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一匹と一人

第3章 一匹と一人

 

「ご飯」

 ヒアシレィズは床に横たわっている狼の前に食事を置き、なにかを言いたそうに頭を撫でる。

 気持ち良さそうに目を細める狼を観察したあと、続いてテーブルに料理を運んでいく。食事の用意を終えると、軽くジャンプして椅子に腰をかけた。

「ランドも。ご飯」

「おぅ」

 あれから二ヶ月、ランドはいまだ苦悩の中にいた。

 なにを求めていたのか。なにが足りなかったのか。なにを望んでいたのか。なにが欲しかったのか。

 もう、自分の気持ちすら分からなかった。

 ジタは狼に戻ってしまったが、今も変わらず傍に居る。仕事中も食事中も睡眠中も、決して離れなかった。

 しかし、もう言葉は交わせない。完全に狼になり、人間の声と知能を失ってしまったからだ。

「おいしい?」

「ああ」

 この二ヶ月、ずっと同じ問答をしている。

 幾度となく繰り返してきた二人と一匹の食事だが、慣れることはなかった。口下手なヒアシレィズから話題を振るというどこかぎこちない会話の中、二人はいそいそと料理を口に運んでいった。

「どっちが、おいしかった」

「こっちのスープだな」

 ランドは根野菜のスープの皿を持ち上げ、スプーンを使わずに口をつけて飲む。

「違う」

 ヒアシレィズはフォークを置くと、隣に座っているランドをじっと見つめ――

「ジタと、どっち」

 初めての質問を投げかけた。

 ランドはスープを飲み干して皿を下ろし、ゆっくりと首を横に振る。

「分からん……」

「うん、ぼくも」

 それを見てヒアシレィズは小さくうなずくと、食事の後片づけを始めた。

「……ジタよぅ」

 あれほど大好きだったジタの料理も、今では味すら思い出せないのだ。頭に残っているのは、美味い、という漠然とした感想だけ。

 耳当たりのいい声も、抱きしめると折れてしまいそうな体も、触り心地のいい柔らかな髪も、キッチンで料理をする後ろ姿も、すべて曖昧な記憶の中。

「お前の声を聞かせてくれ……」

 ジタを持ち上げ、どことなく人間の面影を残している顔を眺めた。暴れもせずに身を委ねられることに、言い知れない孤独感を覚える。

「初めて会ったときもこんなだったな。会話できねぇことに気づいてよぅ……。喰っちまおうか、とか考えてたんだぞ。我慢できてよかった。本当に、本当によかったと思ってるんだ」

 ランドが初めて出会ったのは、人語を操る狼。次は、狼の聴力を持った人間。そして、ただの狼。

 どれがジタなのか。なぜ今、自分は悲しんでいるのか。ランドには分からない。

「寂しいぜ、ジタ……。寂しいんだ……。なんで話してくれねぇんだよ」

 顔を歪めて大粒の涙を流す大男を前にして、狼はただ鼻を鳴らすだけだった。

 

     *

 

 毒物混入疑惑の一件は、重要参考人であるジタが姿をくらましたことで真相は闇の中。しかし村人は、誰が犯人であるかを理解していた。なにせ、当事者の一人が村から逃げ出したのだから。

 死者こそ出なかったものの、この一年で二度も毒による被害が出たのだ。真実がどうであれ少女が残した傷痕は大きい。

 水運びの仕事量は激減し、以前の三分の一にまで落ち込んだ。それでも、贅沢をしなければ二人と一匹が暮らしていくには充分な糧だ。

 ある程度の注文が入るのはヒアシレィズが村人の説得に奔走したおかげなのだが、ランドがそれを知ることはなかった。

 午前中にすべての配達を終えた二人と一匹は、客を待ちながら店の奥で待機していた。

 二ヶ月前は心地好かった言葉のない休憩時間も、今では物寂しさを痛感させられる息苦しいものになっている。寄り添って座っているにもかかわらず、互いの距離はどこか遠い。

 そんな中、狼の背を撫でていたランドが、

「昔のおれに戻ってほしいか?」

 正面の大通りへ視線を向けたまま、誰に問いかけるでもなくつぶやいた。

「違う!」

 間髪入れずに、隣から否定の声が上がる。あまりの馬鹿さ加減に痺れを切らしたのか、ヒアシレィズはランドの頭を両手で挟み、強引に目を合わせる。そして、もう一度、

「違う」

 と、気丈に否定した。

「……悪かったよ、ピア。それとな、昔に戻ろうなんて本気では思ってねぇんだ。戻ったら、またジタを殺すことになっちまう」

「え?」

 興奮したように、ヒアシレィズの瞳が見る見る大きくなる。

「話してなかったか。狼だったジタを殺したのはおれだ」

 ランドは顔を曇らせ、耳に当てられている手を振り払うように視線を空へ向けた。

 薄い雲に隠されている太陽を探し、眩しそうに目をつぶる。そうでもしないと、自然にまぶたを下ろすことができなかったのだ。

「知ってる。そうじゃない。――ランドは人間でいたい?」

「いや、人間でいたいわけじゃねぇ。ただ、なんて言うんだろうな……おれが獅子でジタが狼ってのは駄目だ。またジタに戦いを挑まれちまうのはご免なんだ。殺すしかなくなるからな」

