二人(1)
第2章 二人
2‐1.
平らな岩に布を敷いただけという固いベッドの上で、男は目を覚ました。
年齢は三十を迎える前といったところか。身長二メートルを越える巨躯のため着る服が少ないのか、白いワイシャツにブルージーンズという飾り気のない格好をしている。
簡素な身なりでも物足りなさを覚えないのは、主張しすぎる筋肉のせいだろう。都会でこの大男を見れば、誰しもがアスリートだと勘違いするはずだ。
しかし、それ以上に興味を引かれる点がある。瞳の色が、薄い黄色なのだ。明るいブロンドと相まっていることもあり、その色は金と表現しても差し支えない。
「ここは……」
気怠そうにベッドから下りた男は、無精ひげををぼりぼりと掻きながら、蝿が止まるほど鈍い動作で周囲を見回した。
男は今、古びた木造小屋の中に居た。壁板が雑に打ちつけられているため隙間だらけで、そこから日の光が差し込んできている。そこかしこに農具が立てかけてあることから、物置だと確認できた。
男は棚に置いてあった細い紐を手に取ると、不器用な手つきで背中まで伸びた金髪を結んだ。そして、迷うことなく脆そうな木製の扉を押し開け、なにかに導かれるように千鳥足で外へ歩いていく。
「どこだ?」
眩い陽光に目を薄めた大男は、どこか呆けた様子で景色を眺めている。
男が眠っていた物置は、輝く若草に覆われた丘に建てられていた。すぐ隣には、物置小屋の主が住んでいるであろう年季の入ったログハウスがある。
小高い丘の下には、村里が広がっている。石の板を丁寧に敷き詰めたメインストリートがまっすぐに伸びており、それを中心に村が造られているようだった。道沿いには所狭しと商店が軒を連ね、小道に入れば木造家屋が建ち並んでいる。
丘から見下ろした景色は、一本の大樹のようだった。さながら、人間たちが身を寄せ合って暮らす宿木。家は色鮮やかな葉で、街道は丈夫な太い幹と言ったところか。
その根に当たる場所に男はいる。斜面を滑り落ちないよう設けられた防護柵に両手を乗せ、風の香りを堪能していた。
しばらく体中でこの世界を感じたあと、四肢を限界まで広げて芝生に身を投げ出した。太陽の光を吸った若草が、大男を優しく受け止める。
「……分からん」
ほんの少し頭を使っただけなのだが、横長の口から大きな欠伸が漏れた。自分に正直な男は眠気に逆らわなかった。
「見つけた……」
大男の右隣にショートカットの少女がちょこんと腰を下ろした。両足を胸に抱え込み、男をちらりと盗み見る。
少女は今にも消えてしまいそうなほど色白で、体の線が細く、背も低い。年の頃は、少女から女性に変わる手前といったところだ。顔立ちは幼いが、その表情はどこか大人びていた。純白のワンピーススカートと雪のような肌が、漆黒の髪を際立たせている。
大音量のいびきを嫌がることもなく、鳶色の瞳でだらしない寝顔を見つめていた。落ち着かない様子で、リズムを取るようにゆらりゆらりと頭を上下に揺らしている。
――何十分、何時間ほどそうしていただろうか。少女の影が身長以上に伸びた頃、
「よぅ」
うっすらと目を開けた男が、少女の頬に右手を伸ばした。ルージュを引くように唇に親指を這わせる。
一瞬、体を強張らせた少女だったが、すぐに淡い笑みを浮かべた。
「私のことが分かるか?」
少女は外見に似つかわしくない固い口調で話しかけた。緊張からか、膝を抱えている腕に力がこもっている。
「さあな。あまり頭がよくないおれには分からん」
男はくつくつと喉を鳴らした。不安そうな少女を元気づけようとしたのだが、不器用な男の気遣いは逆効果になり、ただの意地悪になってしまっている。
「お前は大馬鹿だ……」
顔をくしゃくしゃにした少女は、男の手を頬に強く押し当てながらささやいた。
「泣いてるのか?」
「見て……分か、らないのかっ……」
少女の目から流れ出た涙が、男のごつい手を伝い落ちていく。
「ああ、これならよく分かるぞ。ジタ」
夢でも見ているのだろうか。
なぜ人間の姿になってしまったのか。
そもそも、あそこで死んだはずではなかったのか。
ランドは右隣で可愛い寝息を立てている少女の髪を撫でた。
ジタの話では、明日になれば原因が分かるらしい。詳しいことはまだ知らされていないのだとか。
まあ、ジタが言うのだから間違いないのだろう。とランドは思考を止めた。ありのままを受け入れるのが彼の信条である。
懐かしい温もりに心を満たされながら、再び一緒に眠れることを素直に感謝した。
*
低い丘の上に、古めかしい木造の家がある。
入り口をくぐるとすぐにキッチンダイニングがあり、右手に寝室、左手にバスルームという、1DKのバスつき物件だ。臭い対策のため、トイレは家の外に備えつけられている。
ダイニングの中央には六人用のテーブルがあるが、椅子は三脚しかない。一対二で向き合う格好だ。
寝室はタンスとベッドだけしか置かれておらず、味も素っ気もない。ベッドは木組みの上に布を何重にも敷いた物で、大人の男性が三人も寝転べるほど大きい。そのため寝室はかなり手狭なのだが、ふたつの窓が効果的に配置されているおかげで圧迫感はない。
「そろそろ起きる時間だ。ひとに会わなければならない」
その寝室で、少女――ジタは懸命に大男を起こそうとしていた。生半可な力では巨体を揺することさえできず、かれこれ五分ほど悪戦苦闘しているのだった。
そんな努力を嘲笑うかのように、男――ランドは大いびきを立てて寝入っている。初めて使う暖かいベッドがよほど気持ちいいのか、なかなか目覚めなかった。
「約束があると言ったはずだっ!」
耳元で声を張り上げながら太い腕を左右に動かすと、ランドはようやく目を開いた。
「……ジタよぅ」
「なんだ? 待ち合わせに遅れるから、これ以上は寝る――な?」
むくっと突然起き上がったランドは、ジタの両の脇に手を差し込み、細身の体を軽々と持ち上げる。
「こんなに若かったのか。おれはてっきり年上だと思ってたぞ」
「お互い様だ。私だって、ランドがそんなに大人だとは知らなかった。だいたい、その疑問は昨日の時点でぶつけるべきだろう。それと、寝起きでいきなりその台詞はどうかと思う。もっと他に言うことがあるはずだ」
赤子をあやすように高い高いされたジタは、子供扱いされていることに少し不機嫌そうな表情をしながらも、特に文句は言わない。心地好い浮遊感に浸っているようだ。
ぶらぶらと揺れる足を眺めていたランドは、手の位置をさっと腰に移し――
「ひゃっ!」
歯形が残らないほど優しく、足の指に噛みついた。ジタが暴れたためすぐに口を離す。
