第五章/六地蔵
港の微細な影を確認し、次なる対策を考えた柏木は、京都の六地蔵を管轄する寺社仏閣に協力を求めることを決意した。港町の小さな駅から列車に乗り込み、冬の朝の冷気に身を震わせながら、線路沿いに伸びる雪化粧の田園風景を眺める。水面が霜で白く光り、低く垂れた雲が山並みを覆う。列車の振動に合わせて、港で見た黒い影の不気味な記憶が脳裏をよぎる。
京都に近づくにつれ、街並みは古都の趣を帯び、朱塗りの鳥居や石畳の道が歴史の重みを伝える。柏木は車窓から目に映る寺社の屋根瓦や、苔むした石段に思いを巡らせる。ここに眠る六地蔵の霊力が、港町に潜む七人ミサキの影に立ち向かう鍵になる――そんな予感が彼の胸に膨らむ。
市内の交通を抜け、狭い石畳の参道を歩く。冷たい風が肩口を刺し、鐘楼の鐘が遠くで静かに響く。境内に入ると、杉木立の間を吹き抜ける風が葉を揺らし、微かな木漏れ日が苔むした石像に差す。柏木は、寺社の静寂と荘厳さに圧倒されつつも、気を引き締める。
案内された社務所の奥には、威厳ある年配の神主が待っていた。荒牧五峰――年齢は六十を超えているが、背筋は真直ぐに伸び、瞳には鋭い光を宿す。白装束の袂が微かに揺れ、呼吸と共に神々しい気配が漂う。柏木は深く頭を下げる。
「荒牧神主。京都六地蔵を管轄されるお立場の方とお聞きし、港町での怪異への対応をお願いしたく参りました」
荒牧はしばらく黙して柏木を見つめ、柔らかな笑みを浮かべた後、ゆっくりと頷く。「怪異とは……七人ミサキのことか。よく来られたな、柏木氏。話は聞かせてもらおう」
社務所の内部は、古色蒼然とした木の香りと、線香の煙が立ち込める。壁際には六体の地蔵像が並び、鎮座する姿は静かだが圧倒的な存在感を放つ。荒牧は柏木に向かい、六地蔵の霊力の原理や、港町での影への対策方法を丁寧に説明する。
「地蔵菩薩は生者と死者の境界を守る存在。港町で退いた七人ミサキも、霊的にはまだ潜伏している。祝詞と護符だけでは封じきれぬ場合もある。だが、六地蔵の霊力と我々の儀式を結びつければ、影を港外へ押し返すことが可能だ」
柏木は筆記用具を取り出し、社務所に立つ六地蔵像を一瞥しながら、荒牧の言葉を詳細に書き留める。科学的な観察と民俗的知識を組み合わせ、港町での実行計画を構築するためだ。
荒牧は立ち上がり、境内の石段に柏木を案内する。冬の光に照らされた石段は霜で滑りやすく、周囲の杉木立の影が長く伸びる。荒牧は一歩一歩慎重に足を運びながら、「港町の怪異に対応するには、単なる祈祷では足りぬ。科学的観察と連携し、港の水面や波間の兆候を綿密に把握せよ」と諭す。
柏木は深く頷く。「承知しました。港町の観察記録と民俗的知見を組み合わせ、儀式の効果を最大限に引き出します」
荒牧は微笑むと、「よい。明日、港町に向かおう。私の神力と六地蔵の霊力、そしてお前たちの科学の力を結集すれば、七人ミサキを再び港から退かせることも可能だろう」と告げた。
境内の静寂は深く、風に揺れる杉木の葉が小さな音を立てる。柏木は港町の黒い影を思い浮かべ、次に控える怪異との対決を覚悟する。京都の六地蔵と荒牧神主の協力が得られたことで、港町の村人たちと共に影に立ち向かう新たな戦力が整った。
夜が更け、社務所の外では冷たい風が吹き抜ける。月光に照らされた六地蔵の像は、静かに港町の未来を見守る。柏木は荒牧と共に、その光景を見つめ、港町で再び起こる七人ミサキの影に立ち向かう決意を胸に刻む。