「たぶん、もう挑まない」

 その言葉を聞いたランドは狼へと視線を移し、儚げな微笑を浮かべた。

「ピアは物知りだな」

 狼を慈しんでいる大男は、自分が人間であることを否定しているわけではなく、自分は獅子であると思い込んでいるわけでもなく、獣であることにこだわっているわけでもない。ただ、今の自分が何者なのか分からないだけなのだ。

 そしてなにより、ジタと共に生きていきたいと望んでいる。

「少し、考え事」

 思うところがあったのか、ヒアシレィズはそのまま押し黙り、芝の絨毯との睨み合いを開始した。

「あ、ああ」

 いつになく力強い眼差しをしているヒアシレィズに多少の戸惑いを感じつつ、ランドは狼の体に手を伸ばし、声のない会話を再開する。

 首から背にかけて手を流していくと、狼は嬉しそうに尻尾を一振り。

 尻尾を掴むと、少し嫌そうに耳を立て。

 耳に触れると、心地好さそうに目を閉じ。

 眉間をさすると、なにか言いたそうに口を開け。

 顎を撫でると、むず痒そうに首を動かす。

 それが、いつもどおりのコミュニケーション。

 そして、大男は唐突に涙を流す。それも、いつもどおりのこと。

 シャツの裾で頬を拭うため、ランドが狼から手を放したとき――

 大人しかったジタが突然、立ち上がった。匂いを確かめるように何度も鼻を鳴らすと、メインストリートへ飛び出し、ハレルの館がある方角へ走り始める。

「お、おいっ!」

 狼に戻ってからというもの片時も傍を離れなかったジタ。それが、なんの前触れもなく走り去ろうとしている。

 得も言われぬ焦燥感に駆られたランドは、地を這いながら両手を使って体を起こすと、我を忘れて後を追いかけた。いつかに似た状況が思い出され、不安が胸の内を塗りつぶしていく。

 小さな姿を二度と見失わないよう、ランドは必死で走った。

「待ってくれ、ジタ!」

 声が届いていないのか、頼みを聞く気がないのか、ジタは人気ひとけの少ないメインストリートを猛スピードで駆け抜けていく。

 尋常ではないランドの声に反応したのは村人たちのみ。物めずらしそうな視線を一人と一匹に向け――そして、見た。

 狼が女性に襲いかかったのだ。

「わぁッ?」

 手提げ袋に噛みつかれた女は、情けない悲鳴を上げてその場に尻餅を着いた。荷物を投げ捨てるように袋から手を放し、怯えた瞳で狼を凝視したまま後退りする。

「なにやってんだ!」

 すぐに追いついたランドは、手提げ袋を噛み千切ろうとしているジタを背後から抱え上げた。袋が逆さまになり、ハーブやスパイス、野菜などが地面へ落ちて転がっていく。

 普段は決してランドに抵抗しない狼だったのだが――

「おい! 落ち着けって!」

 太い腕から逃れようと足掻いていた。気でも触れてしまったのか、と思うほど激しく四肢を振り回している。

 ランドが懸命になだめようとするも、狼は一向に平常心を取り戻さない。

「お、お前はまだ恨んでいるのか。犬までけしかけるとは……。文句を言いたいのはこっちなんだ」

 ランドと同様に遅れて駆けつけた男性――ハーマンは、妻を助け起こすと、ぎりり、と憎たらしそうに歯軋りをした。ランドとは目を合わさず、足元に散らばった食材をいそいそと手提げ袋に戻していく。

 狼が襲った相手は、ブレンダだったのだ。

「なんのことだ? ……お前、どこかで見たな」

 暴れるジタを抱きしめたまま、ランドは夫婦に鋭い視線を向ける。

 ――そして、大きく目を見開いた。人間のものとは思えないほど瞳孔が小さくなり、獅子の眼を連想させられる。

 殺気を感じ取ったハーマンとブレンダが、びくり、と体を震わせた。肺が痙攣しているかのように呼吸が浅くなっていく。

「そういうことかよ、ジタ。敵を片づけたいのなら、おれが代わりにやってやる」

 ランドは敵を見据えたまま、狼を大地に下ろした。

 もしも『殺す』と判断したのなら、目の前の人間を数秒で死に至らしめる自信があった。怪力に加え、人間狩りの技術と経験があるのだから、一般男性を殺すのは難しいことではない。

