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第一章/怪異の海

夜明け前の港は、冬の朝の冷気に包まれ、海から吹き上げる風が白い霧を立ち込めさせていた。遠くの防波堤の灯りは、霧のせいでぼんやりと揺れ、まるで海の上に漂う幽霊の眼のように見える。港の岸辺に沿って小屋や倉庫が並ぶが、誰一人としてその中に足を踏み入れる者はいなかった。昨夜からの異様な寒さと、近頃港で何度か目撃されている濡れた足跡の噂が、村人の心をざわつかせていた。


防波堤の内側、船の係留ロープの陰に、若い漁師・佐久間信吾の遺体が見つかった。彼の体は、まるで海から吐き出されたばかりのように白く膨らみ、肌の表面は蝋細工のように艶を失っていた。衣服は乾き、しかし膝から下はびしょ濡れのまま。裸足の足指は紫色に変色し、爪の間には黒い海藻が詰まり、細い線状の痣がふくらはぎを這っている。顔は上げられ、目は大きく見開かれ、瞳孔は濁って白く、唇は半開きで凍りついた笑みと苦悶が混ざった形をしている。頬の裂け目からは砂混じりの海水が滲み出し、髪には細い海草が絡みつき、風に揺れるたびに波の底で漂うかのような不気味さを醸していた。


村人たちは遠巻きにその光景を見つめ、誰も近寄ろうとはしなかった。古老の西田庄吉だけが帽子を深く被り、じっと沖を見つめて低く呟く。「七は七でなければならん……」


やがて、港役場からの連絡で警察が到着した。パトカーのヘッドライトが霧に反射し、薄暗い港に白い光の筋を描く。刑事二人と鑑識チームが現場に下り立ち、ブルーのビニール手袋をはめて慎重に遺体を観察し始める。リーダーの刑事・田辺は、眉間に深い皺を寄せながら庄吉に声をかける。「住民の方ですか? 何か異常は……?」庄吉は口をつぐみ、波音の中でかすかに呟く。「何もせん方がよい……」


検視官の中村は、信吾の遺体を慎重に押さえ、観察を始めた。体表の水分量、紫変した皮膚の部分、筋肉の硬直状況、呼吸や脈はもちろん存在しないことを確認し、メモを取りながら、時折冷たい指で頭部や腹部を触れる。膝から下が濡れていること、潮の匂いが微妙に体表に染みついていること、足指の間に海藻が絡まっていること、さらに奥歯に小さな貝殻が挟まっていることに注目した。すべては海で溺れた者の所見と整合する部分もあったが、衣服は乾いているという点は科学的には説明がつかない。


鑑識チームが現場の足跡を記録する。七つの濡れた足跡は、沖へと真っ直ぐ伸びている。コンクリート上に水が残り、写真撮影でも光を吸い込むように黒く沈む様子が映し出された。田辺刑事は眉をひそめる。「こんな水の残り方、普通の足跡じゃあり得ない……」誰も口には出さなかったが、空気に緊張が走る。


村人たちは口を閉ざし、誰も近寄ろうとはしない。古老の庄吉は、目を閉じると背後の影を追うようにゆっくり振り向き、低く呟く。「海は忘れん。人の数も、死んだ日の天気も、潮の匂いもな……」その言葉に、若手刑事の山下が軽く咳払いする。科学的に証明できない存在を前に、誰もが無意識に恐怖を覚えていた。


中村検視官は遺体の口腔内を確認し、歯の間にある小さな貝殻を慎重に取り出す。「これは……咀嚼痕? いや、死後に何かが挟まった可能性もある……」彼の声は低く、しかし冷徹だった。体表の傷や紫変した部分を詳細に記録し、波にさらされた影響を分析しながら、肉眼ではわからぬ微細な傷の存在を示した。


田辺刑事は周囲を見渡す。港には異常な沈黙が広がり、波音だけが不規則に響く。漁船は一隻も出ておらず、港にいるのは村人と警察、そして七つの足跡が示す沖の海だけだった。空気には微かに潮の匂いが漂い、普通の海とは違う、どこか湿った怨念のような気配を感じさせる。


検視と鑑識の作業が続く中、村人の一人が恐る恐る口を開いた。「……この子、七人ミサキの……」庄吉は素早く口を押さえ、低い声で言った。「黙っとれ……。知らん者が近寄ると、呪いが移る……」村人は無言で頷き、目を逸らす。科学的には解釈できない事実が、村の古老によって口承として伝えられていた。


作業は慎重に進められた。遺体を布で覆い、鑑識チームは写真撮影と計測、採取を進める。七つの足跡は写真に残し、可能な限りの証拠として持ち帰ることになったが、現場に残る潮の匂い、水分の残留、異様に膨らんだ体表の感覚は、どのデータでも説明できなかった。


警察が撤収するころ、港は再び沈黙に包まれる。遺体は搬送され、鑑識装備が片付けられ、村人はそれぞれの家へと戻る。庄吉だけは、港の防波堤に座り、遠く沖の海を見つめていた。波は穏やかに揺れ、陽光が霧を薄く割る。しかし、岸辺の七つの足跡は、いまだ海に向かって消えず、波に光を吸い込まれながら黒く沈んでいるように見えた。


「……七は七でなければならん」庄吉の低い呟きが、海風に乗って港の奥まで届く。誰も声に応えなかった。港は今日も、昨日と同じように、静かに波を打つだけである。しかし、その沈黙の中に、何か新たな不吉な予兆が漂っていた。足跡の先、沖の暗闇の中で、七つの影が微かに揺れるように見える――まるで夜明けを待たずして、新たな物語が始まるかのように。



