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二人(3)

2‐3.

 

 ランドとジタが人間になって初めて雨が降った。

 扱う品物の関係で、仕事は臨時休業。そのむねはあらかじめ客に伝えてあるので気兼ねはない。

 予期せぬ休暇を得た三人は、朝からくつろいだ時間を送っていた。

 休日というものを経験したことがなかったランドとジタは、空いた時間をどう使えばいいのか分からず、キングサイズのベッドに寝転んでいる。ヒアシレィズも一緒で、三人で『川』の字を作っていた。

 ベッド横の窓を開け放ち、昔の記憶に思いを馳せる。

 そぼ降る雨。一定のリズムを刻む水滴。そよ風に運ばれてくる土の匂い。

 元々人間でなかった三人は、ことさらに強く自然を感じる。

「なんか。これ。いいな」

 ランドはベッドに収まり切らない足をもぞもぞと動かした。

「そうだな。休みというものが、こんなにも心地好いものだとは知らなかった。たまには雨も悪くない」

「雨、好き」

「ピアは水と生きてきたのだったな。水中を泳ぐというのは、どんな気分なのだ?」

 ヒアシレィズは窓枠に切り取られている暗い空を見つめ、

「歩く気分」

 と微かに声を弾ませた。

「そうか、歩く気分か」

「うん」

「おれにはよく分からん」

「私にはよく分かるぞ。呼吸をするように自然な感じということだろう。な、ピア?」

「違う」

「…………」

「……ジタよぅ」

「少しでも良心というものがあるのなら、それ以上は言ってくれるな……。悪い癖だとは自覚しているのだ」

 特別なことはなにもない。

 取り留めのない話をして、食事を摂って、再び他愛もない雑談に興じる。そんな退屈な一日。

 それでも、三人にとっては何物にも代えがたい時間だった。

 

     *

 

 水の需要が増えるまで仕事はなくなってしまったが、この一ヶ月間で多少の蓄えは用意できていたので、存分に気を休められるのだった。

 とは言えど、なにもせずに呆けているわけにもいかない。天気は気まぐれで、再び雨が降る可能性は充分にある。村人には恵みの雨でも、水を運んで生計を立てている二人にとっては大問題なのだ。

「この期に雇用先を探してみようと思うのだが、どうだろうか?」

 ジタはダイニングテーブル越しに二人に視線を送る。

 商売が順調だったため言い出しにくかったが、最も重要なものがなにかを考えた末、この結論に行き着いた。

 二人で人間として暮らしていく。これが大切なのだ。

 以前、ハレルの元を訪れたときに様々な情報を得た。

 今の商売は、いずれ廃業しなければならない。なぜなら、ライフラインの確保は村人が最優先して解決する問題なのだから。

 水路計画の頓挫からひと月、代案はすでに実行に移されている。加えて、まだまだ時間はかかるが井戸水が正常化する見とおしも立っているようだ。

 次の仕事の目処をつけておくようハレルから釘を刺されたこともあり、この休みを利用して雇い手を見つけようとしていた。

 一ヶ月間、人々と交流し、それなりの信頼関係を築いてきた。事実、ランドとジタの知名度は上がってきている。雇い主に警戒されることもないはずだ。

「反対だろうか?」

 ジタは押し黙っているランドに再び意見を求める。

「今の商売はどうすんだ」

「無論、続ける。ただ――」


「――というわけなのだ」

 置かれている状況の説明を受けると、ランドは腕を組み、深くうつむいてテーブルを睨んだ。小さなうなり声を漏らしたあと、承諾したように顔を上げる。

「ジタが言うなら、そうなんだろ。なかなか楽しい仕事だったけどよ、残念だ」

「水路に代わる計画を実行に移すとはいっても、まだ猶予はあるだろう。それまでは仕事を続けられるし、ピアとも一緒に居られる」

「ピアは屋敷に戻るのか……。そうか、そうだよな、あっちがお前の家だもんなぁ」

 ランドは隣のヒアシレィズを抱き寄せ、繊細な髪に無精ひげを押しつける。

「ここも好き」

「じゃあ、ここで三人一緒に暮らすか」

 ヒアシレィズはランドの腕の中から確認を取るようにジタへ視線を送る。

 ジタは優しい眼差しで見つめ返し、しっかりとうなずいた。

「暮らす。でも、ハレルも心配」

「よし、そいつに会いに行くぞ! 誰だか知らねぇけどよ、頼めば許してくれるかもしれん」

 ランドは間髪入れずに行動に移る。ヒアシレィズの背中に手を回してを抱え上げ、慌ただしい足音を残して家から飛び出した。

 屋外からジタを呼ぶ声が聞こえてくる。

 ハレルさんのことをまた忘れたのか、と注意しようと考えたジタだったが、いくら口で説明しても無駄だと悟り、小さなため息を吐きつつ二人を追った。

 

「ピアをくれ」

 あまりにも突然のことにハレルは目を瞬かせた。そのまま呆気に取られたように微動もしなかったが、息咳巻いて部屋に入ってきたジタを見て、なんとか我を取り戻したようだ。持っていた書類を机に置き、口元に笑みを浮かべる。

「たったの一ヶ月で、大きくなるもんだね。――いいよ、ヒアシレィズの好きにしな。自分の人生だからね」

 頭の回転が速いハレルは、瞬時に状況を把握したらしい。傍らに寄ってきたヒアシレィズと見つめ合い、猫のように目を細めた。

「本当にいいのだろうか……?」

 トントン拍子で進んでいく展開になかなか口を挟めずにいたジタだったが、なんとか間に入ることができた。

「実を言うとさ、井戸の事件があってからというもの、忙しくてほとんど会話ができなかったんだ。そんなところに、同族が現れた。これこそ天命だと感じたよ。――それにね、このコはまだまだ小さいけど、子供じゃない。自分で決めたことなら、あたしは全力で応援するよ」

 ハレルは椅子からおりて屈み込むと、ヒアシレィズの前髪をかき上げて額に口づけた。

「ずっと、友達を欲しがってたもんね」

 優しくささやき、小さな体を潰してしまいそうなほど強く抱きしめる。

 そんな二人の姿に胸を打たれたジタは名案をひらめいたとばかりに、ポン、と胸の前で手を叩いた。

「提案があるのだ。水運びを休業している間、ピアはハレルさんのところに居てはどうだろう。一ヶ月も離れていたのだから、積もる話もあるのではないか?」

 ジタとは対照的にハレルは顔を曇らせる。ヒアシレィズに暗い表情を見られないようにするあたり、その聡明さがうかがえる。

「そりゃあ山ほどあるけどさ、色々と込み入っててね……」

 村が窮地にある今、長は多忙で、ゆっくり語らう時間を取れそうにない。

「あ……、すまなかった。余計なことを言ってしまったようだ」

 ジタは自身の人間としての思慮の浅さを嘆いた。

 自由な時間がないからこそ大切な家族を預けようとしているのに、この提案はいくらなんでも考えが足りなかった。さらには、面と向かって『一緒に居られない』と告げなければならない状況を作り出してしまったのだ。

「いや、ありがとう、ジタ。やっぱりヒアシレィズを借りるよ。このコに捨てられたら、あたしは生きていけないからね」

 ハレルは冗談めかして肩をすくめると、ヒアシレィズの両頬を指で掴み、ニッと微笑んだ。

 責務を果たすために断ろうとしたものの、ヒアシレィズの寂しそうな表情を見て考えを改めたようだ。傍目には無表情に映る顔も、長い時間を共に過ごしてきたハレルにとってはガラスの仮面だ。簡単に感情を読み取ることができる。

「借りられる」

 淡々と返事をするヒアシレィズの様子も、ハレルの目には満面の笑みを浮かべているようにしか映らないようだった。

 

 

 屋敷を出た二人は、歩き慣れたメインストリートにいた。

「見ていて微笑ましい、いい関係だったな」

「よくよく考えてみると、おれからジタを取り上げるようなもんだったのかね……」

 ハレルに申し訳なく思ったらしく、ランドは気落ちしたように背中を丸めている。後ろ髪を引かれるのか、時折、屋敷を振り返る。

「いや、二人は親子のような関係なのだろう。ハレルさんは、ピアが独り立ちしようと決意したことを喜んでいたのだと思う。だから、私たちの関係とは違うと……」

 言いながら、ジタは考え込んでしまった。どんな関係なのだ、と。

「おれたちの関係か」

 ランドはくつくつと笑い始める。

「な、なにがおかしいのだ」

「つくづく変な関係だと思ってよ。『いつ出会ったんだ』って訊かれたら、『動物の体とき』って答えるんだぞ? いくらなんでも怪しすぎだろ」

 さらに笑いを大きくして、ジタの背中をポンポンと叩いた。

 獅子と狼が一緒に生活していたなどと、誰が信じるというのだろう。変外へんげした同族でさえも、耳を疑うに違いない。

 いくら人間と同等の知能を持っていたからといって、他種族であった二匹の肉食獣が仲睦まじく暮らしていけるはずはない。なぜなら、意思を疎通させる前に互いを避けてしまうからだ。