 ――ジタと一緒に居るためには人間でなければならない。男を殺してしまえば、人間ではなくなってしまう。さらには、ヒアシレィズとの約束もある。

 そう理解していても許せないものがあるのだ。孤独を恐れるランドには、群れ《プライド》に手を出されることは耐えがたい。

 当のジタが許すというのなら、憤怒もまだ抑えようもある。しかし、許せないというのなら、人間でいることを捨てる覚悟があった。

「おれにはどっちがいいか分からねぇんだ。お前が決めてくれ」

 ランドは重い決意をして、小柄な狼から手を放した。

 頑強な枷から解き放たれた狼は、五メートル先の夫妻に向かって疾走する。一瞬で距離を詰めると、敵を目がけて跳躍した。

「く、来るな!」

 ハーマンは妻の前に立ち塞がり、狼の突進を防ごうと手提げ袋を突き出す。それが功を奏したのか、狼の爪牙は袋で止まった。

 しかし、そのまま勢いに押されて後方の家に背中から叩きつけられる。木の壁が軋み、砂埃がぱらぱらと落ちていく。

 すぐにその場から逃げ出そうと、狼が噛みついている袋を投げ捨てたそのとき――

「あぁ」

 ハーマンの口から絶望の声が漏れた。二メートルはあろうかという大男が目前に迫り、無骨な拳を振り上げていたのだ。

 避けようとすることなく、助けを求めることなく、目を閉じることもなく、ハーマンは暗い瞳をした大男を呆然と見つめていた。

 村で話題をさらった怪力を持つ男、その拳にどれほどの威力があるのか想像もつかない。しかし、命を奪うには充分すぎるということは誰の目にも明らかだった。

「ブレンダ」

 死を直感した男は、妻の名を呼び――轟音を最も近くに聞きながら吹き飛んだ。家に背中を押され、腹から地面を滑っていく。

 数瞬ほど遅れて、倒れ伏したハーマンの背中に血の飛沫が降った。薄緑のシャツに赤い斑点がつく。

「ぐっ……」

 ブレンダと村人たちの悲鳴が木霊する中、ランドは家の壁に突き刺さった腕を引き抜いた。

 木材を用いた壁は、ランドの拳が命中した個所を中心に陥没し、外側にいくにつれ隆起している。壁が頑丈であれば、家ごと傾いていただろう。それほどに凄まじい衝撃だった。

 ランドは感覚を確かめるように朱に染まった手を動かすと、あまりの激痛に顔をしかめた。しかし、敵への憎悪を前に、痛みは一瞬にして頭の外へと押し出される。

「邪魔するなよ」

 妨害者に血まみれの手を向ける。

「する」

 息を切らしたヒアシレィズが、物を投げ終えた格好のまま突っ立っていた。路傍の石を使ってランドの右手を破壊し、ハーマンを救ったのだ。

 ヒアシレィズは呼吸も整わないうちに、両者の間に割って入る。その目尻には、大粒の涙が溜まっている。

「うそつき。殺さないって、言った」

「すまねぇ、ピア。でもよぅ――」

「うそつきッ!」

 初めて耳にするヒアシレィズの怒声。ランドは今にも泣き出しそうに顔を歪めた。

「こいつらは……ジタの『嬉しそう』を殺した。おれは、守れなかったんだ。今も、また、なにもできねぇまま、突っ立ってるのか、おれは、そんなのよぅ……無理だ。無理なんだ。理屈とかよく分からねぇけど、これは、おれの役割だ」