信吾の遺体は、港での検視の後、冷蔵車に収められ、大学附属法医学研究室へと運ばれた。外はまだ冬の冷気に包まれ、海風が街路の電柱を叩く音が、研究室の無機質な廊下に反響していた。附属大学法医学研究室は、標準的な解剖室としての設備を備え、明るく白い蛍光灯が室内を均等に照らす。壁には各種法医学用具や標本が並び、消毒液の匂いと冷蔵庫から漏れる冷気が混ざり合い、緊張感を漂わせていた。


柏木透准教授は、民俗学者でありながら、過去に人体構造の研究を行っていた経験から、今回の解剖に立ち会うことになった。黒縁メガネの奥で、鋭い眼差しが信吾の遺体を冷静に観察する。胸元のIDバッジには「柏木透 准教授」とあり、実験用白衣に微かに海水の匂いが残る遺体の冷気が混ざっていた。


解剖台に遺体が置かれる。青白い皮膚はまだ柔らかさを残しているが、膝下の紫変は明らかに長時間の水没による循環停止の兆候である。柏木はゆっくりと手袋を装着し、解剖メスを手に取る。助手たちは心拍確認用の装置や血液サンプル用の管を準備する。


「まず外傷の確認だ。港での検視結果と照合する」

柏木の声は低く、しかし明瞭だった。助手が首を縦に振る。柏木は指で首筋や肩、胸部、膝から下の皮膚を軽く触れ、微細な裂傷や擦過痕を確認していく。水圧や波との摩擦でついた微小な損傷と、明らかに人工的に生じた圧迫痕の違いを、解剖用メモに逐一記録する。


胸郭を開く前に、柏木は助手に指示を出す。「胸部の開胸、心臓・肺・肝臓を順番に確認。水没による肺の損傷、肺胞の水浸入の有無を記録しろ」

メスが慎重に皮膚を切り開くと、白く浮き上がった脂肪組織と薄紫色の血管が現れる。胸腔内の液体の一部を吸引し、サンプルとして保存する。肺は部分的に水が浸入しており、海水特有の塩分による浮腫が観察される。しかし、通常の溺死とは微妙に異なる。海水を吸い込んだ痕跡はあるが、口腔内の残留水量は少なく、溺死だけでは説明できない点がある。


腹部を開くと、肝臓、腎臓、胃腸が確認される。胃内容物には微量の海水と、昨夜食べたとみられる乾燥した海藻の断片が残る。柏木は眉をひそめ、助手にメモを取らせる。「この海藻、死後に口に入った可能性もあるが、咀嚼痕と胃内容の状態から、死の直前まで口に入れていた可能性がある。死因の判断に重要だ」


四肢の解剖に移る。膝下の紫変した部位を切開し、静脈や筋肉組織を確認する。微細な線状の痣が皮下に走り、海藻と砂が挟まったままになっている。柏木は顕微鏡で皮膚の損傷を観察し、波と摩擦による自然な損傷か、それとも外力によるものかを判別する。結果、微細な圧迫痕は人為的な接触を示唆する形状をしており、港で目撃された七つの濡れ足跡と矛盾しない状況が浮かび上がる。


口腔内の検査では、奥歯に挟まった貝殻の形状と位置を記録。顎の筋肉の硬直から、死の瞬間に何かを咀嚼していた可能性がある。柏木は慎重に歯型を採取し、後の分析用に標本として保管した。


頭部の解剖では、外傷はほとんど確認されない。しかし、眼球を押さえると微細な出血が眼底に広がっており、水圧による損傷ではなく、死の直前の窒息や強い衝撃があった可能性を示唆している。柏木は眉間に皺を寄せ、静かに呟く。「自然死ではない……だが、何が影響したかは特定できない」


検視が進むにつれ、助手たちは全身の微細な損傷、指先の海藻の絡まり、膝下の紫変、衣服の乾湿差、胃内容物の異常な組成など、すべてを記録していく。通常の溺死や事故死では説明できない細部が多く、柏木の表情には一瞬の緊張が走る。科学と常識で理解できる部分と、港の伝承で語られる「七人ミサキ」による超常現象との間に、不可解な齟齬が生まれていた。


解剖が終わる頃には、外は既に朝日が差し込み、室内の蛍光灯と混ざった光が遺体を淡く照らす。柏木は手袋を外し、記録用紙をまとめる。助手たちは疲労で沈黙している。港での検視、法医学的な解剖を経ても、遺体の異常性、不可解さは残ったままだった。


柏木は思わず港での話を口にする。「港で、七つの足跡があったと……」助手は視線を逸らす。科学的には信じがたい話だが、解剖所見と照合すると、完全には否定できない微細な異常が散見される。港の霧と波の音、七人の影の目撃証言。科学と民俗が交錯する中、柏木は冷静を装いながらも、心の奥で何か不吉な予感を覚えていた。


解剖室を後にする柏木の背後で、冷蔵庫のドアが静かに閉まる。外では波がまだ、港の岸辺を濡らし続け、七つの足跡の黒い影が、水面の揺らぎに微かに映り込むかのようだった。科学的な調査の成果は得られた。しかし、港の伝承が示す“七人ミサキ”の存在、そしてその死の連鎖は、依然として解明されないままだった。


港の静寂に、微かな怨念のような空気が漂う。柏木准教授はその場に立ち尽くし、港の向こうに見え隠れする波と影を見つめる。科学と伝承の間で、彼は初めて、港の海に眠る“何か”の存在を意識せざるを得なかった――。


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