「なんだか美味そうだったから、つい」
「つい《ヽヽ》ではない、つい《ヽヽ》では!」
顔を真っ赤にしている姿を見て、ランドは『人間の姿をしてるから悪いんだよ』という言葉を胸の内にしまった。
前足にかじりついてきた狼を思い出すと多少は納得いかない部分もあったが、取り乱すジタをベッドに下ろす。
「時間は大丈夫なのか?」
「そうだった。私たちの恩人と会うことになっている」
ジタはスカートを叩いて裾を整えると、ひょい、とベッドから飛び降りた。体重が軽いためか、それとも床板の素材が頑丈なためか、着地音はほとんど立たない。
「こんな体にしやがった奴か?」
自分の両手を見つめながら、ランドは指を順に折り曲げ、拳を固く握った。
「私もまだ説明を聞いていないから確かなことは言えないが、誰かになにかをされたわけではないらしい。彼女が直接伝えたいと言ったのでな、わざわざ二度手間をかけさせるわけにもいかないだろう? だから、ランドと一緒に会いに行くことにしたのだ」
「なんだ、おれも行かなきゃならんのか」
大きな体で伸びをすると、面倒くさそうにベッドに寝転ぶ。
「だから起こしたのだ。無礼は駄目だ」
「お前は本当に義理堅いな」
「ああ、当然のことだ」
少し嫌味も込められていたが、ジタは誇らしげに胸を張って応えた。
「すぐに出るのか? 直前になったら、また起こしてくれ」
ランドは人間が嫌いだ。会話することさえも億劫で仕方がない。それでも、決定に反論はしなかった。
ジタが一緒ならば憂鬱な時間にはならないだろう。と、物思いに耽るように少女をしげしげと眺める。そして、眠気に誘われるままにゆっくりと目を――
「そ、その、腹は減っていないだろうか?」
――閉じかけたが、血の滴る肉を思い浮かべて飛び起きた。
「減ったぞ。どこかにあるのか? それとも狩りにいくのか?」
ランドがベッド横の窓から外に出ようとしたところを、ジタは慌てて制止する。
「違うのだ。私が作ってみた」
「作った? 料理ってやつか」
ジタは真剣な面持ちでコクリとうなずいた。スカートをぎゅっと握り締め、口をきつく結び、次の言葉を待っている。
「なんだか美味そうな匂いがするな」
ランドは渋い表情で首をひねる。鼻が利きにくくなっているのか、言われるまで食事の気配を感じなかったのだ。
「隣の部屋に用意してあるのだ」
愛らしい笑顔を見せるジタにエスコートされ、ランドは寝室を後にした。
ダイニングには、少し冷めた料理が申し訳なさそうに並べられていた。
テーブルに噛りつくように朝食を観察していたランドは、
「これは食えるのか?」
とんでもなく失礼な質問をしてしまい、ジタに頭を叩かれたのだった。それが合図となり、二人は食事を開始した。
ランドが料理に手を伸ばす度に、テーブルの向かいに座っていたジタが「どうだ?」と控えめな声で尋ねる。そして、「ああ、食えるぞ」という素っ気ない反応に、毎回のように肩を落とすのだった。
「料理の練習をしたのか?」
「自然に作れるようになっていた。ランドは二本足で歩くことに抵抗があったか?」
ランドはジャーマンポテトを手掴みで口に運び、指ごと舐め取る。そして、ワンテンポ遅れて疑問を抱いた。
歩き方も、手の使い方も、用の足し方も、特に考えずに出来ているのだ。しかも、今まで口にしたこともない料理を『食事』と認識している。
「――だろう? つまりは、そういうことなのだ」
思考を読んだように話を続けたジタは、フォークでブラッドオレンジを刺して手馴れた様子で食していく。
「まあ、できるならできるでいいか。……ん? なんだろうな」
不意にランドがテーブル越しにジタの頭に触れた。指の隙間から溢れる髪の毛を楽しそうに眺めている。
予期せぬ行動に、ジタはフォークを口に咥えたまま動かずに固まっていた。
「な、なんなのだ!」
しばらくして我に返ったジタは、頭を振って手をどける。
ランドは自分の手と顔を紅潮させたジタを交互に見つめ、
「よく分からん。なんなんだ?」
答えを外に求めるのだった。
「私に訊かれても困るのだが」
「そうだよなぁ」
「そうだ」
対面の顔を正視できなくなったのか、ジタはうつむきがちにフォークを動かしていく。
「ジタよぅ、おはよう」
「このタイミングで朝の挨拶をするのか……。遅すぎるが、まあ、らしいのかもしれないな。おはよう」
揃って顔をほころばせると、楽しい朝食を再開した。
*
二人は大通りの中央にいた。
今日は太陽も張り切っているようで、頭上からは強い日差しが降り注いでいる。春の門を叩いたばかりだというのに、辺りは汗ばむ陽気に包まれていた。石畳の隙間から顔を出している草花も、心なしか嬉しそうだ。
「てれび《ヽヽヽ》にいたときも思ったんだけどよ……人間がいると動きにくいんだよな。食える人間なら問題ねぇけど」
ランドはシャツの袖ボタンをぎこちない手つきで外しながら、愚痴るようにつぶやいた。幅が五メートルほどあるメインストリートの真ん中で、行き来する人間たちを眺めている。
「私も苦手だ。酔ってしまいそうになる」
道の両脇に並んでいる商店が客を集めており、辺りは明るく賑わっていた。村民がそれほど多くないため混雑しているわけではない。
しかし、二人の感覚では、人数が十を超えれば『たくさん』の部類に入る。村人が目の前を横切るごとに条件反射で立ち止まってしまい、なかなか目的地へと進めなかった。
この小村――アントダースは、メインストリートを中心に造られている。逆に言えば、メインストリートを訪れなければ生活必需品は手に入らない。そのため、通りに人が集まってくるのだ。
人々は広大な土地に暮らしているにもかかわらず、家同士を驚くほど隣接させている。家と家の隙間は子供が手を広げられないほど狭いのだ。庭が必要ないことや、家の建築方法に特徴があることなど、様々な要因がある。
自動車や街路灯などは見当たらないのは、近代文明から遠ざかった生活を送っているためだ。
村は活気に溢れており、村人たちもほぼ全員が顔見知りという家族のような関係を築いている。いざこざがないわけではないが、それでも平和な村に違いはなかった。
「なんだか見られてねぇか? おかしなところでもあるのかね」
ランドはすれ違い行く人々の視線を受けながら、自分の身なりを確認している。
「私にも分からない」
ジタも村人の反応に戸惑っているようだ。スカートの裾をつまみ、ランドと同じように異変を探している。
