第三章/港の影
冬の朝の灰色の光が港を包む中、柏木透准教授は岸壁に立ち、波間に揺れる七つの影を見つめていた。昨日の足跡、信吾の異常な遺体、そして村の古老・庄吉の警告――すべてが結びつき、港の空気を重く、不穏なものに変えていた。科学者としての理性は、「錯覚か、風のせいか」と分析しようとするが、目の前の影は理屈では説明できない存在感を放っている。
港の倉庫の陰から、漁師の青年が現れた。名は遠藤雅也。岸壁で船の修理をしていたが、波止場に漂う黒い影に気づき、無意識に柏木に近づいてきた。青年の顔には青ざめた恐怖が浮かび、手は微かに震えている。
「……准教授、あの影……見ましたか?」
柏木はうなずきながらも慎重に声を落とす。「見ました。七つ、ですか?」
遠藤は小さく頷き、言葉を続ける。「昨夜も、港で……波止場の影の中を、何かが……歩いているのを見ました。誰もいないのに……」
柏木は懐中電灯を手に、青年とともに岸壁を歩き、影の痕跡を確認する。濡れた足跡は、昨日と同じ形状で、港の各所に点在している。海藻や砂利に残る微細な変形は、単なる波や風の影響では説明できない。柏木はその痕跡を慎重に記録し、写真に収める。
港の奥で、微かに水面を蹴る音がした。振り返ると、防波堤の先端に、七つの黒い影が揺れている。影は岸壁に近づいたり離れたりし、まるで意志を持つかのように動いている。遠藤は背筋を震わせ、口を開けたまま声にならない息を吐く。
「……港の昔話、知ってますか?」柏木が尋ねると、青年はかすかに頷く。「七人ミサキ……祖父から聞いたことがあります。海難に遭った者の霊が、港に戻ってくるって……でも、まさか……」
柏木は深く息を吸い、冷静を保とうとする。科学者としては、海の波や光の屈折、精神的錯覚で説明可能なはずだ。しかし、足跡、影、遺体の異常、村人の目撃証言が重なると、理屈だけでは納得できない現象が現実として迫る。
港の空気がさらに重くなった。波の音は一定で静かだが、遠くで微かに衣擦れの音や足音のような不規則な音が混ざる。岸壁に沿って歩く柏木は、影の輪郭が水面に映るのを確認する。七つの影は互いに近づいたり離れたりし、まるで港を監視するかのように動いている。
突然、岸壁の一角で、微細な水しぶきが跳ねた。柏木が懐中電灯を照らすと、誰もいないはずの場所に黒い輪郭が瞬間的に現れ、消えた。青年は顔を青ざめ、後ずさる。柏木は手を差し伸べるが、青年の目には恐怖しか映らない。
港の倉庫周辺では、他の漁師たちも集まり始め、口々に怪異の目撃を語る。船の係留ロープが勝手に揺れ、倉庫の戸が微かに開閉する。潮風に混ざり、低い声のような音が波に乗って届く。科学では説明できない現象が、港全体を覆い始めていた。
柏木は記録を取りつつ、七人ミサキの存在が、港で連鎖的に怪異を引き起こしていることを理解する。足跡、影、不可解な音――それらは単なる偶然ではなく、港という空間に宿る「存在の気配」が形を持って現れた結果である。彼の胸に、科学者としての好奇心と、理性では押さえきれない恐怖が同時に芽生えた。
遠藤が震える声で言う。「この港……もう誰も近づけません。七人ミサキ……本当に存在するんだ……」
柏木は冷静を装いながらも、心の奥で警告を感じていた。港の波間に揺れる黒い影は、まるでこれから起こる惨事の前触れのように見える。科学で説明できない現象が、港全体を覆い、村人たちの恐怖心を増幅させていた。
日が昇り始め、灰色の海はわずかに光を反射する。だが、港の岸壁に残る濡れた足跡、波間に漂う七つの影、微細な水しぶきの動き――すべては静かに、しかし確実に、港の住人たちに恐怖を刻み込む。柏木は資料を整理しながら、港全体の現象を科学的に解析することを決意する。しかし、直感は告げる――これは単なる港の怪奇ではなく、七人ミサキという存在が港に本格的に介入した瞬間だと。
港に漂う黒い影は、まだ波間に揺れながら、誰にも触れられず、港全体にその存在を知らしめていた。そして、柏木の胸には、科学者としての理性と、民俗学者としての直感が交錯し、次に起こる惨劇の予兆が深く刻み込まれた。