 ランドは殺気に満ちた視線で夫妻を射ち、

「敵は、殺す」

「なら、ぼくも敵」

 ヒアシレィズは涙を拭い、ランドに向かって歩きはじめた。その瞳には、微かな哀しみの色と明確な敵意が宿っている。

 ランドもゆっくりと前進しはじめた。止まる気は、ない。――いや、止まれなかった。

 言うなれば、それは野生の本能。『敵を排除できなければ、死ぬのは自分だ』と心に強く植えつけられているのだ。

「なんでだよ、ピア……。おれのほうが強えんだぞ」

「うん」

 ランドの歯が、ぎち、と軋んだ。右手の甲から血が噴き出し、地面に斑模様を描く。

「逃げろよ……」

「逃げない」

 その心に宿るのは、怒りではない。ただ、生きてほしいだけだ。

 それでも、殺すことに躊躇はしない。ヒアシレィズはジタの敵なのだから。

「ジタみてぇに死んじまうぞ……」

「死なない」

 両者はそのまま接近していき――やがて、無骨な拳が振り上げられた。

「なんでだよぅ……」

「好きだから」

 拳を振り下ろそうとした瞬間、狼がないた。

 呆気なく命を落としたジタの姿が、雷光のように脳裏によみがえる。

 恐い、と思った。手が止まったとき、敗北したことを思い知った。

 ランドは膝を折って、その場に座り込んでしまった。止まる気なんて、まったくなかったのに。どうやっても、目の前の命を奪うことができなかった。

 守りたいものも守れない自分が、情けなくて仕方がなかった。

 だから、声を上げて泣いた。

 ヒアシレィズは大男の頭を優しく抱き、共に涙を流した。

 周囲の村人たちは、なにを思っていたのだろうか。夫妻に駆け寄ることもなく、仲裁に入ることもなく、ただただ事の成り行きを静観していた。

 妙な雰囲気の村人たちを押し分けて、村長が姿を現した。騒ぎを聞きつけて急行したのだろう。険しい顔つきでこの場の様子を確認してから、静かな声で告げる。

「二人ともうちまで来な」

 ハレルは、手提げ袋に噛みついている狼を抱き上げ、踵を返そうとした――そのとき、不自然に鼻を鳴らし、顔をしかめた。

「……ハーマンとブレンダ、アンタたちもだ」

「なにを言ってるんだぁ? ワタシたちはただの被害者――」

「いいから来な」

 ブレンダが反論しようとするも、ハレルはそれを一蹴した。

 

 

「さて、ハーマンとブレンダに訊きたいのはひとつだけだよ。答えたら帰っていい」

 屋敷の二階にある、外には声が漏れないよう造られているプライベートルーム。ハレルはベッドに腰かけ、厳格な態度で話しはじめた。

 室内には、騒ぎに関わった四人と一匹が押し込められている。

「アンタたち……歴とした人間かい?」

 なんて馬鹿馬鹿しい質問だろう。常人ならば笑い飛ばして終わり。

 しかし、夫妻は驚いたように息を呑んだ。動揺を隠し切れていない。

「ランド、どうだい? この二人の中に、なにか見えないかい?」

 涙の跡の残る顔を上げたランドは、ブレンダを凝視し、

「そっちの女だけだ。人間だけど、人間じゃねぇモノも見える」

「どんなカタチか、言葉にできるかい?」

「……毛と、でかいクチバシがある。見たことねぇから、よく分からん」

 目を丸くするブレンダ。そんな妻の肩を抱き寄せながら、ハーマンが観念した様子で語りはじめた。

「カモノハシだ。三十二年前、前村長のチャールズ・ハレルさんに拾われてね……」

 ハレルはあらかじめ用意していた動物図鑑でカモノハシの詳細を確認し――重々しく息を吐いた。

「毒があるね」

「ま、待ってくれ! 『名残』のことならチャールズさんから聞いているが、そんな兆候はなかったはずだ。三十年以上もなにもなかったんだぞ? それに、メスが毒を持つのは生後から短い間だけだ」

「あたしにだって分からないよ。でもね、これだけは確かだ。――井戸に混入した毒と、ジタが犯人になってた事件の毒、そして今日、アンタたちが持ってた食材に付着してた毒、どれも同じニオイがする」

 ハレルは、夫妻にジャガイモを手渡した。狼が噛み付いた手提げ鞄に入っていた食材のひとつだ。

「ニオイって……土の匂いしかしないぞ」

 ハーマンはジャガイモに鼻を寄せている。

「あたしも同類なんだ。チャールズの飼い猫だった『ミス・ハレル』が、今の村長『ハレル・ハレル』さ」

 戸惑うハーマンを他所に、今度はブレンダがどこか納得したようにうなずいた。

「いち早く井戸の毒に気づいたのは、ハレルだったなぁ」

「そういうことさ。それで、心当たりは――」

 ブレンダが体調を崩していた時期と、毒に関する事件が起こった時期が一致する。それが、すべての答えだった。

 

 

 解放されたランドたちは、屋敷の前で夫妻と別れた。

「……なにがどうなったんだ?」

 ランドは左腕にヒアシレィズを座らせて抱え上げた。目線を同じ高さに調節すると、説明を求めるように困り顔を浮かべる。

「ジタは悪くない。悪くなかった」

「そうか」

「うん」

 二人はそれで会話を打ち切る。

 『本当にすまなかった。また働きにきてほしい。ずっと待っている。共に過ごした一週間、娘ができたようで嬉しかったんだ』。――あの場にいなかったジタへ向けて、ハーマンが残したメッセージだ。