京都から港町へ戻る朝、冬の冷気は港の水面を白く覆い、薄霧が立ち込めていた。柏木と荒牧神主は、早朝の港に降り立つ。漁船は静まり返り、岸壁にはわずかに凍った水滴が光る。昨日までの平穏な港の光景とは異なり、霧の奥に潜む黒い影の輪郭が、微かに揺らいでいるように見えた。
「ここが港町の中心か……」柏木は息を吐きながら観察用の双眼鏡を取り出す。荒牧は袂から小さな護符と鈴を取り出し、手元で軽く振って静かに響かせる。鈴の音は霧に微かに反響し、港全体に凛とした空気を生む。
二人は港の岸壁に沿って歩きながら、目視と計測を並行して行う。波間に漂う微細な黒い輪郭、砂利に残るわずかな濡れ跡、倉庫の扉の揺れ、漁網の端が不自然に垂れる様子――柏木はそれらを一つ一つ記録し、影のパターンや周期を分析する。荒牧はその間、霊力による感知を行い、波間や倉庫、岸壁に潜む影の存在を微細な気配として知らせる。
「ここに黒い影の集中がある……波止場の石の隙間、水面の凹みに潜んでおる」荒牧は低く呟く。柏木は双眼鏡で水面を凝視し、微細な揺らぎと光の反射を慎重に観察する。科学的には水流や波の乱れと説明可能な動きも、荒牧の感知によって霊的な存在と結びつくと、一つの規則性として浮かび上がる。
岸壁を巡りながら二人は、港の隅々を確認する。漁船の下、倉庫の軒下、砂浜の小さな凹み――目には見えにくい微細な影の兆候が、港全体に散在している。柏木は双眼鏡のレンズ越しに、波間で揺れる黒い輪郭を捉え、細かくスケッチする。荒牧は護符を取り出し、祈りを込めて鈴を振る。鈴の音が港の静寂に溶け込み、微細な影の動きを抑えるかのように波間が静まる瞬間がある。
港の中央付近に立つ柏木と荒牧の前で、砂利の濡れ跡が微かに連なり、倉庫の扉はわずかに軋む。荒牧は立ち止まり、手を翳して波間の影を感知する。「奴らは完全には退いておらぬ。霧に紛れ、港の奥深くに潜みおる」
柏木は記録を続けながら、港の地形と水深、波の流れを分析する。港全体をマッピングし、影の潜伏可能性の高い場所を特定する。科学観察と荒牧の霊力感知を組み合わせ、港町での儀式の戦略を練るのだ。
視察を終えた二人は、港の倉庫前で儀式準備を開始する。荒牧は護符を配置し、地蔵菩薩の祝詞の書かれた巻物を取り出す。柏木は計測器を設置し、水面や波間の微細な振動をリアルタイムで記録できるように準備する。二つの視点、科学と民俗儀式が同時に港の監視と封じに投入される。
「波間の微細な揺れが増幅する前に、祝詞の力で港外へ押し返す」荒牧は巻物を広げ、低く呟く。柏木は計測器の針を注視し、波間の微細な変化を確認する。港全体が、二人の観察と祝詞の力によって微妙な緊張に包まれる。
日が傾き、港の水面が金色に染まる頃、微細な黒い影の輪郭は再び動き出す。柏木は観測を続け、荒牧は祝詞を唱えながら鈴を鳴らす。港の奥深くに潜む影が、波間にわずかな揺らぎとして現れ、港全体を静かに脅かす。しかし、科学と霊力の連携により、影は直接的な攻撃に至る前に抑制される。
港町の微細な影の兆候を確認し、初回合同視察を終えた柏木と荒牧は、港町に潜む七人ミサキの存在を再認識する。影は完全に消えてはいない。港の奥深くに潜む潜伏者として存在し、次の満ち潮で再び姿を現すだろう。