 賢くなればなるほど危険な敵には近寄らなくなるし、争いもしなくなる。もし仮に気性が荒ければ、隙を突いて殺して終わりなのだ。

 そんな中、ランドとジタは言葉を交わした。これがどれほど稀有なことであったか。

「変だろうか……」

「頭のよくないおれにも分かるほどな」

 ジタは歩く速度を緩め、「そうか」と少し残念そうに同意した。

 ランドにその気はなかったのだろうが、話の方向は微かに外れ、望んでいた答えは出てこなかった。欲しい言葉があったはずなのに、曖昧になったことで安心してしまう。

 情けない、と自覚しつつも、その先へ踏み出せなかった。

「では、ここからは別行動で仕事を探そう」

 ジタは気を取り直すように背筋を伸ばし、賑わっている市場を見据える。

 昼食時が迫っているせいか、行き交う人々も忙しそうだ。

「なんでだ。一緒に探せばいいじゃねぇか」

「私たちは求める職が違いすぎるのだ。私に力仕事は向いていないし、ランドは細かい仕事が苦手だろう?」

「そりゃそうだ。適当に歩き回ってみるかね」

 説明を聞いて納得したランドは、メインストリートの中央を闊歩していった。

 人ごみの中にいても頭が飛び出しているため、行動の始終は筒抜けだ。今は、緩慢な動きで屋台を物色している。

「夕食探しではないのだが……」

 ジタはその場に直立したまま心配そうな瞳を向けていたのだった。

 ランドの姿が見えなくなった頃、ポケットからおもむろに白い紙を取り出した。この村にある店の名が汚い文字で書き込まれている。

 あらかじめ用意しておいたリストで、自分がやりたい仕事、自分に出来そうな仕事、と分割されている。

 しばらくリストと睨み合ったあと、意を決してうなずいたジタは、強い足取りで歩き始めた。

 目指すは、ハーマンとブレンダが経営している村一番の人気料理店だ。

 この村で唯一、露店ではなく建物の中で営業している食事処『ダウン・アンダー』。ゆったりとくつろげることもあり、これだけ小さな村であるにもかかわらず朝から晩まで客が途絶えない。

 水を大量に使う商売なため、ジタたちのお得意様でもある。

 自分の手には余る仕事、と少しばかり気後れしているジタだったが、最もやりたい仕事でもあったので玉砕覚悟で挑もうとしていた。

 料理が好きだからという理由と、ランドのために美味しい食事のレシピを覚えるという、よこしまなのか純情なのか分からない動機もある。

 ジタは高鳴る胸を押さえながら、店の扉を押し開いた。

 

 

「メシでも拾ったか?」

 ランドが声をかけると、

「なぜそうなるのだっ」

 鼻歌まじりに軽快に鍋を振っていたジタは、スカートを躍らせて振り返った。初対面の人間でも上機嫌であることが分かりそうなほど声を弾ませている。

「なら、カネでも拾ったのか」

「ち、違う!」

 否定しつつも笑みをこぼすジタ。

 そのおかしな反応を楽しむように、ランドはくつくつと喉を鳴らした。

 そして、テーブルの上で指を踊らせ始める。人差し指と中指のダンサーは、卓上を縦横無尽に走り回っていく。野太い足《ヽ》が刻むリズムは、ジタの鼻歌の続きだ。

「……ランドよ、わざとやっているのか」

 違和感を覚えたジタは鍋を火の脇に置き、じりじりと詰め寄っていく。

「わざとやってるかもな」

 ジタが不機嫌さを露骨に顔に出したが、ランドはそれが上辺だけであることを一瞬で見破ったようだ。すぐ傍まで近寄ってきたジタを捕まえると、天井に届きそうなほど高く抱え上げて回転しはじめた。

「なっ? お、お前はまた。こらっ、目が回ってしまう」

 弧を描いていた白い足がバタバタと暴れると、ランドは静止し、鼻が触れ合いそうなほど顔を近づけた。

「仕事が見つかったんだろ。よかったな」

 子供扱いされることが嫌で足を振り回していたジタだったが、極上の笑顔を向けられて大人しくなった。

「ああ、よかった。だから、ランドはじっくりと自分に合う仕事を選んでくれ。いつかの恩は忘れていない。三人分の食い扶持くらい、稼いでみせる」

「人間になっても律儀なやつだな」

 ジタは、呆れ顔のランドをじっと見つめ、ほのかに頬を赤らめる。

「それは、ランドが人間になってもランドだったからだ」

 意味深な物言いに、ランドは首をかしげた。

 そんな様子を見てやわらかい笑みを浮かべたジタは、細い指を櫛の代わりにして乱れたランドの髪を整えていく。猫のように目を細める大男をもう少し見つめていたい、という欲望に心を引かれながらも、ポン、と頭を叩いて終了の合図を送る。

「下ろしてくれないと夕飯が作れない。抜きでいいのなら、止めはしないが」

「おれを殺す気か」

 ランドはこれ以上ないくらいに素早く料理長をキッチンに運び、ついでに鍋の中を覗き見た。

 鍋には、キツネ色のげをまとった鶏肉。まな板には、みじん切りにされた玉ねぎが用意されている。

 この先の姿を妄想したのか、物欲しそうに舌なめずりをした。つまみ食いをしないところを見ると、幾度となく注意されて学習したらしい。

「どうだ、一緒に料理をしてみないか。ピアがいなくて退屈だろう?」

「おれが手伝ったら、完成する前に材料がなくなっちまうぞ。そうなると、お前が作った料理が食えなくなって困る。それによぅ――」

 ランドは照れくさそうに鼻の頭をかきながらキッチンから離れる。

「お前が料理してる姿を見てるのが好きなんだ。ちっとも退屈じゃねぇよ。こう、なんて言えばいいんだろうな……どうにも気持ちよくなる。だから、あそこがおれの特等席ってわけさ」

 そのままダイニングテーブルを回り込んで定位置へ移動し、座り慣れた椅子にどっかりと腰を下ろした。

「そ、そうなのかっ」

 不自然に声を高くしたジタはぎこちない動きで料理を再開する。

 湯気が立ちのぼりそうなほどジタは赤面していたのだが、幸か不幸かその事実は誰にも知られることはなかった。

 この日の夕食は、大食漢のランドが驚くほど豪華だった。

 

     *

 

「よろしくお願いします」

 ジタは商売の経験から手に入れた接客用の笑顔を作り、丁寧に挨拶をした。白のワンピーススカートの上には、店名が刺繍された空色のエプロンが着けられている。

 雇用先は、レストラン『ダウン・アンダー』。

 昨日、一軒目で仕事にありついたジタは、日が傾くまで店を見学していたのだった。物覚えがいいので、だいたいの流れは頭に叩き込んである。

「はい、こちらこそよろしく頼むよ。まだ慣れてないだろうから、初めのうちは皿洗いでいいかね? 給料は安くなっちまうが」

 店のマスター――ハーマンは、しわの多い顔にさらにしわを寄せ、人好きのする笑みを浮かべる。

「はい、構いません」

 案内されて厨房へ入ると、ジタはわずかに表情を固くした。客席から厨房を眺めているのと、厨房から客席を意識するのとでは、まるで感覚が違うのだ。雇われ仕事が初めてであることと心配性であることが相まって、体がガチガチになってしまう。

「もっと肩の力を抜きなぁ」

 そんな様子を見て、ハーマンの妻――ブレンダが優しく声をかけた。彼女は、注文を一人でさばくベテラン料理人だ。

「は、はい」

 ジタは気を落ち着かせ、視界を広くするように背筋を張って開店前の食堂を見渡した。

 正面だけでなく左右も路地という、この村ではめずらしい立地条件のため、日当たりが格別に良い。上階に届きそうなほど大きい窓からの採光はダイナミックで、ある種の神聖さすら感じる。古い建物なのでさすがに床の染みは目立つが、綺麗に磨かれていて清潔感はある店だ。

 村で一番人気がある食堂で来客数も多いのだが、客席の数はカウンターが八、六人用テーブルが二、と店自体は広くない。しかし、総人口が五百程度の小村にありながら、満席になることもしばしばだ。

「最初だけれど、重要な仕事をお願いしようかな」

 ハーマンの重々しい口調を聞き、ジタは思わずエプロンの裾を強く握り締めた。緊張のあまり、はい、という声がかすれてしまったため、代わりにうなずいて応える。

「では、開店札を表に立ててきてもらえるかね?」

 もっと大変な仕事を与えられるとばかり思い込んでいたジタは、拍子抜けしてしまう。

「どうしたね。さっきも言ったとおり、とても大切な仕事なのだよ」

「はい!」

 今度はしっかりと返事をして、即座に行動に移った。腰ほどの背の開店札を持ち上げ、小走りで店の出入り口をくぐる。

 開放している扉の横に札を置き、ジタは店を眺めた。味のある古木で造られたログハウスに、主張しすぎないシックなデザインの看板、と親しみやすさに溢れている。

 朗らかに微笑んだジタは、澄み渡った空を見上げて目を閉じた。

 日の光を体中に受けて深呼吸をする。

 ――いよいよだ。

 赤らんだ頬を一筋の涙が伝い落ちる。

 ここから新しい一歩を踏み出せることが、たまらなく嬉しかったのだ。

 水運びの仕事は独立性が高すぎたため、人間たちの中で人間として生きている、という実感は薄かった。だからこそなのだろう。この瞬間が、とても大切なもののように思えるのは。

 やっとスタートラインに立てた。まだまだ一人前《ヽヽヽ》だなんて呼べないけれど、それでもこの一歩は、確かに望んだ方向に踏み出せている。

 ――私は、変わる。

 ジタはエプロンで涙を拭い、軽い足音を残して店内に駆け込んでいった。

 

     *

 

「もう分かったから、メシを食え」

 ランドは呆れ顔で、よく開くジタの口に冷めた料理を押し込んだ。

 しかし、再三の注意も無駄に終る。

「いいから聞くのだ!」

 ジタは喉に詰まりそうなほど急いで川魚のつみれを飲み込むと、夕食には手をつけず、饒舌にレストランでの出来事を語っていく。

 これ以上ないくらい、ジタは浮かれていたのだ。

 はあ、とランドがこれ見よがしに大きなため息を吐くが、そんなことはおかまいなし。トークショウはかれこれ二時間も続いているが、一向に話が終わる気配はない。

 ハーマンとブレンダはオーストラリア出身だとか、店名の『ダウン・アンダー』は祖国のことを指しているだとか、駆け落ち同然で村にやって来ただとか、残念なことに子供は授からなかっただとか、話の種は尽きそうない。まだまだ序の口だと言わんばかりに、飼い犬のことにまで話題は広がっていた。

 もう閉口するしかないランドだったが、子供のようにはしゃぐジタを見つめているうちに、

「その犬、美味そうだったか?」

 次第に話に引き込まれていった。

 

     *

 

