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第二章/前兆

午前八時、大学の附属法医学研究室を後にした柏木透准教授は、車のエンジンを静かにかけた。助手たちが残した膨大な解剖記録を胸の奥に抱えつつ、彼は一路、港町・御影村へ向かう。外は冬の光に包まれ、街路樹の葉はすでにほとんど落ち、枝だけが凍てつく風に震えている。街中は通勤の車で混雑していたが、郊外へ向かうにつれ、人家の灯りはまばらになり、田畑や小川、枯れた湿地が視界に広がった。


柏木はハンドルを握りながら、信吾の遺体の解剖所見を反芻する。膝下の紫変、奥歯に挟まった貝殻、体表の微細な圧迫痕……。科学的には分析できる事実だが、港で目撃された足跡や古老の証言と照合すると、何か奇妙な感覚が胸に残る。普段は理性的な彼の頭の中に、漠然とした不安と、底知れぬ海の匂いのような記憶が混ざっていた。


都市の喧騒を抜け、柏木の車は国道を外れ、細い山道へと入る。周囲の樹木は枝を伸ばし、まるで車を飲み込もうとするかのように道を覆っている。道幅は車一台がやっと通れるほどで、舗装はところどころ剥がれ、落ち葉と小石で滑りやすくなっていた。窓の外では、かすかな風が木の枝を揺らし、遠くで小さな動物の足音が落ち葉を踏む音が聞こえる。


山道を下る途中、柏木はふと、霧のようなものが谷間に漂うのに気づいた。朝日が昇り始めているはずだが、深い谷間には灰色の霞がたなびき、湿った空気が車の窓を薄く曇らせる。何か視線に追われているかのような錯覚に陥るが、理性を保つ柏木は、自分の疲労と緊張による錯覚だと分析した。


道はやがて海岸線へと降りていく。山を抜けると、目の前に水平線が広がった。冬の海は灰色で、波頭に白い泡を立てながら、冷たい風を岸に送り込む。港町・御影村の屋根が遠くに見える。漁港特有の細長い波止場や、赤錆びた倉庫群、船のマストが霧の中に点在している。港の向こうには、今朝の低い光に照らされて、わずかに揺れる波の影が黒く映る。


柏木は車を港に向け、舗装の途切れた小道を進む。海風が直接車に吹きつけ、塩の匂いと湿気が窓から流れ込む。道路脇には干し網や船の破片、潮に晒された木箱が無造作に置かれており、かすかな軋みと、波の低い唸りが混ざって不気味な静寂を作っている。港の入り口には小さな鳥居があり、古い漁師たちの守護神として風雨に耐えていた。柏木はその鳥居を通り過ぎる際に、無意識に車を少し減速させ、目を凝らして海を見やる。


港に入ると、遠くの岸壁に防波堤が並び、その先に七つの濡れた足跡が残っているかのような影が揺れる。まだ人影はほとんどなく、作業船もほとんど出ていない。柏木は車を港の一角に停め、深呼吸をひとつする。冷たい空気と、潮の匂いが鼻腔を満たす。その中で、港の静寂と、昨夜からの異常な足跡の記憶が重なり、心の奥に底知れぬ不安を生む。


車を降り、荷物を持った柏木は港を歩く。港の石畳は濡れており、凍った砂や藻が散らばっている。岸壁の端には、漁具が乱雑に置かれ、かすかに乾いた海草の匂いが漂う。柏木は思わず足元を見下ろす。そこには、七つの足跡がまだ消えずに続いているかのような錯覚が生まれる。科学者である彼は理性で打ち消すが、無意識に背筋が寒くなる。


港の小屋に着くと、大学から持参した資料と解剖メモを広げ、信吾の死について整理を始める。港の波音は低く、規則的に壁に反響している。その音に混ざって、遠くでかすかに水面を蹴る音や、誰もいないはずの岸壁で何かが動くような気配が聞こえる。柏木は息を整え、冷静を保とうとするが、港の空気はすでに、科学的には説明できない“何か”を秘めていることを示していた。