通りには人が多いため、本来ならばここまで注目されることはなかっただろうが、ランドの背の高さが災いした。二メートルを越す長身は嫌でも人目を引き、さらには隣に小柄なジタがいるものだから相乗効果になっているのだ。
ランドの「まあ、いいか」というひと言で片をつけると、二人は賑わう市場に物めずらしそうな視線を巡らせながら歩を進める。
「あれは美味そうだな。――お、あれも食ってみてぇな」
衣服や食材、金物など、様々なものを取り扱う露店が出ている。
そんな中、ランドの気を引いたのは調理済みの食べ物を売っている店だった。芳しい香りにほだされた大男は、しきりに涎を拭っている。
「私たちは無一文なのだ。まさか奪い取るわけにもいくまい」
朝食を摂ったばかりだというのに、ランドはまだ食べようというのだ。ジタは半ばあきれたように胃に手を当てる。
「それはさすがにまずそうだな。いや、美味そうだけどよ」
意味不明なことを口走りながら、ランドは疑問を持った。
――なぜ奪ってはいけないのか、と。
しかし、自分の中ではモラルが確立されている。物が欲しいのなら、代価を支払うしかないのだ。
今は奪わないことが正道、とランドは納得した。ここで強奪しようものなら、自分が憎んでいた人間と同類になってしまうのだ。それだけは絶対に嫌だった。
「腹減ったな。今朝のイモが入ってたやつ、また作ってくれよ」
「ジャーマンポテトのことだな。帰ったら――」
ジタはなにかを思い出したように足を止める。
「ランドよ、その……ジャーマンポテトの味《ヽ》はどうだった?」
「美味かったぞ。不味かったら、作ってくれとは言わねぇと思うんだけどよ……。それがどうかしたのか」
はにかみながらそっと微笑んだジタは、
「なんでもない。帰ったら昼食を作るから、そのときまで待っていてくれ」
と声を弾ませ、ランドの背を押して歩き出したのだった。
「聞いていた話では、ここのはずだ」
メインストリートをまっすぐ突き進んだ先――道の終点に、大きな屋敷があった。ランドとジタが寝泊りしている家とは村を挟んで反対側の位置になる。村自体が小さく、距離は二キロほどしか離れていないため、ここからでも丘の上の家が見える。
「でけぇ家だな」
屋敷は二階建てで、この村で最も背の高い建造物だ。薄茶色の土壁と古びて黒ずんだ木板が心安らぐ雰囲気を作り出している。中央の玄関口から左右に廊下が伸びており、一定の間隔で窓が設けられている。手入れが行き届いているのか窓ガラスには目立った汚れはない。
窓をとおして屋敷内の様子を覗くことができた。見える範囲に人はいないようだ。
「こっちだ」
出入り口の前まで進んだジタは、屋敷を見上げているランドを呼び寄せると、重量感のある扉をノックした。
しかし、待てども待てども館の住人は顔を出さない。
「聞こえなかったんじゃねぇか?」
ランドはジタを後ろへ下げると、ごつい拳で扉を叩く――
「え……」
すると、蝶番が外れて扉が倒れてきた。
圧しかかってくる扉だった物を片手で支え、ランドは間抜け面のジタを見つめる。
「……これは、おれのせいか?」
「ど、どれだけ力を込めたのだ。強盗のようではないか」
「軽く叩いたはずだぞ。まあ、やっちまったもんは仕方ねぇよな」
ランドは外れた扉を玄関の脇に立てかけ、屋敷の中へと入っていく。
「こら、勝手に入るものではない」
「いいじゃねぇか。入口が開いてたんだ。好きに出入りしろ、ってことだろ」
「……自分で壊したことを忘れたのか?」
ランドを放っておくわけにもいかず、ジタは渋々といった様子で敷居を跨いだ。
屋敷内は、高級感溢れる絨毯や木材を使ってはいるものの、まったくといっていいほど飾り気がない。絵画や置物は見当たらず、外装からは想像できないほど簡素だ。
天井は高いが、どこか小ぢんまりとしていて圧倒されるほどの迫力はなかった。
左右に伸びる廊下もシンプルすぎて、なにかを置き忘れているような物足りない感がある。廊下の途中に二部屋と、突き当たりの奥に一部屋という左右均等な造りになっていた。
二人が玄関先をうろうろしていると、正面にある階段の上から、おかっぱ頭の子供が姿を現した。
歳は十を少し超えたくらいだろうか。白とも銀とも表現できそうな髪が目を引く。どこか虚ろな目をしているためか、物静かそうな印象だ。凛とした立ち居振舞いと、タキシードの上着だけを脱いだ格好がはまっている。寸分の傾きもない黒の蝶ネクタイから、その利口さまでも滲み出ているようだ。
「私はジタと申します。ハレルさんはいらっしゃいますか? 連れが目を覚ましたら、ここで会う約束をしていたのですが」
吸い込まれそうなほど深い青眼で二人を見おろしていた子供は、
「こっち」
と起伏のない小声で応えると、たんたん、と優しい足音を立てて奥へと歩いていった。
「行こう、ランド」
ジタは一瞬だけ壊れた扉へと視線を移したが、このまま見つめていても扉が直るわけではないと悟り、急ぎ足で後を追う。
足音が響く薄木の階段を昇り終えると、一階と同じように廊下が左右に続いていた。右手側の奥には子供の姿があり、扉の脇で静かに待機している。
ランドとジタが近づくと、子供は微かにうなずき、小さな手で扉を叩いた。そして、返事を待たずに扉を引き開け、中へ進むよう促してくる。
ジタが遠慮がちに部屋に入っていき、ランドもそれに続こうとしたとき、
「頭」
と、子供がぽつりとつぶやいた。
「髪がおかしいか?」
ランドがアピールするように長髪を揺らすと、子供は目を閉じてふるふると首を横に振った。
「頭、ぶつかる」
「ああ、そういうことか。ありがとよ」
ランドは礼を述べながら子供の頭に手を置くと、部屋の中へ――
「いてぇ……」
入ることはできず、額をぶつけてしまった。
子供は無表情のまま微かに首をかしげている。
「なにをやっているのだ。ハレルさんがお待ちだ」
ジタは苦笑しつつ、急かすようにランドの手を引く。
「いて」
すると、脳足りんな大男は再びドア枠に頭を打ちつけてしまった。
「……ランドよ、なぜ身を屈めないのだ」
呆れ顔のジタを前に、しばし考え込んだランドは、
「なるほどな」
と納得して、腰を曲げて出入り口をくぐった。
「言わなかったら、どうしていたのだろうな」
ジタは銀髪の子供へ語りかけるように小さく笑い、ランドの後に続く。
室内に入ると、びっしりと並べられた書棚に圧倒される。窓のスペース以外は棚で埋め尽くされており、壁がまったく見えない。本の壁、といったところだ。
紙特有の香りに包まれ、不思議と気分が落ち着く部屋だ。