「ん……」

 朝――ジタは呆けた声を漏らしてまぶたを開けた。鼻先が触れそうなほど近くにあるランドの顔に驚き、悲鳴を上げそうになる。

 なんとか声を出さずに済んだものの、自分が置かれている状況を把握するにつれ、心臓の鼓動が早くなっていく。

 眠っているランドにきつく抱きしめられており、身動きが取れなかったのだ。

 ランドの怪力と重量、そしてジタの『しばらく、このままでもいい』という本音が、脱出不能の頑強な檻となっていた。

 頬を朱に染め、体を強張らせながらも、接近している寝顔から目を離すことはない。感情の蓄積とともに高くなっていく体温を感じつつ、れったいくらいにゆっくり、ゆっくり、唇と唇を近づける――

「い、いいいいつからそこに居たのだっ!」

 ――と、顔を上げた折に、ベッド横の椅子に座っている女の子が目に入った。

 ジタは太い腕を力任せに解き、勢いよく起き上がる。まるで浮気現場でも見つかったかのような不自然な動きで髪を整えていく。

「ずっと」

 ヒアシレィズは慌てふためくジタをぼんやりと眺めながら小さくうなずいた。

「ということは、まさか……」

「ずっと」

 と繰り返す。

「な、なにか見たのか?」

 不動のまま熟考したヒアシレィズが、

「ランドに――」

 言いかけると、話し声に反応したランドが身じろぎをした。

「ん……ピアの声がするな……」

 同時に、ジタが驚異的な俊敏性を発揮する。寝惚け眼をこすっているランドを跳び越え、一回転して床に着地、鋭い動きでヒアシレィズの背後に回り込み、殺し屋のように手際よく口を塞いだ。

 そして、得も言わせぬ迫力がこもった声で口早に、

「今ここで見たことは絶対に他言しないことを奨める。理解できるか? できなければ、誰かの食事にあるモノが混入するだろう。ひどく曖昧なことを言えば、ゴで始まり、キを過ぎ、ブを経て、リに至るもののような気がしないでもない。誰の食事に入っているかは神のみぞ知るというやつだ。無論、私は神ではないので知る由もない。いいか、これは頼みではないし命令でもない。あくまで、自主的に隠匿したほうがいい、というアドバイスにすぎない。間違っても、『脅し』などという粗暴なものではないのだ」

 マイペースなヒアシレィズも、このときばかりはキツツキのように首を振った。

 それをしっかりと確認したジタは、ベッドの下をゴロゴロと転がっていく。

「よぅ、ピア。元気だったか」

 大きな欠伸をしながらむくりと起き上がったランドは、脇にいたヒアシレィズを椅子ごと持ち上げてベッドに乗せた。相変わらず無表情な顔を見上げ、白い歯を出して笑みを浮かべる。

「元気。たぶん」

 額にうっすらと汗を浮かべたヒアシレィズは、椅子に座ったままコクリとうなずくと、黒いパンツのポケットからメモ用紙を取り出した。

「これ、預かった」

 ランドは四つ折りにされた紙を受け取ると、中も確認せずにそのまま横に渡す。

 いつの間にかベッドの右端に戻っていたジタは、何事もなかったように回されてきたメモを受け取った。

「あー……ほら、屋敷からだってよ」

「ハレルさんから、だ」

 世話になったのだから名前くらいは覚えるべきだ、と思いつつも、同時にそれが困難であることも理解しているのでひと言で済ませる。

「その服、作ったのか? 変わってるな」

 衣服の所々に綿ぼこりがくっつき、白一色だったワンピースには灰色のまだら模様が描かれていた。普段から几帳面に手入れしているだけに、汚れが余計に目立ってしまう。

「こ、これはその……寝相が悪くてベッドから落ちてしまったのだ。そんなことより、問題はこちらだ!」

 ジタは赤面しながら服についたほこりを払い、話をそらそうと折りたたまれているメモ用紙を大げさな動きで開いた。

 水運びの依頼書だ。四人の名前と、必要な量が書き込まれている。

「そろそろ水が足りなくなる家庭が出てくるのだな」

 レストランでの仕事に歓びを覚えたばかりのジタは、嬉しいような残念なような、複雑な気持ちでつぶやいた。

 すると、その心境を見透かしたかのように、ヒアシレィズが手紙を差し出した。

「ジタは、こっち。ハーマンから」

「これは……」

 内容を確認した途端、ジタは顔をしかめた。すぐさまベッドから飛び降り、身なりを整えはじめる。

 手紙には、ハーマンからの『お願い』が丁寧にしたためられていた。

 今すぐ手伝いにきてほしい、とのことだ。ブレンダが体調を崩してしまったのだ。とはいっても、店を閉めるほど酷い症状ではないらしいので、少しでも妻の負担を軽くするために手を借りたいそうだ。

 先日の雑談から得た情報によると――二ヶ月前にも同じように体調不良になったとのことだ。そのときは一週間も店を閉めたという。三十年以上も二人だけで店を支えてきた夫婦だったが、その一件が起因となり、ジタを雇おうと考えたのだそうだ。

 ――ここで力にならずして、いつ雇ってくれた恩を返すというのだ。

 ジタはろくに身支度もせず、いそいそと家から飛び出した。

 

 丁度この日が重大な事件の引き金になることを、ふたりが知る由はなかった。

 

     *

 

 翌日も翌々日もブレンダの体調が戻らず、ランドとヒアシレィズは水運び、ジタはレストラン、と別行動。一緒に居る時間は大幅に減ってしまったが、それでも三人は今までと変わりない暮らしを送っていた。

 午前中で水運びの仕事を終えたランドとヒアシレィズは、店で客を待ちながらも暇を持て余していた。

 休憩中に入った注文数は三件。すぐに届けてもいいのだが、なぜかやる気が起きないランドは、じっと店番をしていたのだった。

 二人は今、芝生の上に寝転んでいた。通行人からすれば、日向ぼっこをしているようにしか見えないだろう。

「お腹、減った?」

「減ったな」

 以前はジタお手製の弁当があったが、ここ数日は『すまないが、露店で買ってもらえるか』と一ドル札を渡されている。レストランの仕事が早朝から入っており、料理をする時間がなかったのだ。

「食べる」

 気の抜けたランドを見兼ねたのか、ヒアシレィズは無理矢理に大きな手を引いてメインストリートを歩き始めた。

 ヒアシレィズが他人を引っ張っていくという光景を目の当たりにした村人が、幽霊でも見たような顔で次々と足を止めていく。

 向かった先は、ジタが働くレストランだった。

 開放されている出入り口をくぐると、エプロン姿の愛らしいウエイトレスが駆け寄ってきた。

「いらっしゃ……」

 二人が来客するとは思ってもなかったのか、店員――ジタは口を開けたまま硬直する。

「よぅ」

 ランドは背中を丸め、気恥ずかしそうに片手を上げて挨拶をする。

「な、なにをしにきたのだ」

 ジタはお品書きで口を隠し、戸惑った様子でささやいた。

「食べる」

「そうか、昼食だったのか。つまり、客なのだな」

 コホンと小さく咳払いをしたジタは、

「いらっしゃいませ」

 接客用ではない自然な笑顔で二人を席へ案内する。そして、そのまま店員として注文を取り、厨房へと戻っていった。

 ジタは丁寧な口調で料理長にオーダーを伝えている。行動はきびきびしていて、仕事を始めてから間もないとは、とても思えなかった。

「安心?」

 ヒアシレィズは、向かいに座っているランドの服の袖を引っ張る。

「……どうだろうな、よく分からん。けど、頑張ってるみたいでなによりだ」

 ランドは働き者のウエイトレスを観察しながら寂しそうに微笑んだ。

「そう」

 意図していた結果と違ったのか、ヒアシレィズは小さく肩を落とす。

 会話が途絶えたところで、手持ち無沙汰な様子のハーマンがやってきた。二人が注文していない料理をテーブルに置き、これはサービスだよ、としわを寄せて微笑んだ。

「すまないね。ここのところジタを借りっぱなしで……。いやはや、本当によく働くコだよ。妻だけでなく、僕の仕事まで減ってしまってね。君たちには言い表せないくらい感謝しているんだ」

 真摯に礼を述べられるも、ランドは我関せず。ハーマンへの対応をヒアシレィズに任せ、店内をしげしげと観察している。

 嬉々としてレストランのことを話していたとき以上に、ジタは楽しそうだった。わずか数日で顔馴染の客までできたらしく、料理を運びながら軽い冗談まで言い合っている。

 他の客と談笑する姿を見る度、ランドの顔が歪んでいく。ジタが遠くに行ってしまったことを思い知らされ、哀愁を感じずにはいられなかった。

 そんな心を察したのか、食事が終わるとすぐにヒアシレィズが、

「帰る?」

 と切り出す。

 しかし、ランドは首を縦には振らず、丁寧に仕事をこなしていくジタをずっと見つめていた。

 最初は鋭い目を客に向けていたが、時が経つにつれて頬がゆるんでいく。一時間後には、その顔はニヤニヤと意味深な笑みを浮かべるだけのものになっていた。

「……なあ、ピア。ジタは嬉しそうだよな?」

「うん」

 再確認するように強くうなずいたランドは、正面に腰かけているヒアシレィズの頭を撫でながら立ち上がる。

「戻るか。仕事しないとな」

 うなずき返したヒアシレィズは、大きな手から伝わってくる熱にあてられたように穏やかに目を閉じた。

 それは、小さなサイン。互いに確認したわけではないため曖昧で、しかし二人の間では明確な、触れ合いの合図。

 ランドは呼吸でもするかのように自然な動きで小さな体を抱き上げた。

「帰るのか。ブレンダさんの料理は美味しかっただろう? 体調が戻れば、もっと繊細な味を楽しめるのだが……。いつか、家でも食べられるようにしてみせるから、期待していてくれ」

 触れ合いの合図を知っているのは二人だけではない。そのもう一人――様子を見ていたジタは、客には向けない柔らかい微笑みで二人を見送る。

「どうかね……。おれには、お前の弁当のほうが合うみたいだ」

 遠ざかっていく大きな背中を見つめながら、ジタは頬がゆるむのを抑えられないまま、

「お前は大馬鹿者だ」

 優しく罵った。

 

     *

 