港町・御影村までの道程は、大学からわずか数時間の距離ではあるが、柏木にとっては心理的にも長い旅であった。都市の秩序を離れ、山道と霧、灰色の海を越え、古い港町の異様な静けさに包まれる。この道程こそ、後に続く七人ミサキの怪異を目の当たりにする準備であり、科学と伝承が交錯する場の入り口であった。


柏木は港の倉庫の陰に荷物を置き、外の視界を確認する。遠く沖合には、小さな漁船の影が揺れているが、人影は見えない。港の静寂と、潮の匂い、そして波に揺れる遠くの影が、まるで新たな事件の幕開けを告げるかのように、彼の胸に重くのしかかった。





冬の朝の光はまだ弱く、港町・御影村の屋根を淡い灰色に染める。柏木透准教授は大学の附属法医学研究室を出発して以来、頭の中で昨日の解剖所見を反芻していた。信吾の膝下の紫変、奥歯に挟まった貝殻、微細な圧迫痕。どれも海難事故や自然死だけでは説明できない。科学者としては理論的に分析可能な事象だが、港で目撃された七つの濡れ足跡の存在や、村人たちの異様な沈黙と不安は、理性だけでは説明がつかない何かを示していた。


大学を離れ、都市部を抜けると、道路は次第に細く曲がりくねった山道へと変わる。柏木の車のヘッドライトに映るのは、冬枯れの林と落ち葉が散らばる道だけだ。車一台がやっと通れる幅の道を進むと、かすかな動物の足音や枝の擦れる音が聞こえ、心理的な緊張が増していく。霧が谷間に漂い、遠くの木々の影がゆらゆらと揺れる。柏木は理性で自分を落ち着けようとするが、港で見た足跡や遺体の異常が頭をよぎり、背筋に冷たい感覚が走った。


山道を抜けると、遠くに冬の海が広がる。灰色の水平線の向こうには、薄く霧がかかり、港町の屋根や波止場の影がぼんやりと見える。柏木は車を減速させ、港へと続く小道に入る。道脇には古びた漁具や壊れた木箱が散乱し、潮の匂いと湿った海藻の香りが混ざる。港の空気は、科学者である彼の感覚を超えた重みを帯びていた。


港の小屋に到着し、柏木は荷物を置くと、村の古老・西田庄吉の家へ向かう。細い石畳の道を進むと、瓦屋根の上には霜が光り、凍てつく風が枝や屋根を揺らす。小屋の戸を叩くと、「はあい」という低い声が返ってきた。柏木は名乗ると、庄吉はゆっくりと姿を現し、うつむき加減で玄関に立つ。


「大学からか……法医学の方か。いや、民俗学も……まあよかろう。入れ」


囲炉裏のある土間に招かれると、室内は薄暗く、炭火の匂いがかすかに漂う。灰色の壁には古い漁具や小さな仏像が飾られ、村の歴史を感じさせる。柏木は座布団に腰を下ろし、資料と解剖メモを机に広げる。庄吉は何も言わず、火を見つめながら静かに息を吐く。


柏木は静かに口を開いた。「信吾さんの解剖を行いました。港での検視と照合しましたが、科学的に説明できない異常がいくつかあります。港で、何か不可解なことは起きていませんか?」


庄吉は一瞬、眉をひそめる。口を開く前に、ゆっくりと囲炉裏の灰をかき混ぜ、微かに炭を落ち着かせる。やがて低くつぶやくように言った。「……最近、この港では、七つの影が漂うと言われておる。足跡はその影の痕跡じゃ」


柏木は眉を寄せ、ペンを握り直す。「七つの影……?」


庄吉の目が微かに細まり、声を潜める。「昔からこの村では、七人ミサキと呼ぶ者がおる。漁師や村人の中には、海難や不思議な事故に遭った者が多い。その時、目には見えぬ七人の影がそばにいたと伝えられておる」