中央には迫力がある漆黒の机が置かれていて、卓上には書類が散乱している。座り心地がよさそうな椅子に一人の女性が腰かけていた。
館の主――ハレルだ。年の頃は二十代半ばといったところか。腰まで伸びた赤みがかった髪と、女を強く感じさせる挑発的なボディラインに視線が引き寄せられる。黒のブラウスと、タイトな茶のロングスカートに身を包んでいる。
ジタは机の前に歩み出ると、ハレルに余計な時間を取らせてしまった非礼を詫びた。
「いいよいいよ、気にしないで。ヒアシレィズのあんな顔を見たのは初めてだしね。なかなかおもしろかったよ」
艶やかな髪を躍らせながら豪快に笑ったハレルは、勢いよく椅子を引いて立ち上がり、ランドに近寄った。そのまま舐め回すように大男を観察する。
「金の髪に金の眼……随分と残ったようだね。あたしはハレル。柄じゃないけど、この村の長をやってる」
ハレルが握手を求めるも、
「助けてもらったらしいな、ありがとよ」
ランドは差し出された手を一瞥したのみ。名乗りすらせずに腕を組んだ。
「あー、人間の礼儀ってやつは万国共通じゃないから無理もないか。それと、礼ならそこのヒアシレィズに言いな。あのコが、ここまで運んだんだからね」
伸ばしていた右手を気まずそうに閉じたハレルは、踊るように移動して椅子に戻った。背中と椅子の間に挟まった長い髪を掻き出し、体の前に持ってくる。
「運んだ? ランドだけでも百キロ以上はあると思うのですが」
ヒアシレィズと呼ばれた子供が車を運転できる年齢にも見えないので、ジタは首をひねるばかりだった。
「すぐに分かるさ。それを説明するためにアンタたちをここに呼んだんだからね」
「……人間になった理由、ですか」
話が核心に近づくと、部屋の隅で待機していたヒアシレィズがそっと扉を閉めた。鍵までかける念の入れ様だ。
「堅苦しいのは嫌いだから、普段どおりの話し方でいいよ。……で、順を追って話そうかね。とある筋から同族――つまりアンタたちを発見したという情報を掴み、いち早くヒアシレィズを迎えに行かせたというわけさ」
「同族とはどういう意味なのだ?」
律儀に口調を戻したジタは、最も気にかかったことについて質問した。
同族という言い方は、どうにも要領を得ない。目の前の女性は、どこからどう見ても人間だ。獅子ではなく、狼でもない。人間同士なら、同族などという妙な言い回しはしないはずだ。
「あたしは猫で、ヒアシレィズは亀だった。アンタたち同様、人間になっちまったのさ。この人間に変わっていく症状は『変外』と呼ばれてるらしいよ」
言葉の出ないジタを眺めながら、ハレルは伸びをするように椅子の背もたれに体重をかけた。
「変外を放っておくと、脳が成長しすぎて狂っちまうんだ。だから、そのことを伝えるためにあのコを行かせたってわけさ。でも、駆けつけたときには二匹は死んでた」
「あ……」
ジタはあの出来事を思い出し、横目でランドを見やりつつ気まずそうにうつむいた。
死の間際の記憶は、今も鮮明に残っている。だが、あの一件についての話題は意識的に避けているのだった。
もちろん、獅子がどんな経緯で死に至ったのか知りたい、という願望はある。あの勇敢な獅子ならば、これから先も強く生き抜いていく。輝かしい未来を掴める。そう確信していたのだ。
――それなのに、なぜ。
知りたい。しかし、尋ねてしまえば、必然的に自分が戦いを挑んだ理由を打ち明けることになってしまう。それにはまだ心の準備ができていないのだった。
「まあ、結果としてそれでよかったのさ。変外が始まった生き物は一度死なないといけないからね。そうすることで、人間としての姿と命を手に入れられる。専門の研究機関から盗んだ情報だと、ひとつの体にふたつの命が宿っている状態ってことらしい。詳しくは分からないけどね」
「研究機関?」
半ば上の空で話を聞いていたジタは、反省するように額に手を当て、引っかかった言葉についての説明を求めた。
「動物愛護団体のひとつに、AWL<Animal's World for Life>――オウルってのがあってね。表では動物実験の廃止を叫んでる。でも、裏では変外の原因究明のために動物をいじくり回してる、っていう本末転倒な組織さ。実際は、なにをしたいのか謎だけどね」
「原因を探りたいという気持ちも分からないでもない。たまったものではないが」
「組織は関係ないから安心していいよ。いや、関係なくなった、と言うべきかね。人間に変わる瞬間は誰の目にも触れなかったから、アンタたちを元動物だと見抜く術はもうないんだ」
捕縛されてしまうのだろうか、という不安を抱いたジタの心を見透かしたかのように、ハレルは優しく声をかけた。ジタが胸を撫で下ろすのを見て、話を続ける。
「変外すると、動物だった頃の名残があったりする。大抵はひとつかふたつだけどね。聴覚だったり、嗅覚だったり、ひとそれぞれさ。アンタたちにも、きっとなにか残ってると思うよ」
「不便に感じることならあるが……」
「逆に考えればいいのさ。不便に感じないのは、名残がある証拠だよ」
「では、私は耳かもしれない。これだけは違和感がないようだ。ランドはどうだ?」
不意に話を振られたランドは、「んあ?」と大きく口を開けた。
「聞いていなかったのか……」
「ジタが聞いてりゃ問題ねぇだろ。だいたい、マジメに分かろうとしたら、すぐに眠くなっちまう。寝ながら聞いていいなら頑張るけどよ」
それは努力してるとは言えない。と指摘しようとしたジタだったが、すぐに考え直し、あきらめたようにランドの口を片手で塞いだ。
「すまない、ハレルさん。続けてくれないひゃっ!」
なにを思ったのか、ランドが口に当てられていた指に噛みついた。
情けない声を漏らしたジタは慌てて手を引っ込め、歯形の残る人差し指をうらめしそうに睨んだ。ついでとばかりに痕をつけた犯人にも鋭い視線を向ける。
「美味そうな指を差し出すもんだから、つい」
その犯人はというと、悪びれた様子もなく、逃げるように窓際に移動していった。
「食べてもらうために手を伸ばしたわけではないのだが……」
ジタは嘆息しつつ、視線でハレルに話の続きを求める。
二人のやり取りを目を細めて見守っていたハレルは、頬杖をつき、
「なにか質問はあるかい?」
「名残には『腕力』というものもあるのだろうか? さきほど、ランドが家のドアを壊してしまったのだ。……そのことについて謝らせてほしい」
扉を破壊してしまったことに対し、ジタは丁寧に頭を下げる。すると、ハレルは「いいよいいよ」と笑って許してくれたのだった。