 レストランで働き始めてから一週間。要領のいいジタは、与えられた役割以上の仕事をほぼ完璧にこなしていた――はずだった。

 浮かれ気分で店に顔を出した途端、その表情は一瞬にして凍りついた。なんの心構えもないまま、それは、突然に起こった。

「なぜですか……。理由があるのなら言って下さい」

 飼い犬の散歩を引き受けるほど夫妻との親交は深まっていたにもかかわらず、前触れもなく解雇を通告されたのだ。

 ジタは困惑しながらも雇い主に食い下がる。

「二度と来るなッ!」

 ハーマンの怒声が窓ガラスを揺らす。

 背筋を震わせたジタだったが、目を伏せながらもその場から動かない。

「早く出て行け」

 素っ気なく言い捨てたハーマンはテーブルを丁寧に拭き始めた。

「……ハーマンさんがそう言うのなら、雇われの身である私は従うしかありません。ですが、せめて理由だけでも教えて下さい。至らないところは多かったかもしれませんが、精一杯やってきたつもりです。原因も知らずに終わりだなんて、あまりに理不尽です」

 水運び以外の仕事は未経験であることは包み隠さず伝えてあった。それを承知で夫妻はジタを雇い、慣れるまで多少のミスは大目に見るとまで言ってくれたのだ。

 ――なにか致命的な失敗をしたのかもしれない。

 ジタは必死で記憶の糸をたどるが、それらしいことは思い当たらなかった。頭に浮かぶミスといえば、昨日に限っては皿を一枚割ったくらいだ。

 初日はもっと大きなミスもあったが、それが原因ならば二日目にクビを言い渡せばいい。今日になって突然とは、不自然すぎる。

 行き着いた結論は――自分には分からない、だった。人間としての経験が少ないため、知らず知らずのうちに迷惑をかけていたのかもしれない。

 つまるところ、ハーマンかブレンダから聞き出すしかないのだった。

「お願いです。なにか言って下さい」

 無視を決め込んだのか、ハーマンは押し黙ったまま開店準備を進めていく。

 露骨に避けられていることは理解できたが、引き下がるわけにはいかない。店の中央に突っ立ったまま、ジタはひたすらハーマンを見つめていた。

 この店には、たくさんのものがあった。

 ランドとヒアシレィズに美味しい料理を食べてもらいたいという小さな野望。

 夫妻のように家族で一緒に生活の糧を得ていきたいという憧れ。

 そして、本当の意味で人間になる、という最優先の目標。

 この仕事を離れたからといって、それらの思いが失われるわけではない。

 しかし、この店は――ジタにささやかな夢を見させてくれた場所なのだ。去ってしまえば、もう戻らないもの。

「ハーマンさん……」

「賃金が払えなくなっちまったんだよ。分かったら、もう帰ってくれ」

 最後まで目を合わさないままハーマンは嘘を吐いた。子供にすら見破られてしまいそうな嘘。

 故意に誤った返答をされたとき、ジタは彼が口を割らないことを覚った。手に握り締めていたエプロンをカウンターに置き、しぶしぶ店を後にした。

 ――なぜ?

 そんな気持ちが、ずっと消えることはなかった。

 

 

 暇そうに店番をしていたランドが耳を動かした。

「よぅ」

 替われ、と言わんばかり木製の椅子から立ち上がる。

「ピアは配達か」

 ジタは椅子には座らず、店の奥に腰を下ろした。擦り傷のついた足を抱え込み、疲れた様子で膝に顔を埋める。

「いや、屋敷に用があるとか言ってたぞ」

「そうか……」

 ランドは店頭からジタの傍まで移動する――が、くるりと踵を返して戻っていった。ジタが涙を流していることに気づき、隣に座るのを断念したようだ。

「訊かないのか?」

「ああ。悪いけど、おれにはアドバイスなんてできねぇ。それによ、アドバイスできたとしてもしたくねぇ」

「なんなのだ、それは。意地悪ではないか」

 弱々しい声を漏らすジタを横目に見ながら、ランドは真顔でうつむいていた。水がたっぷり詰まったドラム缶に腰を乗せて腕組みしている。

 しばらくして、納得したように、

「これは意地悪なのか……。よし、なら訊くことにするぞ。意地悪は嫌だからな」

 ランドは飛び降りた拍子に倒れそうになるドラム缶を片足で操ってバランスを戻し、大きな歩幅でジタに近寄った。体にかかる負担など気にせず勢いよく腰を落とすと、乾いた土が煙のように舞い上がる。

「で、なにをどう訊けばいいんだ?」

 隣から顔を覗き込もうとするが、

「そんなものは自分で考えるのだ」

 先ほどのやり取りで拗ねていたジタは、ぷい、とそっぽを向いてしまった。

「まいったな……」

 どうしていいものか困り果てたらしく、ランドはぼりぼりと頭を掻いている。

「おれはよ、ジタが他で働くのは嫌なんだ。だけど、お前が楽しそうにしてるのは好きだ。落ち込んでるお前を励ましたら、次の仕事を探しに行っちまうだろ? そうなると、おれは嫌だ。だけど、仕事が見つかって嬉しそうなのは好きだ」

 ランドは頭に浮かんでくる考えを、そのまま口から出しているようだ。言葉を整理しないままに続けていく。

「だから、どうすればいいのか分からん。金は要るけど、なければないで生きていける。魚を獲ってもいいし、草を摘んでもいいし、動物を狩ってもいい。おれは、ジタが居てピアが居てメシがあってジタが笑ってピアが笑ってメシを食って……よく分かんねぇけど……生きていくのに困ることはねぇんだ」

 拙くて、簡潔で、飾り気なく、ストレート。だからこそ、心情がよく伝わってきた。

 その心を受け取り、小さな笑いを漏らしたジタは、

「言いたいことは分かった、ありがとう。だが、私は人間として人間らしく生きていきたいのだ。無論、三人で一緒に」

 なんの因果か運命のいたずらか、ジタは狼から人間になった。そして、ランドも獅子から人間になった。

 そのことにジタは感謝している。

 人間になりたかったわけではない。鳥だろうと魚だろうと構わないのだ。

 狼と獅子ではなく――人間と人間であり、鳥と鳥であり、魚と魚であることが大切だった。

 人間になってしまったのなら、人間としての生をまっとうしたい。

「……だから、落ち込んでいるのではなく、次の仕事を探すことが大切なのだな」

 ジタは自分自身に言い聞かせるようにつぶやくと、ランドの肩に手を乗せて立ち上がり、スカートを叩いて汚れを払った。

 行ってくる。と声には出さず、ランドと視線を合わせる。すると、

「こ、こらっ」

 手首を握られて無理矢理に座らされてしまった。

「明日でいいじゃねぇか。明日にしろ」

 ランドはジタの腰に腕を回して引き寄せる。

「分かったから、力をゆるめてはくれないだろうか。少々痛いのだが」

 ジタは腰に添えられている大きな手を引き剥がそうとするが、びくともしなかった。

「少しなら我慢しろ」

「もう、なんなのだ……」

 めずらしく無理強いしてくるランドに戸惑いながらも素直に身を寄せ、厚くて広い胸板に頭を預ける。

 包み込むような陽気の中、二人は知らず知らずのうちに眠りについた。

 

 

 日が暮れ始めて少し肌寒くなってきた頃、ジタが身震いしながら目を覚ました。寝入っている間に体勢が変わっており、ランドに膝枕をしてもらっている。

 恥ずかしげに大男の寝顔を見上げながら体を起こし、目を擦りながら辺りを見回した。

「誰も来なかったのだろうか……」

 しっかり者のジタは、すぐさま木製のテーブルに置かれた注文票を確認しにいく。

 ざっと目を通すと、重いため息が漏れた。寝入ってしまったことが悪かったのか、注文はまったく入っていなかったのだ。

 時期的に水が必要になる頃合で、先々日は五件、先日は七件、と徐々に増えてきていたのだが、今日に限っては午前中に受けた一件のみ。

 需要が不安定なはずはないのだが。と、ジタは首をかしげる。

 開業後の降雨は初だったので、情報や経験、統計はない。注文が少ないという状況に疑問を持つよりも、ここは納得して次の機会に生かすことが重要だ。

 ジタは瞬時に頭を切換える。帰り支度を整えようと、ペンや注文票をポケットに押し込んでいたとき――

『あのコでしょ?』

『うん、そうらしいよ。ホント、最低』

 道先から歩いてきた二人組の女性が、ジタにチラチラと視線を送りながら店の前を足早にとおり過ぎていった。

 当人は声を潜めていたつもりだろうが、狼だったときの名残で耳がいいジタには会話は筒抜けだ。

 ――私を見ていたのか?

 胸騒ぎに押し潰されそうになったジタは、ポケットに手を突っ込んだまま二人組の後ろ姿を呆然と見つめていた。

 敵意を向けられることは、それほど苦ではないし気にもならない。この村に住み着いたばかりの頃は、嫌な目で見られることも多かったため慣れているのだ。

 ただ、気にかかっていた。女性の手にある、水がたっぷり注がれた木製のバケツが。

 ジタは二人の女性を知っている。言葉を交わしたことはなく、名前すら不明だが、どの家に住んでいるのかだけは記憶にある。

 少なからずジタも水の宅配をしている。こういう商売を続けていれば、地理や家族の情報には自然と詳しくなっていくものだ。

 ジタが知っている――それはつまり、女性の家に水を届けたということ。女性の家族が水を注文していたということ。

 ここ一ヶ月の間は絶えず注文してくれていたのに、今回に限っては自分たちの手で水を調達しているのだ。

 もちろん家庭の台所事情まではうかがい知れないため、生活が苦しくて注文しないのかもしれないし、運動やダイエットを兼ねて水を運んでいたのかもしれない。

 杞憂であればいいのだが。と、ジタは心のもやを振り払うようにパンパンと頬を叩き、店の片づけを再開する。

 売れ残りの水が汚れないよう対策するだけなので、ものの一分で帰り支度は完了した。

 いびきをかいているランドを起こそうとすると、

「大変なことになっちまったねぇ」

 背後から聞き慣れた女声がした。

「ニキータさん。なにかあったのですか?」

「なにって――」

 ニキータは困惑した様子でジタの顔を凝視し、

「本当に知らないみたいだね。……悪い噂が広まってるよ」

「そうなのですか」

「他人事みたいに言ってる場合じゃないよ。噂の中心はアンタさ。村中、この話題で持ちきりだよ。料理に毒を盛った女、ってね」

「はい?」

 ジタのあどけない反応に、ニキータはつらそうに顔を歪める。

「……レストランをクビになったね。理由は聞いたかい?」

「いえ……え? そんなっ! 私はそんなことをしていない! するはずがない!」

 言わんとしていることを覚ったジタは、机越しにニキータに掴みかかった。

「聞いた話じゃ、十六人も寝込んでるらしいよ……。一人は昏睡状態だとか」

「なぜ……なぜ私のせいなのですか……」

「ハーマンとブレンダが言ったのさ。ジタが犯人だ、ってね」

「私はやっていない!」

「そう思ってるから、ここに来たんだよ。あ、ハーマンたちがやったとも思ってないけどさ。でも、他のひとがどう考えるか……気の回るアンタなら分かるだろ? 井戸の事件もまだ忘れられないってのに、またすぐにこんな……」