柏木は理性的に質問を重ねる。「それは比喩ですか? それとも実際に人影として目撃された……?」


庄吉は低くうなずく。「見えぬ者もおれば、見える者もおる。海の波音に紛れて、誰にも触れられぬまま漂っておるという……」


その言葉に、柏木の背筋に寒気が走る。科学的には存在を否定できるはずなのに、港での解剖所見や足跡との奇妙な一致が頭をよぎる。


庄吉はさらに言葉を続ける。「信吾のような若者が港で死ぬのは、まさに七人の影の仕業じゃ。昔は地蔵菩薩が、呪いを封じると伝えられておった。しかし、完全には封じられん……」


柏木はメモを取りながら、心の奥で論理を組み立てる。だが、港で確認された不可解な事実と古老の言葉が、単なる伝承ではない可能性を示していた。


庄吉は火のそばで身をかがめ、低くつぶやく。「七人ミサキは、海の事故や溺死に関わる者たちじゃ。死しても完全には冥界に戻らん。港や沿岸に残る霊的存在。港の波に浮かぶ七つの影……それを見た者は逃げられん」


柏木は息を整え、視線を窓の外へ向ける。灰色の海は低く揺れ、岸辺に積もる霜が光を反射する。遠く防波堤に沿って、足跡のような影が微かに揺れているかのように見え、理性で否定しようとしても、錯覚ではない気配が漂う。


庄吉はさらに古い言い伝えを語る。「七人ミサキの痕跡は、海難事故の前触れじゃ。港で足跡を見た者は、必ず死ぬとは限らんが、未来の災いを告げる。海に潜む七つの影……それは港の静寂に紛れ、見えぬまま人を襲う」


柏木は深く息を吸い、資料とメモを胸に抱く。科学者としての理性と、港の空気から直感する何かの存在が、頭の中で交錯する。港の波音、微かな風、岸壁の影――すべてが、七人ミサキの存在を予兆するかのように錯綜していた。


庄吉は最後に小さく言った。「科学の力で何とかなるかもしれん。しかし、港の七人ミサキは、人の理解を超えとる。用心せよ」


柏木は頷き、港の倉庫に戻る。外の風は冷たく、波は低く揺れる。港全体が、彼の意識の中で微かに揺れ動き、七つの影が潜む海の奥深さを予感させる。科学と伝承が交差する港町の空気は、これから始まる怪異の幕開けを静かに告げていた。


柏木透准教授は港の倉庫を出ると、冷たい海風に頬を打たれながら岸壁へ向かった。午前の光はまだ弱く、波の表面は灰色の霧に溶けて揺れている。昨日の信吾の遺体と、村の古老・庄吉の言葉が頭をよぎる。膝下の紫変、奥歯に挟まった貝殻、港で見られた足跡……科学的には説明できない異常が、今ここで何かを示そうとしているかのようだった。


岸壁に足を踏み入れると、石畳には薄く水滴が残り、潮の匂いと海藻の腐敗臭が混ざる。柏木はメモ帳を取り出し、港全体を視覚的に記録する。足元を見ると、砂利の間に微かに濡れた跡が点々と続いている。昨日の足跡と同じ形状で、誰かが歩いたような連続的な跡だが、周囲には人影がない。科学的な説明では、夜露や波の浸食でできた偶然の模様に過ぎないはずだ。しかし、直感は「これは偶然ではない」と告げていた。


柏木は岸壁の先端まで進み、海を見下ろす。波は静かだが、遠くに何か黒い影が揺れるのを視界の端で感じた。形ははっきりしないが、七つの小さな影が漂うように見える――足跡の影と呼応しているかのように。風に乗った微かな音が、遠くの波の音と混ざり合い、人の声にも、動物の足音にも聞こえた。柏木は息を整え、理性で分析しようとする。「風か、波か、光の錯覚か……」だが、心臓の奥に小さな恐怖が忍び込む。