二人は岸壁に立ち、港全体を見渡す。冬の冷気に包まれ、霧が波間を漂う。荒牧は静かに言った。「港町の異変は一時的に抑えられた。しかし油断するな。奴らは次に動くとき、より強く現れるだろう」
柏木は深く頷き、港町の地図に波間の影の位置と濃淡を詳細に記録する。科学観察と祝詞の力、民俗知識が結びつくことで、港町を守るための初めての戦略が整った。
冬の港町は霧に包まれ、岸壁や倉庫、砂浜の石段に微かな濡れ跡が残っている。柏木と荒牧神主は港の中央に立ち、荒牧は腰に下げた護符を手に取り、深呼吸を一度行った。波の音が耳に届き、遠くで小さく波止場の板が軋む。荒牧の目は港全体を見渡し、微細な影の動きを感知する。
「港全体に潜む穢れを、今ここで払う……」荒牧は低く声を落とし、祝詞を唱え始める。声はゆっくりと、しかし力強く、港全体に響き渡る。鈴を手で軽く振り、護符を空中にかざすと、微かに白い霧のようなものが波間から立ち上るように見えた。
港の空気は次第に変わり、わずかに清廉な匂いと冷たく澄んだ空気が漂い始める。倉庫の扉の軋みや波間の黒い揺らぎも、祝詞の響きに合わせるように静まった。柏木は息を詰めて観察し、波面や砂利、岸壁の微細な影の動きを計測器で確認する。科学と霊力の相互作用が港全体の空気に変化を生むのを、肌で感じていた。
荒牧は祝詞を唱えながら、胸の内で考える。港町に漂う残穢の濃さは、容易に浄化できるものではない。祝詞の力で一時的に清廉な空気を作り出すことはできても、七人ミサキの潜伏は深く、次の満ち潮や港に立ち寄る者の心次第で再び活性化する危険がある。荒牧は静かに息を整えながら、今後の戦略を頭の中で整理する。
祝詞が落ち着いたところで、荒牧は柏木に向き直る。「柏木氏、改めて教えてくれ。港町に現れる七人ミサキとは、どのような存在か」
柏木は観察記録を取り出し、港町で得た情報と民俗伝承を整理して話す。「七人ミサキは、海難事故や遭難者の霊が、村の港に憑く存在です。彼らは群れとなり、港町の漁師や村人に恐怖をもたらすと伝えられています。影として現れ、船や漁網、倉庫などに潜み、次の犠牲者を待つ――そんな逸話が数百年にわたって村に伝わっています」
荒牧は頷き、手元の護符を握る。「なるほど……港の影の動きは、その逸話の通りか。残穢の濃さ、潜伏の複雑さを思えば、祝詞と地蔵の力だけでは容易ではない」
続けて荒牧は、柏木に地蔵菩薩の由来を静かに語り始める。「地蔵菩薩は古来より、生者と死者の境界を守る存在。六道の迷える魂を導き、特に水辺や港に漂う霊の秩序を保つ役割を持つ。港町のように、海の事故や遭難で魂が漂う場所には、地蔵の力が不可欠である。祝詞や護符はその力を増幅し、影の存在を抑えるための手段に過ぎぬ」
柏木は熱心に聞き入る。港の波面を眺めながら、科学観察と民俗的儀式の結合が、港町を守る鍵になることを改めて理解する。荒牧の説明は、単なる伝承の知識ではなく、実際の港町の現象に即した戦略として、科学観察とリンクするのだった。
荒牧は続ける。「港町の影を押し返すには、祝詞の力で清浄な空気を作り、港に潜む七人ミサキの行動パターンを把握する。次の満ち潮に備え、港町と村人を守る。柏木氏、お前の科学観察は不可欠だ」
港町の水面は穏やかだが、薄霧の奥には微細な黒い輪郭が潜む。港全体に漂う清廉な空気は、祝詞の効果による一時的なもの。荒牧の胸中には、次の満ち潮で影が活性化する可能性が常にあることが、冷ややかに刻まれていた。