 長年、レストランを営んできた二人の信望は厚い。

 数十年来の付き合いがある二人と、村で暮らしはじめたばかりの女。どちらを信じるのか、考えるまでもなく答えは出ていた。

「どうかしたのか?」

 騒がしさで目を覚ましたランドが、大きなあくびをしながら二人に近寄ってきた。体を震わせていたジタの肩に手を置く。

 すると、ジタは手を振り払うように走り去った。

 姿が消えるまで言葉もなく固まっていたランドは、中年女性に目を移す。

「よぅ、トリだよな? ジタはどうしたんだ。またおれがなんかやっちまったか?」

 ニキータはかなりの身長差があるランドを見上げ、真顔で事の顛末を説明しはじめた。

 

 

「どういうことだ」

 人目など気にもせず、ジタはハーマンに掴みかかった。

 何事だ、と夕食を摂っていた客が騒ぎ出す。

「それはこっちの台詞だ。まさか毒を盛るつもりで働いていたとは思いもしなかった。よくもまだ村に居られたもんだな。今頃、村長がお前の処分を検討してるだろうよ」

 胸元を掴まれていたハーマンは、ジタの腕を叩き落とすと、すぐさま客のフォローに回った。

「私は毒など入れていない」

 ジタは冷たい瞳でハーマンを見据える。

「なら、なにを使ったんだ?」

「そんなこと、私が知るはずないだろう。だいたい、なぜ店の料理が原因だと分かる。なぜ私の仕業だということになった」

「自分でも信じたくないが……倒れたやつらの名前を聞いただけでも分かるよ。どう考えてもうちの責任だ。寝込んでる客のところにも足を運んだが、やはり、店の料理に問題があったとしか思えない」

 陰のある表情を見せたハーマンは深くうつむき、続ける。

「全員が違うメニューを注文していて、昨日はお前がすべての配膳をしていた。医者は、なんらかの毒性があるものを食べたせいだと判断している。――この期に及んで、どう言い逃れするつもりだ?」

「食材が悪かったのではないのか? 気づかないほど小さな不手際があったのでは」

「それは、ここで働いたお前なら分かるだろ」

 その何気ない一言に、ジタは納得させられてしまった。

 ハーマンとブレンダは神経質なほどに食材の管理に気を使っているのだ。それは、夫婦が村人から信頼を築いてきた誇りであり、夫婦が村人へ向ける感謝の心でもある。

 そうなると、原因は人為的な毒物混入。井戸の事件が心に残っている村人は、どうしても関連づけてしまう。

「しかし、なにかあるはずだ。私では――」

「おい、いい加減にしろよ!」

 言い合いを見兼ねた男性客が、二人の間に割って入った。仲裁のためではないことは、激しい語調からも明らかだ。

「言っとくけどな、お前を信用する奴なんていねぇよ。ハーマンさんたちが何年、ここで安くて美味いメシを作ってきたと思ってるんだ。三十年以上だぞ? しかも、こんなことは今まで一度もなかった。少なくともオレは聞いたことねぇ」

 男性に同意するように、他の客もジタにきつい言葉をぶつけていく。

 ハーマンは、やりどころのない怒りに震えるジタの肩を押した。

「なあ……もう出て行け。店を見れば分かるだろ」

 ジタは改めて店内を見渡し――逃れ様のない事実を突きつけられた。

 事件の直後にもかかわらず、客の数がまったく減っていない。それどころか増えてさえいる。皆、ハーマンとブレンダの力になろうと集まってきたのだ。

 なにより驚くべきは、毒で倒れた客がいたにもかかわらず店を開けていることだ。客からの強い要望があって開店したことは、容易に想像できる。

 それほどに、夫婦の人間性と責任感に、絶大な信頼を寄せているのだ。

 店の端に目をやると、村人たちからの差し入れと思われる食材が並んでいた。その材料を使って、料理を出しているのだろう。

「私は……」

 ジタは唇を噛み、小さな拳を握り締めた。


「――やっていない!」

 ランドが店に駆け込むと同時に、ジタは外へと走り去ってしまった。

「おい、ジタ!」

 急いで後を追おうとしたランドだったが、かなしばりにあったように足を止める。

 怯えるようにゆっくりと店内を見回すと、ぞわり、と背筋が震えた。

 二十もの人間の視線。それは、自然の中では決して相対することのない異質な敵意。闇夜など足下にも及ばない暗い瞳だった。

 このとき、ランドは初めて思った。――人間が恐い、と。

 しかし、その恐怖は抑えようのない憤激に掻き消される。店にいる人間たちは、ジタに敵意を向けたのだ。

 ランドは凛とした態度で、悠然と、堂々と、殺意を瞳に宿らせた。

「おれたち《プライド》に手を出す気なら……全員、殺す」

 それは、戦いを避けるための威嚇。しかし、決して虚言などではない。

 争うのなら死を覚悟しろ。という自然界のルールにのっとった宣告。

 睨み合うと、すぐに男がたじろいだ。

 それを見たランドは、身を翻してジタを追う。

 太陽は沈み、辺りはずいぶんと暗くなってきている。地平線から漏れている赤い光は、徐々に青へと変わり始めていた。

「兄ちゃん!」

 メインストリートに出た直後、心配顔のニキータと出くわした。

「ジ――」

「あっちだよ!」

 ニキータは質問を予想していたかのように、メインストリートの先を指差した。ハレルの屋敷がある方角だ。

「ありがとよ!」

 ランドはニキータの肩に手を置くと、迷うことなく走り始める。

 ――なぜ、一人で泣く。

 露店には目もくれず、

 ――なぜ、一人で抱え込む。

 自分たちの店にすら意識を向けず、

 ――なぜ、おれに頼らない。

 ただ、まっすぐに走る。

 敷き詰められた石畳を風のように駆けていく姿は、とても人間のものには見えない。それは、紛れもなく野生の姿だった。

 この場に立ち会った人間ならば、十人中の十人がこう答えるだろう。獣だ、と。

 しかし、それは雄々しい姿ではない。親に捨てられた幼い獅子が救いを求めて彷徨うような、心寂しい姿だった。

 感性溢れる画家がこの場面を目撃しても、美しい、などとは間違っても言わないだろう。それでも目を奪われ、心を囚われ、筆を取らずにはいられない。そんな情景だった。

「ピア――――ッ!」

 屋敷に向かって叫びながら、ランドは走ってきた勢いのまま扉を蹴破った。半分にへし折れた扉が、木屑を飛び散らしながら玄関を転がっていく。

「ジタを見なかったか」

 初めて出会ったときのように階段の上から姿を現したヒアシレィズは、目を伏せて首を横に振った。

「ピアも手伝ってくれ。ジタを捜す」

「手伝う」

 ヒアシレィズは滑るように階段を駆け下り、ランドに跳びついた。

「待ちな!」

 張りのある声とともに二階から顔を出したハレルは、上着を羽織りながら急ぎ足で階段を下りてくる。

「大体の事情は聞いてるよ……。あたしも行く」

 ハレルが力強くうなずいたとき――それを数人の男が呼び止めた。

「村長が罪人の肩を持つ気か?」

「重要な会議の途中だぞ。戻れ、ハレル」

「よそ者についていくのなら、村長の座は置いていけ」

 ハレルを追ってきた男たちは二階から厳しい目を向け、口々に言い立てる。

「なーにが重要な会議だい。最初から犯人を決めてかかってちゃ、話し合う意味なんてないね。アンタたちは悪役がほしいだけだろう? 井戸のことがショックだったのは分かる。でも、そのせいで不当に責め立てるのは間違ってるよ。あのコは重要な参考人で容疑者でもあるけど、まだ犯人じゃない」

 井戸に毒物が混入された事件は、犯人が不明のままになっている。表向きは、井戸に身を投げた男が犯人だということになっているが、実際に犯行現場を目撃した人物はいない。

 そのため、事情を知る村人はこういった事件に過敏になっているのだ。

 この村は小さい。犯人が見つからなければ、安心して眠ることもできない。隣人を疑っている人間は、目を開けたまま夜を明かすだろう。

 毒が混入したことは大問題だ。だが、一番に懸念すべきなのは――料理に入れられた毒ではなく、村人たちの中に潜む異物。

 それを理解しているからこそ、彼らは犯人発見をいているのだ。

「さっさと行くよ。こんなことをしてるのは時間の無駄さ」

 反論が出る前に、ハレルは話を打ち切ろうとする。

「お前は長だろ? だったら、ここで大人しくしとけ」

「そうさ、あたしは村の長なんだ。すべての村人を守る義務がある。ランドとジタもね。アンタたちは、もうよそ者なんかじゃない」

 ランドはくすぐったそうに微笑むと、川の方向を指差した。

「おれはあっちを捜す。二人は他を頼むぜ」

「せっつくんじゃないよ。なんたって、あたしがいるんだからね。ヒアシレィズ、急いで明かりを持ってきておくれ」

 ヒアシレィズは返事をする時間すら惜しんだのか、即座に屋敷の奥へと走っていった。

 それを見届けたハレルは無残な姿になってしまった玄関口から外に出る。そして、頭を右から左に動かしながら鼻を鳴らしはじめた。

「なにやってんだ?」

 ランドは頭をぶつけないように身を屈めながら表へ出る。

「体臭をたどるのさ。成功するかは風向き次第の運次第、ってね」

「人間もそんなことできるんだな」

「最初に会ったとき、あたしも変外した動物だって言っただろ?」

「聞いてねぇ」

 ハレルは大声で笑い飛ばすと、気を落ち着かせるように深呼吸をし、集中するために静かに目を閉じた。

 様々な香りを嗅ぎ取る。

 人間、獣、魚、虫、植物、土、水。それぞれが持つ特有の匂いの中から、人間のものだけに意識を向ける。

 それはまるで大気中を漂う無数の糸。些細なことで千切れてしまうほど細く、ひとつとして同じ色はない、鮮やかに彩られた糸。

 目当ての糸の端を掴んだのか、ハレルがしきりに鼻を大きく鳴らしはじめる。

「見つけた。どうやら森の奥に向かったみたいだね。血のにおいが混じってる……。急ぐよ、雨が近づいてる」

 ランドは、屋敷から飛び出してきたヒアシレィズを肩車し、さらに隣のハレルを抱きかかえ、

「しっかり掴まってろよ」

 案内されるままに走り出した。

 