「あの扉はかなり丈夫な造りだから、ランドは『力』で間違いないと思うよ。あたしの見立てだと、五百キロは持ち上げられるだろうね」
「ご、ごひゃく?」
尋常ではない数値に、ジタは目をまん丸にしている。
「そういうものなのさ。アンタも、狼のとき以上の聴力があると思うよ」
ジタの反応が愉快だったらしく、ハレルは大笑いしはじめた。しばらくして、ひとしきり笑い終えると、本題に入ることを伝えんとばかりに表情を引き締めた。
「肝心なのはここからさ。いいかい? アンタたちは人間になったんだ。これからは人間として生きていかなきゃならない。そして、生活していくためには糧となるものが必要になる」
「……食事か」
「そうだね。小屋に用意しておいた食べ物で一週間は凌げるだろうよ。でもね、この先はアンタたちの力で手に入れなきゃならない。厳密には、お金を稼がないといけないのさ。つまり、働く必要がある。もちろん、村を出て暮らすってんなら止めやしないよ」
「この先をどうするか、だな」
ハレルはうなずいて答えると、自分の用は終わったと言わんばかりに、机の端に積んであった書類に手を伸ばした。
「話し合いたいだろうから、明日また来るといい。あ、それから、住む場所が決まるまであの家を使っていいよ。村に残る気があるならずっと住んだって構わない」
ジタは窓の外を眺めていたランドに近寄り、シャツの裾を軽く引っ張った。
「村を出るか、村に残るか、選ばなければならない」
「ああ、お前の声は聞いてた。それで、どう思うんだ?」
問い返され、一分ほど黙考したジタは、
「しばらくはここで暮らすべきだと思う。行く宛てもない」
「そこの姉さんよ、そういうことだ」
ランドは微塵の不安さえも抱いた様子なく、ジタの案に従う。
「早いね。滞在が決まったところで、あたしからひとつ提案があるんだ。仕事が見つかるまで、村のために働いてみないかい?」
ハレルは返事を待たずに、アントダースの村について説明しはじめた。
現在、村は慢性的な水不足に陥っている。生命線だった井戸水が、一ヶ月前に使えなくなったのだそうだ。そのため、村人たちは建設中の簡易水路まで水を汲みに行っている。片道五キロもの道のりを、来る日も来る日も往復しているのだ。大家族ならまだしも、少人数の家庭にとっては大きな負担となっている。
そこで、『事態が改善するまで、飲料水の運び屋になってほしい』とのことだった。
問題点が多すぎて悩みに悩んだジタだったが、試しに挑戦してみよう、と条件付で承諾したのだった。
そう決心させた理由は単純だ。ランドもジタも、とてもではないが雇われ仕事をこなせるとは思えなかったのだ。なにせ、敵であった人間と友好的な関わりを持たなければならないのだ。人間のモラルを得たからといって、簡単に割り切れるものではない。
「明日は準備に費やして、仕事は明後日からになるだろうね。今日は自由にしてるといいよ」
*
今日は村を見物するといいよ。とハレルから進言されたのだが、二人の足は人里から離れていった。振り返れば、高山を背にした家並みが遠方に広がっている。
「上手くやっていけるだろうか」
「よく分からんけど、上手くやっていく必要があるのか? 下手でもいいんじゃないかね。おれはメシが食えればそれでいい」
「下手でも、か……。ランドは大人なのだな」
ジタは気弱そうにうつむいている。
そんな様子を見兼ねたのか、ランドはジタを抱え上げ、強引に肩車してしまった。
「こ、こらっ、なにをするのだ!」
頭を叩かれ、髪を引っ張られ、どれほど抵抗されようとランドはお構いなし。細い両足をがっちりと掴まえると、村里を振り返った。後ろ歩きしながら、遠ざかっていく家々を眺める。
「ジタよぅ……無理してここに残る必要はねぇだろ。行く宛てがない、とか言ってたけどよ、住み処を探しに旅してもいいし、お前が生まれた場所を目指すってのも悪くねぇ」
確かに、今は目的がない。しかし、その気になれば、やる事はいくらでもある。ユルゲンド草原が平穏になったのか調べるも良し。人間の姿になった原因を探るも良し。考えれば考えるだけ、選択肢は増えていくだろう。
それを理解していながらも、ジタはあのとき――ハレルからの問いに、『村に残る』と答えを出した。ランドが人間を憎んでいること、また、負担を強いてしまうことを承知の上で。
人間と関わっていく道を選んだのだ。
「……私は、無理をしてでもこの村で暮らしていきたい」
「無理してぇのか? よく分からん」
ジタは胸の内にある感情を確かめるかのように、ランドの髪にそっと触れた。
あの美しい獅子に似た毛並み。あの美しかった獅子とは違う毛並み。言葉にならない感動を覚えながら、しっかりとうなずく。
「ああ、無理をしたい。苦労を覚悟で、前へと踏み出したい。ただ、それにはランドが居ないと……一人では意味がないのだ。どうか、私に付き合ってもらえないだろうか」
「おう」
ランドは迷いなく答える。
「……ランドよ、人間と関わることになるのだ。安請け合いすると後悔してしまう」
「おうよ」
ランドはまたもや即答すると、進行方向を反転させた。ジタを抱えたまま、村に向かって全力疾走しはじめる。ときどき、びょんびょん飛び跳ねながら、草原に大きな足跡を残していく。
「おれには、ジタが考えてることはさっぱり分からん。苦労なんてしたくねぇし、人間だってどうでもいい。でもよ、おれもここに残るぞ!」
ふぅむ、と年寄り臭い声を漏らしたジタは、要領を得ない様子で首をかしげた。
「なぜ嬉しそうなのだ……?」
一緒に居てほしい、と望まれて、どうしようもなく嬉しかっただけなのだが――結局、ジタがその原因に気づくことはなかった。
*
虫たちの声がやけに賑やかに聞こえる午後九時。ハレルの屋敷の明かりは灯ったままだった。
アントダースの村には電気が通っていないため、太陽の高さが生活時間の指針となる。夕焼け空が広がるとともに就寝の準備をする家も少なくない。
そんな村にしてはかなり遅い時間帯だが、屋敷の主は忙しそうに書棚を物色していた。
一ヶ月前に井戸水から毒が検出されて以来、村は窮地の真っ只中にある。歴史を紐解いても、水不足の村が存続した例は多くない。
井戸の復旧は進めているが、以前のように安心して水を使えるまでになるには、まだまだ時間を要する。簡易水路を建設していたのだが、それは一週間前の大雨による地滑りで頓挫してしまった。
新たな井戸を掘るという案や、溜め池を造るという案もあったが、岩盤や水質維持などの致命的な欠点があって実行には移されていない。
