第六章/地蔵和讃
夜の港町は深い霧に包まれ、波の音が低く反響する。岸壁の石段には潮の香りと湿った砂利の匂いが漂い、遠くで軋む船の板の音が静寂を切り裂く。港町の空気は初回合同儀式によって一時的に清廉さを帯びていたが、荒牧神主の目には、波間や倉庫の影に潜む微細な黒い輪郭がはっきりと見えていた。「この港町の残穢は、容易に浄化できるものではない……」
荒牧は小さな机を用意し、白い和紙を慎重に広げる。墨を研ぎ、筆を握る手に力を込める。護符の一枚一枚は、地蔵菩薩の霊力を宿す小さな砦となる。村人が握ることで港町と村を守るための不可欠な媒体である。
「一枚一枚に魂を込める……七人ミサキの影を押し返す力を宿すのだ」
荒牧は心の中で静かに呟き、筆先を和紙に滑らせる。墨の濃淡が紙に染み渡るたび、港町の霧に微かに白い光が滲むように見えた。護符には、地蔵菩薩の梵字や波間を漂う霊の秩序を象徴する精密な紋様が描かれる。
荒牧は護符作成と同時に祝詞の完全版を唱え始める。声は低く、古語調の荘厳な節回しで港町に響く。波音に混じり、霧に反響する祝詞は、港町全体の空気を微細に変化させる。
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「おお、慈悲深き地蔵菩薩よ、六道の迷える魂を導き給え
生者と死者の境界に立ち、港町の霊を守り給え
黒き影の漂う波間に、光の御力を差し伸べ、
穢れを清め、迷える魂を冥界へ導き給え
護符に宿る御力よ、村人と港町を包み、
七人ミサキの影を押し返す砦となれ
南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩よ」
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祝詞の響きは港全体に浸透し、波間や倉庫、岸壁の微細な影を鎮める。鈴を軽く振るたび、波間の揺らぎが一瞬静まり、霧の奥に潜む影の輪郭がわずかに薄れる。荒牧の胸中には、残穢の深さと影の潜伏力が鮮明に浮かぶ。祝詞の力は強大であるが、七人ミサキの影は完全には消えない。
荒牧は息を整え、護符に霊力を込める。筆を滑らせるごとに墨の黒と和紙の白が陰陽の調和を成し、港町の波音、霧の揺らぎ、鈴の微細な響きがすべて祝詞と結びつく。護符一枚ごとに、港町を守る小さな防壁が形作られていくのを、荒牧は肌で感じる。
港に集まった村人たちは、護符を手に取り、荒牧の祝詞に耳を傾ける。握る手に微かな温かさと安心感が伝わり、港町の微細な不安が和らぐ。村人の目には、波間の霧に揺れる影がまだ潜むのを見ながらも、護符と祝詞による守りに心を委ねる様子が映る。
荒牧は護符作成を続けながら、胸の内で港町の今後を思案する。「港町を守るには、この護符と祝詞だけでは不十分だ。村人の協力、港町全体の監視、そして科学的観察と祝詞の連携――全てが必要になる」
港の水面は微かに揺れ、霧の奥に黒い輪郭が潜伏する。祝詞と護符の力による清廉な空気は、一時的なものではあるが港町を包む。荒牧は筆を止め、完成した護符の一枚を手に取り、波間に漂う影を見据える。「この護符が村人の手に渡り、港町を守る力となる。だが油断は禁物……次の満ち潮で影は必ず活性化する」
夜が深まるにつれ、港町は清廉な空気と微細な影の潜伏が同居する不思議な静寂に包まれる。荒牧の祝詞の声は波音に溶け込み、護符には地蔵菩薩の力が宿る。港町の夜は、科学観察と民俗儀式、村人たちの祈りが交錯する緊張感の中で、静かに、しかし確実に明けようとしていた。