 

 月も星も見えない夜。足元さえも確認できない闇。身を打つ冷たい雨。

 それでも、ランドは臆することなく走り続ける。用意してきた松明の火は、突然の雨に為す術なく消されてしまった。

「なんでこんなときに……。神様ってのはホントに意地悪だね。少しくらい待ってくれても罰は当たらないだろうに」

 ランドに背負われているハレルは、空を見上げて忌々しそうに舌打ちした。大雨がジタの足跡を覆い隠してしまったのだ。

 なにも見えなかった。月は隠れ、星は隠れ、松明は消え、光源がない。

 暗闇の中、大雨が地を打ちつける音が際立つ。視覚が封じられているせいか、聴覚が敏感になっていた。

 目を閉じて波打ち際に立っているかのような不思議な感覚。さしずめ、激しい雨音は潮騒といったところだろうか。

「ん? 森に入ったみたいだね」

 突如、身に降りかかる雨の量が減った。

 寄り集まっている木々の葉が傘の代わりになってくれている。とはいえ、雨を吸収する土の面積が少なく、絶えず水たまりの中を歩いているような状態だ。

 焦る気持ちを煽るように足元から聞こえてきていた雨音は、頭上で弾ける音に変わっていた。

「ぐっ……」

 森の中を突き進んでいると、案の定、大木にぶつかってしまった。ヒアシレィズとハレルを背負っているため、闇を手で探ることさえできない。

「いくらなんでも、こんな状況じゃ捜せないよ。人間ってのは不便だね……。昔は、森に入ったら生き物の気配までも感じられたってのに、今のあたしが感じられるのは、ありもしないものへの恐怖だけだ。せめて、誰かの『眼』が残ってれば……」

「うるせぇ」

 ランドはひと言で切って捨てる。捜せない、などとは考えたくもなかったのだ。

「あたしを置いていきな。そうすれば片手が空くよ」

「うるせぇって言ってるだろ。そんなことはどうでもいいから、匂いを嗅いでくれよ」

 ランドは懇願するように頼りない声を搾り出した。そんな弱々しい姿を見せながらも、立ち止まることはない。ただまっすぐに、この先にいるはずのジタへ向かって足を動かし続ける。

「アンタも雨の経験はあるだろ。すべて洗い流されちまう。悪いけど、あたしの力じゃどうにもならないんだ。この森をとおったのは確かなんだけど……」

 気持ちに応えることができず、ハレルが無念そうに頭を背中に押しつけた。肩に添えられている腕に力がこもる。

「くそ、なんでだ――ぐっ」

 木の根に足を取られ、ランドは顔から泥の中に突っ込んだ。背負われていた二人の体にも、飛び散った泥水が付着する。

「なんでだよぅ……」

 ランドは口内の土をガリリと噛み砕いた。

 むかついていた。自分の元へ帰らず、走り去ったジタが。これだけ捜しても、見つからないジタが。どこかで、独りで悩んでいるジタが。憎くて憎くて仕方がなかった。

 背中の二人を支える腕だけは決してゆるめずに、頭と足を使って立ち上がる。

「置いていく。ぼく、ハレルと残る」

 自分たちが足手まといになっていると感じたのか、ヒアシレィズはランドの腕を力任せにほどき、背中から飛び降りた。それにならい、ハレルも腕から抜け出す。

「ピアも、ハ…レルも、絶対に置いていかねぇぞ。分かるか? 絶対にだぞ」

「我がまま言うんじゃないよ。アンタだけなら、少しでも早くジタを捜し出せるかもしれないんだ」

 ハレルの声は、小さな子供に言いつけるような、厳しさの中に優しさを含んだものだ。

「おれはよ……この姿になる前、群れを持てなかったんだ。弱っちくてよ。知恵がついて強くなったあとは、群れを持たなかった。違う生き物になったことは分かってたからな。だから、ずっとずっと一人で生きようと思ってた――独りで生きるしかないんだとあきらめてた。そんなときだ、ジタに出会ったのは。毎日、楽しくてよ……。群れってやつの良さを知った。でも、すぐに無くなっちまった。おれが、この手で終わらせちまったんだ」

 ランドは手探りで二人に触れ、そのまま体を引き寄せる。

「おれは寂しいのは嫌だ。だから、お前らを置いていくなんて無理なんだ。もう二度と、あんな思いはしたくねぇんだよ。お前らにもさせたくねぇ」

 大切なものを失う悲しみを知ったランドには、目の前の温もりを手離して進むことなどできなかった。臆病だと自認しているからこそ、気持ちに正直に行動する。

「でも、役に立てない」

「そんなの問題じゃねぇ。一緒に来てほしいんだ」

「ぼく、役に立ってない」

 ヒアシレィズは二人の手を握り締める。

「アンタ、泣いてるのかい……」

 相変わらず起伏のない声だというのに、ハレルは一瞬にしてヒアシレィズの心情を見抜き、手をきつく握り返した。

「ピアよぅ、お前もジタみたいな考え方をするんだな。役に立つ必要なんてねぇんだ。無理に気張る必要もな。一緒に居てくれるだけで充分だ」

「ぼくは、違う。充分じゃない」

 ランドは、頑なに言い張るヒアシレィズを諭す言葉を持たない。それでも自分の気持ちを少しでも伝えようと、小さな手を両手で包み込んだ。

「目に見えるものと、見えないもの、どちらにも同じ価値がある。だけどね、見えないものは扱いが難しい。相手に届いているのか、相手が喜んでいるか、相手は満足しているのか、自分は納得できるのか、そんな不安や迷いと常に隣り合わせなんだ」

「よく分からん。おれがいいと言ってるなら、いいじゃねぇか」

「アンタと相手が同じ気持ちならね。でも、違う人間で、違う考え方を持ってる。吊り合わせるのは、すごく難しくて、すごく大変だ」

「じゃあ、どうすりゃいいんだ」

「だから言ってるじゃないか。アンタと相手が同じ気持ちなら、って。安っぽい解決法なんてないよ」

「どうすればそうなれるんだ?」

「こんな簡単なことも他人に訊くのかい。その時点で間違ってるよ。よっぽどジタに甘えてきたんだろうね。どれだけ負担をかけてきたんだい。……まあ、あたしがとやかく言うのはお門違いだね。あのコは、それを許してたみたいだし」

 呆れ口調のハレルだったが、次第に声に怒りを宿していく。

「でもね、これだけは言っとくよ。心が遅いのは罪じゃない。悪でもない。だけど、考えることを止めるのは人間として許されないんだ。よく覚えときな」

「……なあ、おれは……おれは、ヒトなのかね」

 ハレルはなにかを察したように、「そういうことかい」とつぶやき、

「今のはなかったことにしておくれ。アンタには早すぎたみたいだ」

 落ち着き払って前言を撤回した。

 ヒアシレィズもハレルと同じことに気がついたのか、寂しそうにランドの名を呼ぶ。

「ぼく、人間。ランドも人間」

「でもよ、亀だったときのことを忘れたわけじゃねぇだろ。おれは、はっきりと――」

 会話を中断させようとしたのか、ヒアシレィズが唐突にランドの手を強く握った。

「忘れてた」

 つぶやくと二人の手を放し、小さな革靴と靴下を脱ぎ捨てる。指の間に押し入ってくる泥に懐かしさを覚えながら、役に立たない目を閉じた。

「どうしたんだ?」

「ちょっと黙ってな。なにかやろうとしてるみたいだ」

 ヒアシレィズは神経を研ぎ澄まし、『水』を感じていた。

 空気中を漂う霧。

 大地を穿つ雨の音。

 土を運ぶ水の流れ。

 それらすべては、少女にとって香りであり、声であり、色であり――世界だったもの。

 人間になった幼い日に、記憶の片隅に押しやられてしまった世界。

 それでも、望郷の念は消えることはない。水が好きで、雨が好きで、川が好きで、水運びの仕事が大好きで――惹かれ続けているのだ。

 だから、離れていても、いつだって思い出せる。

「案内する」

 有無を言わさず、ヒアシレィズは二人の手を引いて歩き始めた。

 さきほどランドに背負われていた状況と比べれば、足は遅く、歩速は半分以下になっている。しかし、時速で換算するならば、ヒアシレィズが先導しているほうが圧倒的に速かった。なにせ、障害物にまったく衝突しないのだ。