これといった代案もなく、村人たちは頭を抱えている。
そんな中、ハレルは村長の役目を果たそうと、古い書物から資料をあさっていた。
「おや……まだ起きてたのかい」
嗅覚の『名残』があるハレルは、扉を閉めたままにもかかわらずホットミルクの香りを嗅ぎ取った。数分後に部屋にやって来るであろう同居人のために、わずかに扉を開けておく。
しばらくすると、ヒアシレィズがひょっこりと顔を出した。その両手は、大きめのトレイで塞がっている。
「ミルク、飲む?」
「もちろんだよ。気が利くね」
ハレルは資料を書棚に戻し、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべた。差し出されたトレイからマグカップを取り、砂糖入りミルクに口をつける。どこか気取った仕草でミルクを堪能し、パチンと片目を瞬いて『美味しいよ』と合図を送る。
すると、ヒアシレィズは微かに目を細めた。
「眠れないのかい?」
「昼寝した」
「……まったく、仕方のないコだねぇ」
ハレルは眉間に寄ったしわを隠すため、大げさな動きでミルクを啜った。今日の昼は、ヒアシレィズは畑仕事の手伝いに出ていたはずだ。昼寝をする時間があったとは到底思えない。
嘘を吐いた理由――嘘を吐かせてしまった原因は明白だった。多忙なハレルのことを心配しているのだ。
「そういえば……最近、ゆっくり話してなかったね」
「うん」
ヒアシレィズに質問を投げかけたのは、いつ以来だったろう。井戸の事件があってからというもの、ろくに会話をした記憶がない。
「あのライオン、ちょっとだけアンタに似てたね」
ヒアシレィズは、ぼうっとした様子でトレイと睨めっこを始め――数秒後、わずかに首をかしげた。
「似てない」
「そうかい? 波長が近い、とでも言うのかね。ヒアシレィズと話してたのがあまりにも自然で、びっくりしちまったよ」
「分からない」
ハレルは、相変わらず表情の変化に乏しいヒアシレィズをしばらく見つめ――意を決したようにミルクを飲み乾した。
「昼に話してて思いついたんだけどさ、あの二人と一緒に暮らしてみる気はないかい?」
ヒアシレィズはスローテンポで目をぱちくりさせている。
「アンタに友達ができない理由……違うね、友達を作らない理由か。言わなくても分かってるよ。気持ちも少しは理解もできる。でもさ、そんなの寂しすぎるじゃないか」
ヒアシレィズが人間に変外してから約五年。ハレルの元ですくすくと成長してきた。
しかし、それは体だけの話。心は止まったままだ。
村には同年代の子供が多いが、ヒアシレィズには友達と呼べる相手がいない。
それも仕方のないことだろう。体は十歳ほどでも、精神年齢は数歩先を行っているのだから。変外の特殊性のおかげで、知識に至っては大人顔負けだ。
同年代の子供たちと戯れるのは無理があり、かといって年上の者と対等に接するのも困難。そんな状況下では、友人を作るのも簡単ではない。
――だからこそ、自分から踏み出さなければ、なにも変えられはしないのだ。この五年間を通して、ハレルは痛感させられていた。
「あの二人と一緒に始めてみないかい? 子供扱いされたっていいじゃないか。それでもきっと、村の誰よりも真剣に付き合ってくれるはずだよ。もう一度、逃げずに向き合ってみな」
ハレルはヒアシレィズの前に屈み込み、目線の高さを同じにした。村長としての命令ではなく、家長としての頼みでもない、ただの友人としてアドバイスしているのだ。
「――とは言っても、強要する気はないんだ。よく考えて、自分で選びな」
ヒアシレィズがわずかにうつむく。
そんな小さな動きからでも、ハレルだけは心情を読み取れる。
――強い不安感。そう察しつつも、ハレルは引き下がらなかった。どんな答えが返ってくるか、知っていたから。
*
明くる朝――屋敷を訪れたジタは、思わぬ提案を受けて目を丸くした。突拍子もなく、『ヒアシレィズを雇ってほしい』とハレルに頼み込まれたのだ。それも三食寝床つきで。
つまり、住み込みのアルバイトとして、年端も行かない子供を推薦されたのだ。
聞けば、ヒアシレィズには村での役目があり、起業の手伝いをしているとのこと。
「私としては人手が増えるのはありがたいが、本人は納得していないのではないか?」
ジタは館の住人を交互に見やる。
すると、ドアの前で背筋を伸ばして待機していたヒアシレィズがひくりと首を動かした。表情は豊かではないようだが、緊張した雰囲気が伝わってくる。
「これは喜んでるのさ。ランドと一緒に水を運ばせるといいよ」
「いくらなんでも、それはさすがに過酷すぎる。店番をしてもらえるだけで十分だ」
ヒアシレィズに水を運ばせるのは無理、とジタは判断した。体の大きさから考えて、十リットルも持てればいいほうだろう。さらには、それを継続していく体力も必要になってくる。
「ライオンとオオカミ、合わせて三百キロは下らないアンタたちを運んできたのが誰だか話したはずだよ」
「ヒアシレィズが運んでくれたとは聞いたが……そうか、動物だった頃の名残があるのだな」
言っている最中に変外の説明を思い出したのか、ジタは驚いたように目を見開いた。
「ランドと同じく、動物だった頃の『力』を引き継いでるのさ。下手したら、ランドより腕力があるかもね。もっとも、物を持ち上げたりする純粋な力のみで、速く走ったりはできないんだけど」
力勝負に敗れるランドの姿でも想像したのか、ハレルはふたりを見比べながら含み笑いをしている。
そんな視線など意に介さず、ランドはヒアシレィズにゆっくり近寄り――
「じゃあ、遠慮なく借りていくぞ」
荷物でも扱うかのように粗雑に脇に抱えた。
「あっ」
ヒアシレィズが細い声を漏らす。しかし、反応はそれだけだった。唐突に腹に腕を回されて抱えられたというのに、暴れる様子もなく体の力を抜いている。
自分へ向けられている視線に気づいたのか、機械的な動きで首を回し、ぼんやりとした瞳で大男を見上げた。
「よろしくな、ちっこいの」
目が合うと、ランドは口を大きく横に開いて笑いかける。
「うん」
ヒアシレィズは抑揚のない声で短く応えた。
それぞれ独特の雰囲気を持つ二人の間に、不思議な空間が生まれる。無言のままにもかかわらず、語り合っているようでもあった。
「あれで構わないのだろうか」
無遠慮なランドの行動に焦ったジタだったが、ヒアシレィズがまったく抵抗しなかったので、今は静観している。