港の波止場に、昼前の灰色の光がわずかに差し込む。冬の寒風が肌を刺す中、柏木透准教授は岸壁に立ち、濡れた足跡を追いながら記録を続けていた。波間に漂う七つの影は依然として微かに揺れ、光の反射で輪郭が変化する。岸壁の湿った石畳、海藻に絡まる微細な泥の跡、微妙に揺れる船の係留ロープ――港全体が、七人ミサキの存在によって異常に変化している。
柏木がメモを取り、観察していると、遠藤雅也が岸壁の端から叫ぶ声が響いた。「お、おい! 船が勝手に動いている! 誰かが……いや、誰もいない!」
柏木は振り向き、岸壁に沿って並ぶ漁船を確認する。ロープは微かに揺れ、船体は波間に勝手に回転しているように見える。風のせいでは説明できない微妙な動きだ。遠藤は足元の濡れた跡を指差し、声を震わせる。「この足跡……昨日と同じ……誰も歩いてないのに……」
柏木は懐中電灯で岸壁を照らすと、足跡の形が微妙に変化していることに気づく。石畳の間に残る泥がわずかに膨らみ、まるで何かが触れたかのように盛り上がっている。科学的には説明困難な現象だ。岸壁を進む足音や衣擦れの音が混ざり、港の空気に不安定な緊張が走る。
そのとき、沖合の船が突然、波間に揺れて沈みそうになる。遠藤が叫ぶ。「人が船に乗ってないのに、あれは……!」
柏木は双眼鏡を取り出し、波間を確認する。七つの影の一つが船の周囲に漂い、水面を撫でるように影が動く。水面が微かに波立ち、船体が引き寄せられるように揺れる。港の水は静かな灰色だが、その下で何かが動いているかのような異様な感覚が、柏木の背筋を走った。
岸壁に残る足跡は徐々に港の中央へと続き、波打ち際で消える。しかし、消えたはずの足跡の一部が、再び岸壁に現れる。微かに紫がかった濡れ跡は、信吾の遺体で見た膝下の紫変を思わせる。科学では説明できない現象が現実の港で起きていることを、柏木は否応なく認識せざるを得ない。
港の倉庫付近では、作業中の漁師たちが次々に異常を訴える。木箱が勝手に倒れ、ロープが絡み合い、潮風に乗って微かに低い唸り声のような音が聞こえる。港の空気は密度を増し、凍りつくような冷たさと湿気が同時に漂う。漁師の一人が声を震わせる。「誰もいないはずなのに……あの影が……船を動かした……!」
柏木は現象を冷静に観察しつつも、心理的な不安が胸を圧迫する。科学的には風や波、錯覚で説明できるはずだ。しかし、足跡、影、船の異常な動き、漁師たちの目撃証言が重なると、単なる偶然ではないことが明白になる。
遠藤が岸壁から滑り落ち、波打ち際で濡れた岩に足を取られた瞬間、七つの影の一つが彼のそばに現れる。影は黒く、輪郭が不明瞭で、水面に映る姿も歪んでいる。遠藤は声をあげ、必死に岸壁に手をかける。柏木は咄嗟に駆け寄り、青年を助け起こすが、その背後で影は静かに水面に溶けるように消えた。
港の漁師たちは動揺し、次々と避難を始める。船を放置して岸壁に駆け上がる者、倉庫の陰に身を潜める者、海を見つめて震える者――港全体が恐怖に包まれる。柏木は観察を続けながらも、目の前の現象が単なる自然現象ではないことを痛感する。七人ミサキの影は港を監視し、事故や遭難を誘発しているかのようだ。
波止場の中央で、七つの影が揃って微かに光る瞬間があった。光は水面に反射し、岸壁の石や濡れた足跡を青白く照らす。柏木は息を呑む。影は人間の形をしているが、輪郭は不明瞭で、目の位置もはっきりしない。静かな港に漂うその姿は、まるで港全体の空気そのものを支配しているかのように見える。
柏木は観察しながら、科学者としての分析と、民俗学者としての直感を総動員する。七人ミサキの存在は、港の物理的現象を介して、目に見えない力として現れている。足跡、影、水面の微細な変化、漁師たちの異常行動――それらは、港全体を怪異の舞台に変えていた。
日が昇り、灰色の光が港を包む中、七人ミサキは徐々に波間に溶け、姿を消した。だが、岸壁に残る濡れた足跡、微細な波の揺れ、漁師たちの震える声は、影が去った後も港に強烈な存在感を残していた。柏木は深く息を吸い、メモを閉じる。港の異常は一過性ではなく、七人ミサキの力はまだ完全には去っていない。次に起こる惨事を予感させる余韻が、港全体に漂っていた。