 入り組んでいる木々の隙間を縫いながら、着実に前進していく。

「嬉しそうだね。なにが見えるんだい?」

「昔のぼく」

 さらに快調にスピードを上げるヒアシレィズだったが、

「おれにも見えるぞ。真っ暗闇の中を泳ぐちっこい亀がよ」

 ランドの言葉を耳にした途端、見えていたはずの足元の石につまづきそうになった。

「ぷっ――あはははは! こいつは驚いた。アンタからそんな気の利いた台詞が出てくるとはね。ヒアシレィズを感動させるなんて大したもん――痛っ!」

 心底愉快そうに大笑いしていたハレルは、細い木の枝に額を打ちつけてしまった。雨で湿った枝が乾いた音を立てて折れ、長い髪に絡みつく。

「大声のせい。音が聞こえなかった」

「……嘘を吐くようなコに育てた覚えはないよ。わざとやったね」

「知らない。ハレルのせい」

 ハレルは空いている手で髪に刺さった枝を取り除くと、思い出したように口を開く。

「あ……すまないね、ランド。ちょっと緊張感がなかったかもしれないね」

「なんで謝るんだ? こっちが礼を言いたいくらいだ。ジタがいる方角を教えてくれて、暗い森を案内してくれて……。真っ暗なはずなのに見えるんだ。傍に居てくれる亀と猫の姿がよ」

「本当に見えるのかい」

 ハレルは嬉しそうに低い笑い声を漏らす。

 以前、ハレルが猫だったと明かしたが、そのときランドは話を聞いていなかったはずなのだ。聞いていたとしても、覚えているとも思えない。

「この先にいる狼もな」

「……アンタがあのコに見るべきなのは、狼じゃないんだけどね」

 三人は手を握り合い、枝葉から落ちてくる大粒の雫を全身に受けながら闇の中を進んでいく。肌に張りついた衣服と、ぬかるみが、前へと踏み出す足を妨げるが、決して歩みを止めることはない。

 やがて雨音が小さくなっていき――光を求め続けていた六つの瞳に、うっすらと世界の輪郭が映りはじめた。薄雲に隠れたおぼろげな月が、ひしめき合う葉の間から覗いている。

「終わり」

 ヒアシレィズから森を抜けたことを教えられたランドは、急いで二人の体を抱え上げると、間髪を入れずに駆け出した。

 天候は回復しつつあるものの、風を追い越すほどのスピードで走っているため、小雨ですら暴風雨のようなものだ。

「居場所に見当はついているのかい?」

 迷う素振りすらなくひたすらまっすぐに突き進むランドが、ハレルの目には自信に満ち溢れているように見えたのだろう。すでにジタを発見したのではないか、という疑問を持つほどに。

「ジタはよ、頭はいいけど馬鹿なんだ。本当に本当に馬鹿なやつなんだ……。だから、まっすぐにしか進めねぇんだよ。ちょっとくらい肩の力を抜いてもいいのに、絶対にそんなことはしねぇ。馬鹿なおれでも分かってることが、頭のいいアイツに分からんのだぜ? 何度も何度も、何度も何度も何度も何度も言ってやってるのに、ちっとも分かりやがらねぇ。なんなんだアイツは! クソッ……なんで、おれを頼らねぇ」

 ランドは、ジタに腹を立てているわけではなく、自分自身の不甲斐なさを嘆いている。

 そんな物言いとは裏腹のランドの心を見抜いたのか、ハレルは幼子に言い聞かせるように言葉を選んでいく。

「アンタに見えないもの――見ようとしてないものを、ジタは見てる。相談なんてできるわけない。一人で戦って、一人で傷ついて、一人で迷って……」

 二人の前に横たわる問題を解決するために、少しでも力になろうとしていることが、暖かい声の調子からありありと伝わってくる。

「一人で……ああもう! 一人じゃ駄目なんだ!」

 言っていて鬱憤が貯まったらしく、ハレルは力任せにランドの後頭部を小突いた。

「やっぱりおれが悪いのかね」

「違うよ。違うけどさ……」

 語気を弱めつつも、意を決したように力強くうなずく。

「マナー違反だけど、聞いておくれよ。いいかい? 生きていくってのは思ったよりも簡単なことさ。でもね、人間ってのは難しいものなのさ。ランドは、獅子や人間という枠にとらわれず、ランドという個であり続けた。ジタは枠にこだわって、狼から人間に変わろうとしてる」

「ジタは自分から難しくなろうとしてるのか? どうにもよく分からん」

「なんで難しくなろうとしてるのか、ちゃんと考えるんだ。じゃないと、いずれジタを無くしちまうよ。……そろそろ崖があるから落ちないように気をつけな」

 ハレルは反省するように手で顔を覆い、「あとで謝らないとね」とひとりごち、それきり口を固く噤んだ。

 立ち込めた夜霧が光を内包し、月に輪をかけている。

 霧に遮られて視界が悪いものの、唯一、頼りになるのは視力のみだ。ランドは眼球をせわしなく動かし――

「ジタ……」

 ついに、暗闇に浮かび上がる白い人影を発見した。安堵感から全身の力が失せていく。

 その瞬間を見計らっていたかのように、背の二人が同時に腕の中からするりと滑り抜ける。そして、ランドの広い背中を力いっぱい押した。

 活を入れられたランドは強い足取りでジタへと近寄っていく。

 一歩、また一歩と進むごとに、はやる気持ちから歩幅が大きくなる。

 間もなく、人影の全姿をはっきりと見て取れた。

 ジタは背を向け、崖の手前にある大きな岩に腰かけていた。短い髪を伝い落ちた水滴は、肌に弾かれ、びしょ濡れの衣服に吸い込まれる。

「何度、おれに追わせれば気が済むんだ?」

 ジタは眼下に広がる霧の海を見つめたまま振り返らなかった。

「どうだろう……。できることなら、ずっと追わせてみたいものだ」

「勘弁してくれよ。お前の尻は小さくて、捜すのも追いかけるのも一苦労なんだ」

 特別な意味を込められた言葉だが、ランドが気づくことはない。

 それを予想していたのか、ジタは体を微かに揺らして苦笑いをした。

「昔は雨が大嫌いだった。今は雨も悪くないと思える。……いったい、なにが変わったのだろうな」

 ランドは岩に飛び乗り、ジタの横に並んで座る。冷たい岩の上でも、不思議とあたたかく感じてしまう。

 ジタの足の裏から血が微かに流れている。傷の状態が気にかかるが、ランドはそれ以上に精神状態を心配していた。

「おれは、家に居るときの雨は好きだけどよ、外に出てるときの雨は嫌いだ。でも、お前と一緒ならこんなのも悪くねぇな」

 視線の先は、崖下にたゆたう濃い霧。やわらかい月光を受けながら、わずかな風に揺り動かされて絶えず姿を変えていく。

「すまなかった」

 ジタは甘えるようにランドに寄りかかると、深くうつむいて疲れ果てた顔を隠した。

「謝る必要なんてねぇよ。ただ、話だけは聞かせろ」

 自分の不甲斐なさが情けなくて、一刻も早くジタの力になりたくて、ランドは命令口調で告げる。

 しかし、ジタは一向に口を開いてくれなかった。

 ――ハレルは言った。相談できるわけない、と。

 もし本当にそのとおりならば、自分になにができるのだろうか。ランドは、雨に震えるジタを抱き寄せ、冷え切った体で冷え切った体を温めようとする。

 そのまま、前髪から一定のリズムで滴り落ちる水玉が、百にも届こうかというくらい高い鼻を打った頃――ランドは暗い空を見上げ、

「風邪を引いちまうな。家に戻るか」

 話したくないなら話さなくていい。とは、口に出せなかった。

 ジタの悩みを知りたい。だが同時に、役に立つアドバイスをする自信がなかったのだ。

「ランドは、せっかちだ。こういうときくらい、私が口を開くのを待っていてほしい」

 ジタは肩に添えられていた大きな手を掴み、ランドを引き止める。

「てっきり話したくねぇのかと……」

「お前に隠したいことなどない。私のすべて知って欲しいと思っているのだ。ただ、言うには早すぎることが多い」

 ジタはひとしきり慈しむようにランドの手を撫でると、ぐっと唇を噛んだ。

「私は……そうだな……どう言えばいいのだろうか。――私は、人間たちと良い関係を築いてきたつもりだった。人間たちにどう思われていたのかは分からないが、懸命に努力してきた」

 まるで自分を切り離したかのように、ジタは『人間たち』と無感情に言い捨てる。

「ランドよ、私をわらってくれ。こうも無情に、こうも容易たやすく、こうも一瞬にして崩れてしまうモノを、私は今まで求めていたのだ」

「またやり直せばいいんじゃねぇのか? あんなに喜んでたじゃねぇか」

「もう駄目なのだ。どうやっても好きになれそうにない。私は……人間にはなれない」

 ジタはランドの右肩に両手を乗せ、二の腕に頭を押しつけた。

「おれには、お前がどうしてそんなに悲しんでるのか分からねぇんだ。ジタが狼だろうと人間だろうと、どちらでも構わんと思ってる。でもよ、おれはお前がお前である限り、ずっと守ってやる。だから、ずっと傍に居てくれ。あんな別れは二度とご免だ」

 ランドなりに精一杯ひねり出した言葉だった。本心からの声だった。

 それが伝わってしまったからこそ、ジタは顔を伏せて涙を流した。喜びではなく、悲しみの色をたたえる涙。

「私は、お前の傍に居続けたい。お前の傍で生きて、お前の傍で死にたい。だが、それだけでは満足できないのだ……。だから、だから私は…………わた…し……は……」

 ランドの体に不自然な重みがかかった。

「ジタ? おい! ジタ!」

 

     *

 

