組まれ、護符や燈籠、鏡面板、香炉が精密に配置され、港町・村全体の霊的な波動を制御できる設計となっていた。
天道を象る地蔵菩薩
祭壇の最上段に置かれた天道地蔵は、光を帯びた衣と宝珠を手に持ち、霧の中でも輝く存在感を放つ。天道は神々や天上界の存在を象徴し、清浄な波動と光の力で七人ミサキの影を押し返す。護符は金色の紙に梵字を描き、光の波動を増幅させるように配置される。天道地蔵の周囲には小さな燈火が整列し、光が霧の奥に微細な揺らぎを作り、影の活動を制御する。
人道を象る地蔵菩薩
祭壇の中央前列に置かれた人道地蔵は、慈悲深い表情で村人の手を取り守る姿を模している。人道は生者の営みや倫理、日常生活を象徴し、村人の精神的安寧を支える。護符は和紙に赤墨で描かれ、村人の祈りと手の熱を受けて微細に波動を反応させる。青雀は人道地蔵の前で地蔵和讃を唱え、村人と呼吸を合わせ、港町と村の生活圏を影から守る。
修羅道を象る地蔵菩薩
修羅道地蔵は、荒々しい表情と鎧を身に纏い、力強く拳を握った姿で祭壇に鎮座する。修羅道は戦いや争いの苦悩を象徴し、七人ミサキの攻撃的な影に対抗する力を宿す。護符は黒墨で描かれ、影の揺らぎを感知する波動センサー代わりとなる。荒牧は筆を走らせ、修羅道の周囲に霊力を注ぎ込み、港町の影を押し返す力を強化する。
畜生道を象る地蔵菩薩
畜生道地蔵は、動物的な眼差しを持ち、地面に膝をつく姿で配置される。畜生道は本能や生存欲、動物的衝動を象徴し、霧の中で蠢く影や港町の獣的な残穢に対抗する。護符は緑色の紙に梵字を描き、港町の湿気や土埃、波間の微細な反射を通して影の動きを読み取る役割を担う。
餓鬼道を象る地蔵菩薩
餓鬼道地蔵は、細身で口元を閉ざし、手に鉢を持つ姿で祭壇に鎮座する。餓鬼道は渇望や欲望、魂の飢えを象徴し、七人ミサキによる不安と恐怖を吸収する役目を持つ。護符は紫の紙に描かれ、村人の恐怖心や不安感を分散し、祭壇全体の霊的バランスを整える。青雀は餓鬼道の前でゆっくりと祝詞を唱え、微細な波動を影に干渉させる。
地獄道を象る地蔵菩薩
地獄道地蔵は、深紅の衣を纏い、鋭い眼差しで影の侵入を睨みつける。地獄道は業苦や死後の苦悩、残穢の極致を象徴し、港町と村に潜む最も強力な七人ミサキの影を抑える砦となる。護符は黒と赤の混色で描かれ、祭壇の最下段に配置され、港町全体の波動を制御する。荒牧は筆を持つ手を震わせながらも、霊力を注ぎ、港町の波音や霧の揺らぎを読み取りつつ影を封じる。
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祭壇全体は六体の地蔵菩薩によって六道の力を再現し、港町と村を取り囲むように構築される。護符の色と波動、燈火の配置、鏡面板の角度、霧と波音の干渉を計算し、荒牧と青雀が地蔵和讃を唱えることで、港町と村全体の残穢を圧迫する。祭壇の中心には、地蔵和讃を刻んだ巻物が置かれ、港町の霧の奥に漂う影と微細な波動を受け止める核となる。
港町と村の空気は、六道地蔵の配置により微細な清廉さを帯び、影の輪郭はわずかに薄れる。しかし完全封印には至らず、七人ミサキの影は次の満ち潮に向けて潜伏していた。荒牧と青雀、柏木、そして村人たちは、祭壇を中心に港町・村全体を守る体制を整え、次の戦いに備えるのであった。
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祭壇の六体の地蔵菩薩が設置され、護符が整えられ、燈火が揺らめく中、港町と村には微細な清廉さが漂い始めた。荒牧が巻物を胸に押し当て、地蔵和讃を静かに唱え続ける中、柏木は祭壇の周囲を歩きながら六道地蔵の配置を確認していた。港町の霧はなお濃く、波音は微かに不規則な反響を続け、村全体に潜む七人ミサキの影を感じさせる。
その時、青雀は柏木の隣に静かに歩み寄り、声を落として言った。「柏木殿……この祭壇は、影を押し返すためのものではありますが、地蔵菩薩の本質は祓うことではありません」
柏木は眉をひそめ、地蔵菩薩が港町や村を守る力を信じつつも、影を封じることが最優先と考えていた。「祓うのではない……ですか? しかし、この港町や村には影が広がり、護符や祝詞でも完全には封じられません。だから祭壇を……」