 込められた思いはジタに伝わったのか、そもそも人間の言葉が理解できているのか、当人にしか分からない。

 ただ、狼は夫婦の後ろ姿が見えなくなるまで目を離さなかった。

 レストランについては、『ブレンダが体調不良のときは店を閉める』と様子を見ることとなった。

「おれはアイツらが大嫌いだ。……けどよ、自分の群れを守ろうとする気持ちは分からんでもない。要は、そういうことだったんだろ」

 もしも毒を盛った犯人がいたとしたならば、ジタ、ハーマン、ブレンダの三人しかいない状況だった。

 夫はジタより妻を信じ、妻はジタより夫を信じた。それだけのことだったのだ。

 気落ちしながらも寄り添って歩いていく夫婦を見てなにかを感じ取ったのか、ランドは狼とヒアシレィズを腕の中に迎え入れる。そして、一匹と一人を交互に見つめ、

「おれは群れを持ったことがねぇから、なにをどうすればいいのか分からん。ジタとピアが群れの一員かどうかも分からん。でもよ、おれが死ぬまでは守ってやるからな。今度は……絶対に守り切ってみせる」

 今のランドは獅子ではない。頭で考えずに、本能に従って行動していた頃とはなにもかもが違う。

 他者から群れを奪い取る。群れの中にいる他者の子を殺す。自分の子を成す。狩りは雌に任せて群れを守る。

 そういった獅子の生態は、人間の知識から得たものだ。実際に経験したものといえば、他者から群れを奪い取る、くらいのものだろう。それも、すべて失敗に終わっているが。

 群れを奪ったあとになにをすればいいのか、もう本能は教えてくれないのだ。

 だから、ランドには分からない。

「群れじゃない。人間だから、家族」

「そうか、人間は家族っていうんだったな」

「うん」

 どうすればいいのか、ランドには分からない。

 だが、確かに求めているのだ。このどうしようもなく寂しがり屋な大男は、自分の傍に居てくれる者を。

「なあ、ピア。どうやったら家族をつくれるんだ?」

 その質問を聞いた瞬間、ヒアシレィズは目を輝かせてランドに抱きついた。太い首に腕を回し、きつく締めつける。

「お嫁さんを見つける」

「ジタはおれの嫁になってくれるかね」

「ぼくは?」

「ん、ピアは大人にならねぇとな」

「大人になったら、いい?」

「ああ」

「お嫁さんになれるのが一人だけでも?」

「一人しか駄目なのか?」

「だめ。ジタかぼく、どっちか一人」

「それは困ったな」

「困ってない」

「困ってないのか?」

「うん」

「……そうだな。困ってないのかもしれん。おれは、ジタがいい」

「ジタとぼく、どう違う?」

「なんて言うんだろうな……。ピアは抱きしめたくて、ジタは噛みたいって感じかね」

「ジタは噛まれたかった」

「すごく嫌がるぞ。触るとすぐに怒るしよぅ」

「嫌がってない。怒ってない。照れてるだけ。いっぱい触ってほしい」

「なら、いっぱい触ってやらねぇとな」

「狼のときに触ってほしいんじゃない。それに、狼のままじゃ家族になれない」

「……それは困ったな」

 他人の力を借りなければ自分の中の気持ちにさえ気づけない男。それがランドという獅子であり、人間だ。

 そして、獅子だった頃から常に、誰かに傍に居てほしいと願っている。

「ジタよぅ、おれは獅子には戻りたくねぇんだ。だから、お前が人間に戻ってくれ。それでよ、家族になってくれねぇか? ――おれは、お前がいい」

 このとき、ランドは人間としての一歩を踏み出した。

 それは、本当に、本当に小さな一歩。

 それでも、ジタが切望していた一歩。

 

 事件の真相が明らかになり、ジタへの疑いは晴れた。そのせいか以前にも増して水の注文が入るようになり、ランドとヒアシレィズはあまりの忙しさに目を回している。

 ジタは狼のまま、人語を操ることはなかった。ただ、小さな変化があった。ランドに付かず離れずだったのが、今では自分の意思で村へ出歩くようになったのだ。

 その変化は、人間に戻るためのリハビリなのか、それとも二人の元を去る前兆なのか。

 二人はジタを信じて待ち続けた。

「ジタよぅ、店番はお前の仕事だぞ」

 悲しみに暮れていた大男はもういない。待ち人が戻るという確信を胸に抱き、平凡ながらも満ち足りた日々を過ごしている。

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