 アルコールランプの頼りない灯りが部屋を暖かい色に染めている。

 屋敷の一室、客用のベッドの上でジタが息を荒げていた。全身に汗をにじませ、苦しそうな声を漏らしている。

「体温は上がったかい?」

 様子を見にきたハレルに訊かれ、ランドは握り締めていたジタの手に頬を当てた。伝わってくるのは温もりではなく、人間の体の一部とは思えないほどの冷たさだけだ。

 ランドの両手は、生気を抜かれたように青白くなっており、その感覚はすでに麻痺していた。

「川の中に手を突っ込んでるみてぇだ」

 返答を聞き、ハレルはつらそうに息を呑む。

「……狼から人間になったのが『変外へんげ』。その逆の現象もあってね、『変還へんかん』と呼ばれてる。今がその状態さ。つまり、ジタは人間から狼に戻ろうとしてる」

「なんだってそんなことに」

「思い当たる原因はふたつだね。ひとつは、死期を迎えた。もうひとつは、人間として生きることに絶望しちまったのさ。まず間違いなく後者だろうね」

「どうすれば治るんだ?」

 ハレルは首を横に振る。

「経験から言えるのは、次に目が覚めたときが分岐点ってことさ。……あたしは、連れ戻せなかった。アンタはどうだろうね」

「おれは、ジタになんて言えばいい……」

 ランドは弱気になっていた。ジタを守れず、ジタを納得させられず、ジタを安心させてやれなかった。

 今、ハレルにいい加減なことを言われても、素直にその言葉を口にするだろう。

「あたしは答えを知ってる。でも、教えられない。そのコを欺けるほどアンタは賢くないし、嘘を吐けない。思っているままを伝えな。いいかい、しっかりと、自分の心と向き合うんだよ。ジタに人間でいてほしいなら引き止めてやりな。もし、さっき言っていたように狼でも人間でもいいと本気で思ってるなら――」

 ランドは無言のまま、細い手を強く握り締める。

 その姿を見たハレルは、苦い表情で目をそらした。

「あたしが言うことじゃないね……。今さらだけど、これ以上ジタの気持ちを踏みにじりたくない。ヒアシレィズが無理をしないよう見てるから、なにかあったら呼んでおくれ」

 ハレルは足音を抑えて部屋から出ていく。ドアが閉まってから数秒後、アルコールランプの火がゆらりと揺らいだ。

「ジタよぅ、おれは――」

 ランドは祈るようにジタの手を額に当てる。

「おれは、どうすればいいんだ……」

 

 

 あれから二日経ってもジタは目覚めなかった。

「ご飯」

「いらねぇ」

 ヒアシレィズはベッド脇の机に食事を乗せたトレイを置き、頬がこけてしまったランドを心配そうに見上げる。

「食べて」

「ジタが起きたらな」

 窓の外は明るいというのに、ランドは今が昼か夜かさえ区別できていなかった。時間感覚を失ってしまうほど、ただ一心にジタの様子を見守っているのだ。今、横に居るのがヒアシレィズであることも気づいていない。

「そう」

 ヒアシレィズはあきらめたように短く応えると、ランドの隣に置いてある椅子に腰かけ、膝に握り拳を乗せてそのまま口をつぐんだ。

 そよ風がカーテンを揺らし、反射光によって描かれた模様がゆらゆらと踊っている。

 二人は衣擦れの音よりも静かに、ジタの快復を願い続けた。

 何十分、何時間と、言葉が交わされることはなかったが、退屈などという感情は微塵も湧き上がらない。人形のようにじっとジタを見守っている。

 窓から入り込む光が朱に変わり始めた頃、そっと扉が開かれた。顔を出したハレルは、

「約束だよ」

 と、ひと言だけ残し、やり切れない表情で去っていく。

 しばらくして、開け放たれたままの扉が緩やかな風に押されて軋んだ。それを合図にヒアシレィズは椅子から腰を上げ、ランドの両手を包み込むように自分の手を重ねた。

「――よぅ、ピア。まだ起きねぇんだ」

 手の感覚が戻ってきたことで、ランドは今になってようやく隣に居るヒアシレィズに気づく。すると、泣き出しそうな表情をすぐに引っ込め、無理に笑顔を作った。

「三人がいい」

 ヒアシレィズは微かに下唇を噛み、手に力を込める。

「当たり前だ。ジタはいなくならねぇ」

「違う。三人」

「あ、ああ?」

 そう言ったつもりだったけど。と、ランドは要領を得ない様子でうなずいた。

「人間がいい。三人」

 冷え切っていた大きな手にほんの少しの温もりを分け与え、暗くなってきた部屋にわずかばかりの光を灯し、ヒアシレィズは部屋から出ていった。

「人間か……」

 ランプの明かりに照らされるジタの横顔を見つめながら、ランドは考え込む。

 狼のジタと人間のジタ、一体なにが違うのか。

 なぜ、ヒアシレィズは人間がいいと思ったのか。

 なぜ、ジタは人間になりたいと思ったのか。

 

 ――長く、考えた。

 

 やけに明るい月光が、徐々に部屋に入り込んでくる。月と火、それぞれの光が混じり合い、純白のキルトケットを薄紅色に染め上げている。

 青白かった肌にも赤みが差していた。まるで生気がよみがえったかのように。

 不意にジタの体が震える。ヒアシレィズの温もりを宿していたランドの手は、小さな変化を敏感に感じ取った。

 ランドはジタの顔を覗き込もうと椅子から立ち上がる――

「ジタ? おい、ジタ! 起きてくれよ!」

 ――はずだったのだが、二日以上も座りっぱなしだったため足に力が入らず、バランスを崩してベッドの横に倒れた。ずっとジタの手を握っていたため、腕が固まったまま間抜けな格好で床に転がっている。

「ぐぉ……な、なんだ?」

 体中を走る鈍痛に驚きながら、少しずつ身を起こしていく。

 頭がベッドの高さまで上がったとき――目が合った。

「なに……して……だ」

 ジタは力なく微笑み、きゅっ、と手を握り返してくる。落ち着いた美声は影もなくなっていたが、それでもランドにとっては耳触りの良いものだった。

 ランドは目尻に涙を貯めながらも、なにか言おうとわなわなと口を動かし、

「――じ、ジタよぅッ」

 ようやくのことで声を発した。あまりの嬉しさに顔をくしゃくしゃに歪め、愛おしそうにジタの指を撫でる。

「みず……くれないか」

 ランドは慌てて食事に添えられていた水差しを掴み、覚束ない手つきでグラスを満たしていく。勢い余ってグラスから飛び出した水がジーンズを濡らしたが、そんなことは気にも留めなかった。

「ほら、ゆっくり飲めよ。メシもあるぞ。食うか? 食えるか? 食わせるか?」

 ジタの体とベッドの間に片手を潜り込ませて上半身を抱え起こし、かさかさになってしまった唇にグラスを当てる。

「やさしいのだな」

 ランドの意外な一面に接したことにジタは喜色満面。喉が枯れているにもかかわらず、声を弾ませた。

「おれはいつも優しいだろ」

「……そうだったか?」

 ジタは苦笑で返し、こくこく、と小さく喉を鳴らして水を飲み始めた。口からこぼれた水が首を伝い落ちていく。

 甲斐甲斐しく介抱するランドを潤んだ瞳で見つめていたジタは、太い首に腕を回し、

「ん……」

 強引に唇を重ねた。

 

 とくん、とくん――わずかな接点から、リズムの違う鼓動が伝わってくる。

 力の入らない体で精一杯しがみついていたが、ランドが我に返る前に唇は離れてしまった。

 どんな顔をするのか見てみたかった、とジタは声もなく笑う。

 呆気に取られていたランドが目を瞬かせると同時に、ジタは腕を伸ばし、人差し指を口に当てた。さすがのランドも今回ばかりは意図を察したようで、指に噛みつかない。

 沈黙の中、ジタは怯えるように声を震わせて話しはじめる。

「私はお前が好きだ。ランドという人間としてだけでもなく、異性として、男として、お前のことが好きなのだ」

 言ってしまった。ジタは心が空っぽになってしまったように無気力に微笑んだ。

 決して自分からは言うまいと、胸の奥にしまっていた言葉。

 なぜなら――

「おれもジタが好きだぞ」

 それ以上、言葉は続かなかった。やっぱり、とジタの瞳は曇っていく。

 ――なぜなら、ランドがどう応えるのか分かっていたから。

 ジタは人間になりたかった。

 ランドに人間になってほしかった。

 そして、一人の男、一人の女として、生涯を共に歩んでいきたかった。――一人と一匹ではなく、二人で。

 ランドはランドだ。しかし今のランドは、人間ではなく、まして獅子でもない。それはジタにも当てはまることだ。

 獣ではなく人間でもない。獣であり人間でもある。そんな半端な二匹と二人。

 このままでは、未来は予見できている。

 野性と社会は相容れぬもの。人間を餌としていた頃と同じでは駄目なのだ。

 変わらなければ、先は短い。そのことを真剣に受け止めているからこそ、ジタは人間になろうと努力した。まずは自分が。そして次にランドを。

 変われたならば、人間の生は長い。ジタは常に未来を見据え、気長に愛を育んでいけばいいと考えていた。いつか、ランドから求愛させてやろうと意気込んでいたのだ。

 だが――

「……疲れてしまった。眠るまで、傍に居てもらえないだろうか」

 ジタはランドの手を掴んで引き寄せ、愛しそうに頬に押し当てる。

「いくらでも居てやるから、もうどこにも行かないでくれよ」

「約束する。私はお前の傍を離れない」

 ジタは目に焼きつけるようにランドの顔を見つめたまま、ゆっくりと、ゆっくりと、まぶたを閉じた。

「なんだか、おれも眠くなってきちまった」

 穏やかな寝息を立て始めたジタを見て安心したのか、ランドの頭はふらふらと揺れ始める。二日以上、一睡もしていなかったため、緊張の糸が切れて疲労が一気に噴き出してしまったのだろう。

 ランドはジタの手をしっかりと握ったまま――

 

 

 小さなノックの音のあと、ドアが丁寧に開かれた。

 風通しがよくなり、暖かな風が部屋を吹き抜けた。

 カーテンが煽られ、白い布団へと日光が降り注ぐ。

 眩しさに目を細めつつ、ヒアシレィズは食事を運んでいく。

「あ……」

 部屋に踏み入った瞬間、足が止まった。

 トレイが手から滑り落ち、食器が割れる派手な音が屋敷中に響き渡った。トマトスープが床に広がっていき、足止めするように小さな靴を飲み込んでいく。

 ヒアシレィズはジタに駆け寄ることもなく、ランドに声をかけることもなく、ただただその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 心を込めて作った料理の上に、一滴の雫が落ちる。

「ん、なんだ……」

 異変を感じ取って目を覚ましたランドは、真っ先にジタを探す。

 そして、感情をどこかに置き忘れたかのような呆けた声で――狼の名を呼んだ。

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