青雀は微笑みを浮かべ、柏木の肩に手を軽く置いた。「地蔵菩薩は慈愛の神です。迷える魂を救い、苦しむ者に安らぎを与えるために存在されます。影と呼ばれる存在もまた、苦悩に囚われた魂であり、暴力的であっても根源は迷いと悲しみなのです」
柏木は祭壇の六体の地蔵菩薩を見渡す。天道の光、修羅道の力強さ、餓鬼道の虚ろな手元……それぞれの地蔵は、ただ影を封じるのではなく、港町と村に漂う残穢を救い、迷える魂に導きを与える姿を象徴していた。
「つまり……私たちは影を押し返すのではなく、港町と村を守りつつ、彼らを冥界に返す手助けをするということですか」柏木の声には、緊張と戸惑いが混じっていた。
青雀は頷き、祭壇の中心に置かれた巻物を指差した。「ええ。護符も祝詞も、祭壇も、全ては地蔵菩薩の慈悲を具現化する道具です。七人ミサキの影を消し去るのではなく、迷える魂を安らかに導くことが、最終的な解決となります」
港町の霧が微かに揺れ、波音が高低を持ちながら反響する。その中で、柏木は青雀の言葉を胸に刻み、影の存在に対する恐怖が少しずつ変化していくのを感じた。恐怖は依然として港町と村を包むが、それは単なる敵意ではなく、救済を必要とする魂の叫びであると理解できる。
「慈愛……救済……」柏木は低く呟く。祭壇の六道地蔵の姿を改めて見つめ、天道の光が波間に微細な反射を作り、修羅道が握る拳の影が港町に微かな安堵を与えるのを感じた。影は完全に消えはしない。しかし地蔵菩薩の慈悲が、港町と村、そして七人ミサキの魂に少しずつ作用しているのを、柏木は理解した。
青雀は再び地蔵和讃を静かに唱え始める。港町の霧が揺れ、波音に重なる鈴の音が祭壇全体に拡散する。柏木も声を合わせる。護符は微かに震え、村人の呼吸と心拍が祭壇の波動に同期する。港町と村を包む影はまだ消えないが、慈愛と救済の力が微細に広がり、港町と村全体に静かな清廉さをもたらしていた。
荒牧は二人を見守りながら、微細に揺れる霧の奥に潜む影を計測する。科学と祈り、護符と祝詞、そして慈悲の心――全てが一つになり、港町と村全体を守る祭壇の力を形成していた。七人ミサキの影はなお蠢くが、地蔵菩薩の慈愛によって、港町と村、迷える魂に微かな希望の光が差し込む瞬間であった。
港町と村を覆う霧は濃く、夜の闇と入り混じり、波間に黒い揺らぎを生じさせる。祭壇の六体地蔵は六道の力を宿し、護符と祝詞によって結界を張っていたが、七人ミサキの影はなお蠢き、港町全体に濃密な残穢を撒き散らしていた。
青雀は祭壇の前で地蔵和讃を絶え間なく唱え、柏木は六道地蔵の波動を監視し、微細な影の揺らぎに耳を澄ませる。港町の波音、霧の微振動、木造家屋の軋み、石畳に滴る水の音――全てが微細な残穢の指標となり、村人たちの恐怖心も結界に微かに反映されていた。
その時、結界の外で悲鳴が響く。霧の中、村人の一人が足を滑らせ、七人ミサキの影に取り囲まれようとしていたのだ。影は人間の形を模すことなく、黒くねじれた輪郭を持ち、触れれば冷気と重圧で骨まで震えるような存在感を放つ。荒牧は瞬時に状況を理解した。
「青雀、柏木……俺が外に出る!」荒牧は護符を胸に押し当て、巻物を握りしめ、祭壇の光の結界から一歩踏み出した。波音が荒く反響し、霧は手を伸ばすかのように揺らめく。結界を離れた瞬間、残穢の圧力が荒牧の全身に襲いかかる。冷気が骨の髄まで染み渡り、皮膚は突き刺すように痛む。
荒牧は波間を駆け、村人のもとに到達すると、護符を振りかざし、巻物を地面に押し付ける。微かな光が拡散し、影を押し戻す瞬間が訪れるが、七人ミサキの力は増幅して襲いかかる。影の触手のような揺らぎが荒牧を絡め取り、腕や脚に激痛が走る。呼吸は浅く乱れ、頭は霧で霞み、視界は暗転しかける。
「離れろ……!」荒牧は叫ぶ。声は霧に吸い込まれ、反響する波音と混ざり合う。護符の光と巻物の波動を最大限に引き出し、村人を霧の中から押し出す。村人たちは安全な位置まで導かれるが、荒牧自身は黒い影に押し倒され、地面に沈む。
冷気と重圧が身体を貫き、意識は微かに遠のく。視界に祭壇の六体地蔵の光がちらつく。天道の光、修羅道の力強さ、地獄道の鋭さ……それぞれの光が微細に震え、荒牧の霊力と呼応する。胸の奥で、港町と村、そして村人たちを守る使命を最後まで果たせた安堵が微かに広がる。