柏木は静かに頷く。「港町の観察を続け、微細な兆候を記録し、儀式と科学を融合させます」
荒牧は護符を握り、波間に漂う影を凝視する。港に漂う清廉な空気と微細な影の潜伏――二つの現実を前に、港町での戦いの準備が整った。港の空気には、祝詞による浄化と残穢の危険、科学観察の緊張感が交錯し、七人ミサキとの戦いの幕が静かに開かれようとしていた。
薄霧に覆われた港町の朝。波の音が低く反響し、岸壁や倉庫、船の隙間にわずかな黒い輪郭が揺れる。柏木と荒牧神主は、港中央の石畳に祭壇を組み、護符や巻物を慎重に配置した。村人たちも港に集まり、手には小さな護符を握り、寒風に震えながら神妙な面持ちで立っている。
荒牧は深呼吸を一度行い、低く息を吐くように祝詞を唱え始める。鈴の音が静かに港の空気に溶け込み、倉庫の隙間や岸壁の影に漂う黒い輪郭が微かに揺らぐ。祝詞の声は港全体に拡散し、波間の霧もわずかに白く立ち上る。柏木は計測器で水面や砂利の微細な動きを観察し、港全体の波動を記録する。科学的な観察と荒牧の霊力による浄化が同時に行われている。
「港全体に清廉を――七人ミサキの影を抑えろ」荒牧の声は力強く、港に緊張感を生む。村人たちは護符を握り、手を合わせて祝詞に同調する。港全体の空気は徐々に澄み、微細な黒い影の揺らぎは鈍くなる。
しかし、波間の奥深くで、微かな水面の反射が不自然に歪む。砂利の濡れ跡が、さっきまで見えなかった足跡のように連なり、倉庫の扉が静かに軋む。柏木は計測器を凝視し、影の活動の再活性化を確認する。
「奴ら……動き始めたぞ」柏木は低く警告する。荒牧は巻物を強く握り、鈴を連打するように振る。祝詞の声はより力強く、港の空気に張り詰めた緊張を生む。微細な黒い影が、波間や砂利、倉庫の影から形を取り、霧の中で不定形に蠢く。七人ミサキが港に顕現しつつある。
港の波面に黒い輪郭が浮かび上がる。影は船の下に潜み、波間の凹みに潜伏し、岸壁の倉庫へと微細に伸びていく。村人たちは息を呑み、護符を握る手に力を入れる。荒牧は立ち上がり、巻物を高く掲げ、声を張る。「地蔵菩薩よ、港に漂う影を封じ、迷える魂を冥界へ導き給え!」
祝詞の響きに呼応するかのように、微細な黒い影は一瞬、波間に霧散する。しかし、完全には消えない。港の奥深くに潜む影は、再び現れる準備を静かに整えている。柏木は計測器を確認し、波間の揺らぎの周期や影の濃淡を詳細に記録する。科学的解析と祝詞による封じの相互作用を、この港で実証する重要な瞬間だった。
港町の空気は一時的に清廉となり、村人たちは息をつく。荒牧は胸の内で、残穢の濃さと七人ミサキの潜伏力を改めて思い知る。「一時的な浄化ではあるが、この港町を守るための第一歩だ」と心の中で告げる。
柏木は港の波間を凝視し、影が完全に消えないことを確認する。「港全体に潜む兆候は残っています。次の満ち潮で再び活性化するでしょう」
荒牧は巻物を胸に押し当て、静かに頷く。「港町の監視と儀式の継続が必要だ。村人たちの協力も不可欠。科学と祝詞、双方を組み合わせることで初めて、影を港外へ押し返せる」
港町の波面には、微細な揺らぎと薄霧が漂う。村人たちの祈り、荒牧の祝詞、柏木の科学観察が港全体に張り巡らされ、影の潜伏を一時的に抑える。七人ミサキの存在は完全に消えぬまま、港町は科学と民俗儀式の融合による一時的な安堵の中に包まれる。