夜明け前、港町は深い霧に包まれていた。海面は薄墨色に揺らぎ、岸壁の石段には潮の湿り気が残り、倉庫の扉は微かに軋む。荒牧神主が作成した護符は、村人たちに配られ、手に握る者の呼吸とともに小さく震える。護符の紙の感触、墨の匂い、微かに残る暖かさが、港町の不安に対する唯一の拠り所となっていた。
柏木は波間を計測器で監視し、微細な波動の変化を逐一記録する。科学的観測は、港町の影の潜伏を数値化する唯一の手段である。港全体に漂う霧の中、微細な黒い輪郭が不自然に揺れるのを柏木は見逃さなかった。「……奴らが動き出した」
その瞬間、港の奥深くから微かな波の反射が生まれ、倉庫の影に潜む黒い輪郭が濃くなった。七人ミサキの再襲来である。影は水面に沿って揺らぎ、船底や岸壁の影に潜伏しながら、港全体に不穏な空気を広げる。村人たちは護符を握り、息を潜める。港町の空気は緊張に張り詰めた。
荒牧は巻物を高く掲げ、鈴を打ち鳴らす。「地蔵菩薩よ、港町に漂う影を封じ、迷える魂を冥界へ導き給え!」声は港全体に響き渡り、波音に重なって霧の中に拡散する。柏木は科学観測の数値を確認しながら、祝詞の節回しに合わせて港町の影の動きを精密に記録する。
影は瞬間的に波間で乱れ、霧の奥深くに潜む。しかし祝詞の力と護符の霊力は、微細な揺らぎを一瞬抑え、港町に清廉な空気を再び生み出す。荒牧は巻物を握り、護符を掲げて港全体を見渡す。「一時的な浄化ではあるが、この港町を守るためには欠かせぬ」
村人たちは護符を胸に当て、手に伝わる温かさと安心感に呼吸を整える。港町の空気は一瞬、清廉さと静けさを取り戻すが、影は完全には消えていない。柏木は計測器の波形を見つめ、港町に潜む影のパターンを解析し、祝詞の効果と護符の配置を最適化する。科学と民俗儀式の融合が、この港町を守る鍵となる瞬間であった。
七人ミサキの影は再び波間に浮かび、港全体に微細な不安を撒き散らす。荒牧は巻物を胸に押し当て、息を整えながら再度祝詞を唱える。「南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩よ……」声は波音と霧に溶け込み、微細な黒い輪郭を押し返す。
柏木は村人たちに指示を出す。「護符を握り、港町の各ポイントで祝詞の節に合わせて声を出すんだ。港全体の空気と波動を守るのが我々の役目だ」
村人たちは恐る恐る声を合わせ、護符を掲げる。微かに震える手に力を込め、港町に漂う不安の波を押し返す。港の波音と霧、影の揺らぎ、護符の力、祝詞の響き――すべてが交錯し、港町は清廉な空気と微細な影が共存する緊張状態に包まれる。
南無地蔵菩薩
慈悲深き御力、六道を遍く守り給え
迷える衆生、此の世に於いて苦悩せる者を導き給え
生死の狭間に立ち、善悪を識別し給い
清浄なる御光により、黒き影と迷いを照らし給え
南無地蔵菩薩
諸々の罪障、煩悩の闇を悉く浄化し
水辺の穢れ、土の残穢を清め給え
波間に潜む悪鬼、影に潜む怨霊も
御慈悲により冥界へ帰らしめ給え
南無地蔵菩薩
護符に宿り、信心深き衆生を守り
港町と村を覆う影を押し返し給え
波風の災厄、火水の禍、疫病の苦を
御力により防ぎ給え
南無地蔵菩薩
昼夜を問わず、衆生を守り給え
祈りと節回しに応じ、御光を現じ給え
南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩
南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩
南無地蔵菩薩
六道の迷える魂よ、安らぎを得よ
港町と村を護り給え
護符と祝詞、祈りの力を以て
七人ミサキの影を冥界へ返し給え
南無地蔵菩薩
慈悲の御力、永遠に衆生を守り給え
南無地蔵菩薩
南無地蔵菩薩
