プロローグ/口伝
そりゃあのう……昔から、御影浜の沖には“七人ミサキ”ちゅうもんがおってじゃ。
七人揃うて、夜な夜な海辺に立っちょる。
あれはな、むかし大嵐の晩に起こったことよ。
村から出た船が二艘、沖でひっくり返ってのう、七人がいっぺんに死んでしもうたんじゃ。
波に呑まれ、骨も拾えんかったもんで、魂は帰る道もわからんまま、荒れ海を彷徨うた。
人の無念はな、海ん中で腐らん。
恨みと悔しさが塩に染みて、やがて影となって浜に戻って来る。
七人は七人のまま、数を減らさずにおるんじゃ。
一人が人を道連れにすりゃ、新しゅう入ったもんが列に加わって、古い一人はやっとあの世へ行ける。
こうして、七は七のまま、いつの世も変わらんのよ。
ある晩、若い衆が港で見たげな。
雨も降っとらんのに、濡れた足跡が七つ、岸から沖へと伸びちょった。
たどったら、月明かりの下に七つの黒い影。
顔は海藻で隠れ、貝殻が眼ん玉みてぇに光っちょったと。
遭うたら最後、声もかけちゃいけん。
足跡を見つけたら、逆に歩いて帰れ。
触れられたら、どんな医者でも助けられん。
むかしはな、御影神社の地蔵さまに呪言を唱えて、七人を海へ送り返す儀があったそうじゃ。
けんど、最後にそれをやった僧は、夜明け前に姿を消してしもうた。
村じゃあ、あれは七人目に引かれて行ったんじゃと、今も語り継いどる……。
――七は七でなければならん。
それがこの浜の、海の掟じゃ。
古老・西田庄吉の声は、しわがれながらも、どこか海鳴りのように深く響いていた。
港の片隅、使われなくなった製氷庫の前で、庄吉は若い漁師・佐久間信吾にこの話をしていた。
夜風は冷たく、沖の方では白波が闇の中で牙を剥いている。
遠くに見える防波堤の灯りは、霧のせいでぼやけ、波間に沈んだ魂の目のように揺れていた。
信吾は苦笑して、ポケットから煙草を取り出した。
「庄吉さん、またその話かい。七人ミサキなんて、もう何十年も誰も見ちゃいないんだろう?」
庄吉は細い目をさらに細め、火の点いた煙草の先を見つめる。
「……見とらんのは、おまえらが見えんようになっただけじゃ。海は忘れん。人の数も、死んだ日の天気も、潮の匂いもな」
「縁起でもねぇこと言うなよ」
信吾は笑い飛ばしたが、その笑いにはかすかな硬さが混じっていた。
数日前から、港の裏手に濡れた足跡が続くのを何度も見かけていたのだ。
潮が引いた後でも消えず、コンクリートの上で水たまりのように光っている。
誰もその足跡を辿ろうとはしない。村人は気づかないふりをして港を通り過ぎる。
それでも信吾の胸の奥には、不意にざらつくような寒気が生まれていた。
その夜、信吾は一人で船の整備をしていた。
翌朝、出漁予定の船のエンジンが不調だったため、港に泊まり込みで作業を続けていたのである。
港の外は凪いでいるように見えたが、耳を澄ませば低い唸り声のような波音が絶え間なく続いていた。
時計を見ると、日付が変わる少し前。
エンジンの整備を終え、信吾は油に汚れた手を洗おうと防波堤の方へ歩いていった。
ふと、足が止まる。
防波堤の付け根から、沖へと向かって七つの足跡が続いている。
それは裸足の跡で、ひとつひとつが水を湛え、まるで今しがた現れたばかりのように新しい。
足跡は波打ち際で消えることなく、さらに海の上へ伸びている。
信吾は思わず息を呑んだ。
足跡の向こうに、月光を背にした七つの影が並んでいたのだ。
その姿は人のようで人ではなかった。
全身は黒く濡れ、顔は海藻や貝殻に覆われている。
二つの眼孔から覗く白いものが、波に合わせてぎらりと光った。
影たちは音もなく並び立ち、ただ海の向こうから信吾を見つめていた。
いや、見ていたのではない――招いていた。
足跡は信吾の足元で止まり、じわりと海水が広がって靴を濡らす。
その冷たさは皮膚を越えて骨の芯まで届くようだった。
一歩、影のひとりが前に出た。
海藻の間から覗く唇がわずかに動き、潮騒ともつかぬ囁きが信吾の耳に届く。
「……七は……七でなければ……ならん……」
次の瞬間、冷たい指先が信吾の手首を掴んだ。
そこから走った氷のような感触が、心臓を一瞬で締めつける。
視界が暗く沈み、波音が頭の奥で遠ざかっていく。
最後に見えたのは、七つの影の列に、自分が加わろうとする瞬間だった。
翌朝、港にはまだ朝靄が漂っていた。
海面は鉛色に沈み、船底を叩く波音が異様に大きく響いている。
防波堤の内側、係留ロープの影に、信吾はうつ伏せで浮かんでいた。
発見したのは早朝の漁に出ようとした庄吉だった。
「……あれを見ろ」
その声に呼ばれて集まった村人たちは、一様に息を呑んだ。
信吾の体は、まるで海から吐き出されたばかりのように不自然に白く膨らみ、肌の表面は蝋細工のように艶を失っていた。
衣服は乾いているのに、膝から下だけが滴を落としている。
裸足になった足の指は紫色に変色し、爪の間には黒い海藻が詰まっていた。
ふくらはぎには細い線状の痣が幾重にも走り、それはまるで何かに巻きつかれ、引きずられた痕のようだった。
顔は上げられていた。
だが目は大きく見開かれ、瞳孔は濁って白く、唇は半開きで凍りついた笑みとも苦悶ともつかぬ形をしている。
頬には微かな裂け目があり、その奥から砂混じりの海水が滲み出ていた。
鼻孔には小さなフジツボが二つ、吸いつくように張り付いている。
髪には細い海草が絡み、それがゆらゆらと風に揺れ、まるでまだ海の中で漂っているかのようだった。
さらに誰かが口元を覗き込んで、息を呑む。
奥歯の間に、砕けた小さな貝殻が挟まっていたのだ。
まるで死の間際に、何かを必死に噛み砕こうとした痕跡のように。
信吾の足元からは、七つの濡れた足跡が真っ直ぐ沖へと延びていた。
それらは朝日を受けても蒸発せず、むしろ光を吸い込むように黒く沈んでいる。
村人たちは誰も近寄ろうとせず、遠巻きに眺めながら、ひそひそと祈りに似た言葉を交わした。
庄吉だけが足跡の先をじっと見つめ、低く呟いた。
「……七は七でなければならん」
その言葉は波音に紛れ、港の冷たい空気に吸い込まれていった。
海はただ、昨日と同じように、何事もなかったかのように揺れていた。