岸壁に沿って歩くうち、柏木は古びた漁具置き場の陰で、微かに動くものを感じた。海藻がひとりでに揺れ、濡れた木箱が小さな音を立てる。風は弱く、波音も一定で、外的要因では説明がつかない。柏木は慎重に近づき、懐中電灯で影を照らす。何もない。だが、視線を動かした瞬間、箱の陰から黒い影が一瞬、揺れたように見えた。反射光に過ぎないかもしれない。だが直感は違った――人の形をしていた、七つの影のうちの一つの輪郭だ。


柏木は深呼吸し、視線を海に向ける。防波堤の先に、黒く揺れる七つの影が、低く漂う波に沿って浮かぶ。岸壁から離れるほど不規則に揺れ、まるで意志を持つかのように港の中央に集まっている。科学者として分析可能な自然現象ではない。冷たい海風が背筋を刺し、柏木は手袋の手に力を入れる。観察と記録を優先しなければ、理性が揺らぎかねない。


岸壁の端で、柏木は石に腰を下ろす。七つの影のうちの一つが波面に近づき、微かに水面を蹴ったように見えた。水の跳ねる音は小さく、ほとんど波音に吸収される。だが、その瞬間、岸壁に残る濡れた足跡の一つが、ほんのわずかに膝下の紫変のように青白く光ったような錯覚を生んだ。科学的には錯視に過ぎないはずだ。だが、解剖所見と重ねると、無視できない予兆に思える。


柏木は懐中電灯で岸壁を順に照らす。微細な波紋に沿って、濡れた跡が消えたり現れたりするように見え、目の端で黒い輪郭が揺れる。風のせいではない。光の屈折でも説明できない。港全体が、七人ミサキの存在を予告する舞台になっているかのようだ。柏木は筆を取り、詳細に観察を記録し、写真を何枚も撮る。だが、シャッター越しに見る映像は、目で見た不気味な揺らぎを完全には写さない。現実と記録の間に、微かなズレが生じる。


ふと背後で、わずかに衣擦れのような音がした。柏木が振り返ると、岸壁の倉庫の影に誰もいない。だが、微かに七つの足跡の影が揺れるように見え、空気がわずかに冷たくなった気がする。風は一定で、波も同じ規則で打ち寄せる。存在しないはずのものが、確かにそこにある――理性では否定できない感覚が、体中を支配した。


柏木は立ち上がり、深く息を吸う。七人ミサキの存在は、港に潜む不規則な影、濡れた足跡、解剖所見の微細な異常とリンクしている。港の静寂、霧、風、波――すべてが、科学では説明できない現象の前兆となっている。港全体が、次に起こる怪異の予告状のように感じられた。


港の沖合に目をやると、七つの影はさらに波間に浮かび、揺れる。そのうちの一つが岸壁に近づき、わずかに水を蹴る。影は光を反射し、黒い輪郭が水面に映る。柏木は手を止め、凍った手で懐中電灯を握り直す。写真には写らない、目で見なければわからない不思議な現象だ。科学者として分析可能な範囲を超え、直感で理解せざるを得ない「存在の気配」が、港の空気を支配していた。


柏木は再び岸壁を歩き、七人ミサキの痕跡を一つずつ観察する。微細な濡れ跡、藻の絡まり、岸壁の一部に残る泥の変形。どれも、自然現象や人為的なものだけでは説明できない。港の波音と風が、その異常な痕跡を包み込み、科学的な分析と民俗的恐怖の境界線を曖昧にする。


港の静寂の中で、柏木は初めて理解する――七人ミサキは、単なる伝承ではなく、この港に確かに「存在しているのかもしれない」と。科学者の理性は揺らぎ、直感は警告を発する。波間に揺れる七つの影、岸壁に残る微かな痕跡、解剖で見た信吾の遺体の異常……すべてが、港を覆う怪異の前触れであり、これから連鎖する事件の序章であることを予感させた。


柏木は港を見渡しながら、心の奥で冷たい決意を固める。科学者として、民俗学者として、この不可解な現象の正体を解明する――しかし、それは港の深い闇に触れることを意味していた。岸壁の先、波に揺れる黒い影は、今日も静かに港を漂い、次の犠牲を待つかのように見えた。



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