「いつもあんな感じさ。今日は特別に機嫌がいいみたいだけどね。……イタズラしちゃいけないよ?」
「だ、だれがするのだ!」
期待どおりの反応に満足したハレルは声高に笑った。
言葉の意味を飲み込めなかったランドは、
「いたずら好きなのか?」
などとヒアシレィズに問いかけるのだが、すぐさまジタに止められるのだった。
ハレルから譲り受けた村の地図。運んだ水を貯めておく綺麗なドラム缶が四本。水を移すためのホースと手桶。看板などに使う木材。水を運ぶ道具には、水路建設に使われていた『水筒』と呼ばれる巨大な鉄の筒が二本。
これらがジタのお眼鏡に適った開店に必要な道具だ。
大荷物を抱えた三人は、心なしか人が少ないメインストリートをヒアシレィズの歩くペースに合わせて進んでいた。
途中、ジタは地図と村の建物を見比べると、小走りでメインストリート脇の平地に向かっていった。石畳の道から外れ――芝生に変わったところで足を止め、ゆっくりと回りながら周囲を確認する。
正面には、石畳の敷かれたメインストリート。背後には、木造の古家。右隣は、芝生が続いている。左隣には、奥の民家へ向かう路地。その路地を挟んだ先には、老人が営んでいる木製の手作りおもちゃの店。趣味で開いている店なのか、店番をしている老人はゆったりとした椅子に座り、こっくりこっくりとうたた寝をしている。
ジタは、うん、と大きくうなずいた。
「ここが私たちに与えられた場所のようだ」
この村――アントダースでは、メインストリートの両脇が商売の場となる。申請した順に、村の中心に近い場所を使用できるというルールだ。よって、二人が露店を出す位置は人どおりが少なかった。
しかし、ジタは悲観していない。絶好の場所、とすら考えていた。
水を宅配するという商売の性質上、客の名前と住所さえ聞けばいいので、静かな場所のほうが適している。それに加えて、水場にも近い西側なのだから文句はない。
アントダースは、東西に伸びるメインストリートを囲むように村が形成されており、ユルゲンド草原と同じように細長い構造になっている。
二人の家は東端に。ハレルの館は西端に。そして、造りかけの水路はハレルの館よりさらに西に位置している。
現場に来てみるまでは深く考えていなかったジタは、店の場所を指定したハレルの配慮に感服した。
「うるさくなさそうでいいな」
ランドは肩に抱えていた三本のドラム缶を乱暴に下ろした。それに倣い、ヒアシレィズもドラム缶を並べて置く。
「二人とも、ご苦労様。まだ昼だが、今日は家に戻ろう。詳しい打ち合わせも必要だ」
「とりあえずメシにしようぜ。ちっこいのも腹減っただろ?」
ランドはヒアシレィズの小さな手を掴み、空に放り投げるようにして右肩に乗せる。『ちっこいの』のことがすっかり気に入ったようだ。
「減った」
ヒアシレィズは相変わらず大した反応は見せない。しかしながらも、普段と違う視点の高さに興味が沸いたらしく、ぎこちない動きで市場を見渡している。
ランドはさらにジタの腰を引き寄せ、そのまま器用に左肩に担ぎ上げた。
「お、お前はまたこういうことを……」
口では拒否しつつも満更悪い気はせず、ジタはバランスを取るようにランドの頭に右手を置く。毛髪越しに伝わってくる熱に不思議な感情を覚えつつ、遠慮がちに左手も添えた。
「ほら、美味そうなものを探せ。家に着く前に見つけないと、二人とも食っちまうぞ」
逃がさない、とでも言わんばかりにランドは二人を固定する腕に力を込め、体を揺らしながらくつくつと笑った。
「探す」
脅しを本気にしてしまったのか、ヒアシレィズは真剣に露店を見回しはじめる。
「私も食べられたくないな」
そんな一幕がおかしくて、ジタは細い指を唇に当てて忍び笑いをするのだった。
「どうだ、ちっこいの。美味いだろ」
ランドはテーブルに並んだ料理を得意げに自慢する。
「美味い」
ヒアシレィズはコクリとうなずき、小さな口にスープを運んでいく。背筋はピンと伸び、食事する音もほとんど立てないため、育ちがよさそうな印象を受ける。良家の子息だと紹介されても疑いはしないだろう。
「その『ちっこいの』という呼び方はどうかと思う。しばらくは一緒に暮らすのだから、名前は覚えるべきだ」
「そうだな。ちっこいのは、なんていう名前なんだ?」
なにを今さら、とジタは頭を抱えた。
「ヒアシレィズ」
本人から名前を聞いたランドだったが、なぜか視線を天井へと向ける。
「……もう一回、言ってくれ」
「ヒアシレィズ」
記憶に刻もうと努力しているらしく、大きな動作で何度もうなずくと、
「悪いけど、長すぎて覚えられねぇ。ピアでもいいか?」
軽い音がしそうな頭を叩きたくなる衝動を抑え、ジタはきつく目を閉じた。
ニックネームをつけるのは悪いことではないが、その理由が『覚えられないから』となれば話は別だ。増してや出会ってから間もない相手なのだから、からかわれていると思われても不思議はない。
しかし、ヒアシレィズは気を悪くした様子もなく、「いい」と淡々と承諾した。
ジタは、その温厚さに胸を撫で下ろす。
「なぜ、ヒアではなくピアなのだ?」
「おれが持ってる知識だと、子供の頃は名前を少し変えるらしい。一族の男は、一人前になるまで本当の名前で呼ばれないんだとよ。濁音でビアでもいいんだけどよ、アルコールが入ってそうで変だろ」
説明している間も、ランドは食事の手を休めない。計算したかのようにきっちりと他の二人の分を残し、用意された料理を腹に収めていく。
「ぼく、女」
「細かいことは気にすんな」
「しない」
何事もなかったかのように話題を五秒で打ち切り、ヒアシレィズは食事を再開する。
「……タキシードを着ているから、てっきり男の子かと思っていた」
昼食が終わるまで、ジタは女の子をまじまじと観察していた。
ハレルさんの趣味だろうか。などと邪推しながらも。
仕事の役割は簡単に決まった。ジタ以外は滅多に意見を出さないので、口論になるほうが難しいというものだ。
ランドは水路から村までの水の運搬。ヒアシレィズは水の宅配。ジタは店番と接客、水の計量、小口の注文の宅配。
明日から商売を開始するということで、本格的な下準備を始めた。
「ジタよぅ……」
ランドはジタが作った看板を見て、憐れむように目を薄くする。
「言うな。自分でも分かっているのだ」
ジタは絵の具で汚れた手を腰に当て、ふうぅぅ、と突風が起こりそうなため息を吐いた。
「読めない」
行儀よく椅子に座っていたヒアシレィズが、首をかしげながらつぶやいた。