午後の光は弱く、灰色の港を淡く照らす。柏木透准教授は岸壁に立ち、昨日と今日の観察記録を整理していた。波間に漂う七つの影、濡れた足跡、微細な水しぶき――港全体が異常なテンションで震えている。遠藤雅也を含む漁師たちは、倉庫や岸壁に身を潜め、恐怖に怯えていた。
再び波止場の中央で、黒い影が集まるのを柏木は目撃する。影は岸壁から沖合にかけて不規則に動き、水面を撫でるような動作を見せた。その動きに合わせ、港の船やロープが微かに揺れる。遠藤は息を荒くし、柏木の腕を掴む。「あの影……触れたら、死ぬのか……?」
柏木は冷静に応えた。「まだわからない。しかし、影は港の物理的現象に干渉している。足跡や水面の変化は、人間や自然の力だけでは説明できない」
その瞬間、港の一角で突然の悲鳴が上がった。漁師の一人、佐藤正夫が岸壁に足を取られ、海に転落したのだ。水面に倒れた彼の周囲で、黒い影の一つが波を蹴るように揺れ、まるで水流を操るかのように佐藤を岸から遠ざけた。柏木は全力で飛び込み、青年を捕まえる。岸に引き上げると、佐藤は全身が青白く、震えており、言葉にならない恐怖の表情を浮かべている。
「影……見た……波の上に……七つ……」佐藤の声はかすれていた。
柏木はメモを取りながら、冷静を装う。科学的観察者として、現象のパターンを把握しなければならない。しかし、岸壁の水面に漂う影の存在は、理性だけでは説明できない。「七つの影は、港全体を監視し、接触した対象に直接的な影響を与える」と仮定するしかない。
港の各所では、次々に異常が連鎖する。倉庫の扉が勝手に開閉し、濡れた足跡が新たに出現する。波止場に停泊していた小舟が突如揺れ、係留ロープが絡まる。漁師の一人、鈴木浩司は転倒し、足首を負傷した。波打ち際で水面を見つめると、七つの影のうちの一つが水中から半身を浮かべるように現れ、微かに手のような輪郭が揺れた。鈴木は悲鳴を上げ、港の岸壁に逃げ込む。
柏木は記録を取りつつ、七人ミサキの活動パターンを分析し始める。影は港の主要な動線に沿って現れ、接触可能な範囲にある人間や物体に影響を与える。波や風、光の条件に応じて影は微細に動き、濡れた跡や水面の変化を通じて存在を示す。港全体を覆う空間的範囲は、波止場と岸壁を中心に広がり、船や漁具を含む複数の対象に干渉できる。
港の静寂が破られるたび、村人たちの恐怖心は増幅する。遠藤は震えながら柏木に問う。「准教授……あれは……死者の霊なのか? それとも……」
柏木は言葉を詰まらせる。科学では説明できない現象が現実に起きており、民俗学的解釈と科学的観察の境界が曖昧になっていた。「少なくとも、単なる錯覚ではない」と柏木は心中で答え、影の動きと濡れ跡の変化を細かく記録する。
港の岸壁に新たな犠牲者が現れる。若い漁師、木村俊介が波止場で作業中、微かな水しぶきとともに黒い影が近づく。影は水面に沿って漂い、俊介の足元の砂利をわずかに濡らす。俊介は異常を感じ、振り返る瞬間に岸壁の段差につまずき、波に転落した。柏木は迅速に救助に向かい、俊介を岸に引き上げるが、全身が青白く、震え続ける。目は港の水面をじっと見つめ、口からは言葉が出ない。
柏木は観察を続けながら、この港での七人ミサキの活動パターンをまとめる。影は港全体を監視し、接触した対象に物理的干渉を及ぼす。濡れた足跡、水面の揺れ、船や漁具の不規則な動きは、影の存在証拠となる。港に近づく者は、意図せず影に遭遇し、事故や怪異を経験する。被害は必ずしも即死ではなく、精神的恐怖、物理的接触、遭難の危険を含む。
港全体が緊張に包まれ、七人ミサキの影は水面に漂いながら、静かに存在感を示す。柏木は波間に揺れる黒い輪郭を観察し、港の異常現象を科学的に記録する決意を固める。同時に、民俗学的知識と村人の証言を組み合わせ、港での怪異の構造を理解しようと試みる。
港に漂う七つの影は、単なる伝承の再現ではなく、現実世界において具体的な影響を及ぼす存在となった。岸壁の濡れた足跡、波間の揺れ、船や漁具の異常、村人や漁師の恐怖――すべてが、港に生まれた怪異の連鎖を示していた。
柏木は冷たい風を受けながら、深く息を吸う。港での観察は、科学者としての理性を試すと同時に、民俗学者としての直感を強く呼び覚ます。七人ミサキの影は港に確実に存在し、次に起こる惨事の序章を、静かに港全体に刻み込んでいた。