荒牧の意識が揺れる中、青雀の声が霧の中で響く。「南無地蔵菩薩……南無地蔵菩薩……」祭壇の光が微かに震え、護符が波動を送る。荒牧は腕を伸ばし、最後の力で村人たちを守る祈りを心に念じる。「地蔵菩薩よ……彼らを……導き給え……」
波音が高まり、霧が渦を巻く。七人ミサキの影は荒牧の体を取り囲み、全身を冷たく締めつける。皮膚を貫く寒さ、骨を押し潰す重さ、呼吸を奪う圧迫感――残穢の全てが荒牧を襲った。視界は完全に暗転し、手足の感覚は薄れ、胸中に慈愛の意識が残るのみとなる。
港町の波間に微かに光が揺れ、護符の震えが祭壇に伝わる。青雀と柏木は地蔵和讃を全力で唱え、祭壇の六体地蔵の力を荒牧に集中させる。微かに震える光が荒牧の胸に残り、彼の霊力が祭壇と結界に吸収される。村人たちは安全圏に導かれ、港町と村の波動は微細に安定する。
荒牧の身体は霧の中に静かに沈み、港町の波音に同化するかのように消えていった。意識が薄れる最後の瞬間、彼の胸には慈愛の思いが満ち、港町と村、そして祭壇の六体地蔵が放つ光が、微かに魂に触れた。七人ミサキの影はまだ潜むが、荒牧の犠牲により村人たちは守られ、祭壇の力が港町と村全体に浸透したのであった。
青雀は涙を抑えながら地蔵和讃を唱え続ける。柏木は荒牧の名を呼び、拳を握りしめる。港町と村の霧の奥で、七人ミサキの影は微かに蠢くが、祭壇の光と慈愛の波動が、それを抑え込んでいる。荒牧の命は失われたが、その行動と意志は港町と村、そして村人の心に永遠に残ることとなった。
港町の夜は深く、波音が反響し、霧の揺らぎが微細に震える中、祭壇の光は港町と村を守り続ける。荒牧の犠牲は、慈悲と救済の力を示す象徴として、村人たちに静かに語りかけていた。
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祭壇の六体地蔵から放たれる光が港町と村を包み、波動は微細に揺らぎながらも結界を安定させていた。青雀と柏木は地蔵和讃を唱え続け、港町の霧や波音の微細な反響を確認しながら、祭壇の力を全力で集中させている。しかし、影は完全に消え去ることはなかった。霧の奥で黒い輪郭が微かに蠢き、残穢が静かに結界内に浸透してくる。
青雀は祭壇の中心で静かに目を閉じ、波動を読み取る。微かな震えが胸中に伝わる。護符の光は瞬時に強弱を変え、祭壇の六体地蔵の光も不安定に揺れる。何度も読み取りを試みるが、波動は断続的に途切れ、完全な安定を得ることができない。
青雀の表情に僅かな陰りが差す。「柏木……」彼女は低く、震える声で言った。「まだ……成仏できぬ魂が、ここにある。七人ミサキ……未だ一体、港町や村に取り込まれたまま、浮かばれていない魂があるのです……」
柏木は一瞬息を呑み、祭壇の光を見つめる。影は波間の霧の奥に潜伏し、結界の中で荒々しく蠢いている。護符の光も、祝詞の響きも、微細に震えるだけで完全に封じ込めることはできなかった。青雀は続ける。
「全ての魂が成仏せねば、地蔵菩薩の慈愛は完全に行き渡らず、封印は不完全となります……このままでは港町と村に影が残り、未来に禍をもたらすでしょう……」
柏木は祭壇の光を見つめながら、胸中で決意を固めた。影が示す微細な波動の先、まだ発見されぬ遺体――それが七人ミサキの最後の一体であることを、彼は直感した。港町や村を救うためには、この遺体を見つけ、成仏させなければならない。
「分かった……青雀殿。必ず、その遺体を突き止める。港町と村を守るために、成仏できぬ魂を導くことを、俺は自らの使命とする」柏木の声は低く、しかし強い決意に満ちていた。祭壇の光が微かに震え、青雀は頷く。
「柏木殿……あなたの心に誓うその意志こそ、地蔵菩薩の慈愛を港町と村に届ける力になります……」青雀の声に微かな光が反射し、祭壇の六体地蔵の光も一瞬強く輝いた。
港町の霧は依然として深く、波音は荒く反響する。祭壇は光を放ち続けるが、七人ミサキの影は完全には消えず、未発見の遺体の存在が港町と村に微細な緊張感を残す。柏木は胸に拳を握り、波間に漂う霧と影を見据え、心に誓う。
「必ず見つけ出す……成仏させる……港町と村、そして祭壇の全ての魂のために」
祭壇の光が港町と村を包み、波動が微細に揺れる中、青雀と柏木はその決意を胸に、未発見の遺体の在処を突き止めるための長く険しい探求の覚悟を固めた。七人ミサキの影は未だ蠢くが、港町と村の未来を守るための新たな戦いの火蓋が、静かに切られたのであった。