荒牧は冷静に港全体を見渡し、次の動きを判断する。「影は完全には封じられぬが、港町全体に霊力のバリアを張った。波間の動きを読み、港町の各所で護符と祝詞を連動させれば、七人ミサキの侵入を最小限に抑えられる」
柏木は計測器を確認しながら、港全体に微細な揺らぎが残ることを認識する。「港町の影は次の満ち潮で再び活性化する。監視と祝詞の連携は不可欠だ」
港町の夜は深まり、霧の奥に潜む微細な黒い影と、護符と祝詞による清廉な空気が張り合う。村人たちの祈り、荒牧の祝詞、柏木の科学観察が交錯する中、港町は静かに、しかし確実に守られていた。七人ミサキの影は完全に消えぬまま、次の満ち潮に備え、港町の守り手たちは緊張を解くことなく夜を越えるのであった。
港町の夜は深まり、波の音と霧の揺らぎが、まるで生き物のように呼吸していた。護符と祝詞により、港の清廉な空気は保たれていたものの、その力を維持する荒牧神主の身体には、次第に異変が現れ始める。
祝詞を長時間唱え続け、護符に霊力を込める作業を繰り返した荒牧の胸中は、霊的な張力で引き裂かれるように重く、腕や肩には激しい疲労が蓄積していた。息が浅く、膝が震える。彼の耳には波音と鈴の音が異常に響き、霧の奥に潜む影のざわめきが頭の奥で反響する。心の奥底に、かすかな吐き気と頭痛が忍び寄る。
「まだ……まだ終わらぬか……」荒牧は小さく呟き、筆を置き手を押さえる。額には薄く汗がにじみ、体中の筋肉が張り詰めた状態だった。護符の作成、祝詞の唱和、村人への指示……全ての精神的負荷が、残穢による港町と村の霊的圧力として荒牧の身体を蝕んでいた。
柏木もまた疲労困憊していた。計測器で港町全体の影の微細な動きを監視し続け、護符と祝詞の効果を解析する作業は、肉体以上に神経を消耗する。視界の端で霧の奥に微細な黒い輪郭が揺れるたび、背筋に冷たい緊張が走る。数値と波動の変化を追い続ける間、まばたきさえ忘れる瞬間がある。
村人たちも、護符を握り、祝詞に声を合わせ続けたことで、体力と精神力の限界に近づいていた。手は震え、声はかすれ、呼吸は浅く速くなる。港町の霧が濃くなるたび、微細な黒い影の揺らぎが不安を増幅し、村全体の空気に重くのしかかる。
七人ミサキの影響力は港だけにとどまらず、村全体に広がりつつあった。岸壁や倉庫の影、水たまりの反射、石段の隙間――どこもかしこも影は微かに揺れ、夜の静寂に潜む異様な気配を生む。村人の足音や呼吸までも、影の揺らぎに反応して不規則に反射し、恐怖感を増幅させる。
荒牧は深く息を吐き、膝をつき、護符と巻物を胸に抱えながら祈る。「地蔵菩薩よ……港と村を、迷える魂と生者を、この影から守り給え……」声は弱くなっても力強さを失わず、霧の奥に漂う影に向かって微細な波紋を送る。
柏木は荒牧に寄り添い、疲れ切った村人を励ましながら計測器を見つめる。「影は港町だけではなく、村の各所にも潜んでいます。護符と祝詞で押し返すしかありません」
村人たちは荒牧の背中を見つめ、疲労困憊の中でも手に握る護符を離さない。港町の微細な影は完全に消えぬまま、港と村を覆う重苦しい残穢は、人々の心身を徐々に蝕み続けていた。
霧の奥に潜む七人ミサキの影は、波間や倉庫の陰に微かに蠢き、港町と村を覆う残穢と共鳴する。港の波音は不規則に反響し、岸壁に反射する光は揺らぎ、石段の隙間に落ちる影はわずかに濃くなる。夜の港町は清廉さと不安、力強さと疲弊、護符と祝詞の光と影の共存する異様な空間となった。
荒牧、柏木、村人たち――彼らの心身は限界に近い。だが港町と村を守るため、護符と祝詞、そして祈りの力をもって七人ミサキの影と対峙するしかなかった。港町の霧と波間に潜む影は、次の満ち潮で再び活性化する。残穢と影の戦いは、港町と村全体を巻き込んだ、終わりの見えぬ夜として静かに、しかし確実に続いていった。