ジタはとてつもなく字が下手なのだ。それに加えて絵心も皆無なため、看板の出来はひどいものだった。この世の物とは思えない毒々しい色使い。イカ墨スパゲティをぶちまけたような文字。名のある学者でも、看板の内容を読み取ることはできないだろう。
「実を言うと、作った私にも読めない……。なぜこんなにグロテスクなものになってしまったのだろうか。絵の具か? 絵の具が悪かったのか? それとも木の繊維か?」
ジタは床に置いてある看板の周りをうろうろしながら、おぞましい姿になってしまった原因を分析している。
「そういう問題じゃねぇ気がするけどな」
ランドは「なあ」と同意を求めるようにヒアシレィズに話を振る。
すると、女の子はおもむろに椅子から降り、床に置いてあった絵筆を拾い上げた。
「ぼく、描ける」
床が汚れないように敷いていた白い紙を一枚だけ抜き取ると、看板の横に屈み込んだ。右手で両足を抱え、左手に握った筆を躍らせていく。
興味津々のランドは背後から紙を覗き込み、ほう、と声を漏らして感心した。
小さな手が創り出すのは、力強く、繊細で、ポップなイラスト。芸術品とまでは言えなくても、落書きと称するには失礼だと感じるほどの作品だ。
「上手いもんだな。絵が好きなのか?」
「わりと好き」
心なしか声に喜びの色を混ぜたヒアシレィズは、筆をさらに加速させる。
「ジタよぅ――」
「頼むから口にしてくれるな。あの不気味看板に、この絵を貼りつけよう」
ランドが言わんとしていることを気取ったジタは、自らの完敗を認めた。
「想像以上の出来だ。ありがとう、ピアのおかげだ」
ジタは壁に立てかけた看板を眺めながら、うんうん、と満足げにうなずく。
道行く人々の目を引く色調。なにを扱う店であるかが瞬時に伝わるデザイン。温かみのある文字。この仕事に文句をつけるのは、よほど偏屈な人間くらいだろう。
「いい」
ヒアシレィズは注視していないと気づけないほど微かに口の端を吊り上げ、ぼんやりとした瞳で完成した看板を見つめた。
「次はなにをすればいいんだ?」
ランドは問いかけながらも視線は送らず、ヒアシレィズを空中に持ち上げて遊んでいる。人形のように為すがままのヒアシレィズだったが、どこか楽しんでいるようでもあった。
「水汲み場まで出向こうと思う。ランドがとおる道を覚えていないと、不測の事態が起こったときに困ってしまう。――ピア、案内してもらえるだろうか」
「する。でも、遠い」
この家からハレルの館までが二キロ弱。館から水路までが五キロ。ランドの足なら一時間で踏破できる道のりも、三人では倍の時間を要するだろう。
「ハイキング気分で楽しんで行こう。あ……その、嫌だろうか」
自分の発言が幼稚だったと思い込んだジタは、不安そうに眉を下げた。
ランドはくつくつと笑い、
「弁当つきじゃなきゃ却下だ。な?」
ヒアシレィズをジタの眼前に差し出す。
「お弁当」
完全に手なずけられたヒアシレィズがつぶやくと、分かってるじゃねぇか、とランドがにんまりと笑顔を見せた。
さきほど食べたばかりではないか、とジタは胸の内でぼやきつつも、それと同時に、
「サンドイッチなら、すぐに作れそうだ」
悪くないな、とも思うのだった。
年齢の割に博識なヒアシレィズに草花の名前を尋ねつつ、三人は平坦な道をゆっくりと歩いていた。
ランドはしきりに『これは食えるのか?』と質問し、その度にジタは弁当を詰めたバスケットを胸元に引き寄せるのだった。
「考えていたよりも、いい道なのだな」
どこかランドの故郷を連想させられる見晴らしのいい草原に囲まれ、ジタは気持ちよさそうに目を閉じた。淀みのない空気を胸いっぱいに吸い込み、しばらくの間、風を感じる。
「おれには道の良し悪しなんてよく分からん。もっと荒れてたほうが踏み心地がいいのかね」
ランドは足元の小石を草むらに蹴り入れた。
その両肩には『水筒』と呼ばれる鉄の容器が背負われている。中華鍋の底をとてつもなく深くしたような姿形で、重量は一本で五十キロにも及ぶ。これに水を入れて運ぶというわけだ。
「そ、そういう意味ではなくてだな。なんというか、その……」
ロマンチックに世界を感受していたジタだったが、一瞬にして現実に引き戻される。
「食べられる草、多いから」
悩んでいるジタを見兼ねたのか、ヒアシレィズが的を大きく外した結論を代弁した。
「なるほどな、それならおれにも分かる。食える道、ってのも悪くねぇな」
なぜか納得してしまうランド。
「違うのだ。そうではない。つまりだな……」
――懐かしい。
その一言が、ジタにはどうしても口に出せないのだった。
人間になってしまい、戻れなくなった故郷。自分の生地に感慨を抱かないジタには、ランドの気持ちを推し量れなかった。
「その……ここの空は、ユルゲンドと似ている。そう思ったのだ」
「ゆるげんど? 空に似た草なんてあるのか?」
ジタは途端に、むっとした顔になる。
「それはさすがにひどいのではないか? 私たちが出会った草原のことだ」
「そう怒るなよ。あそこで暮らしてたときは、草原の名前なんて知らなかったからな」
「……言われてみれば、そのとおりだな。人間と関わらなければ、草原の名を知ることはなかった」
「けどよ、呼び名なんて関係なしに、おれは忘れてねぇぞ。ずっとずっと憶えてる」
思いを馳せるように目を細めるランド。
その横顔を見つめながら、ジタは胸が温かくなっていく感覚に酔う。バスケットを壊してしまいそうなほどきつく抱きしめ、ほんのりと頬を上気させている。
「そうだな。そうだった。草原もランドも私も、根っこの部分は変わらないのだな」
自分の中にある確信を噛み締めるように、しっかりと声に出した。
「おう。掘り返してやれば、同じ根っこがある。どこだって同じだろ。変わったりしねぇよ」
色気のある男声が、ジタの心に染み入っていく。
言い表せない不思議な感情に耐え切れなくなったジタは、照れたようでいてどこか困り顔にも似た微笑みを浮かべ、晴れ渡った空を見上げた。
「生きる大地が変わっても、花は花であり、鳥は鳥なのだな」
それでも、変わってしまったものもある。
二匹は二人になり、ジタは人間として暮らしていくことを受け入れた。狼だった頃から抱いてきた想いを秘める必要はないのだ。
「花より鳥のほうが美味いのは間違いねえけどな」
ジタは妙な違和感を覚え、ん、と曖昧な声を漏らした。
「……なんの話をしているのだ?」
「道の話だろ?」
要領を得ない様子で首をかしげたジタは、歩きながらしばらく考え込み――会話が噛み合わない原因を知って、がくりと肩を落とした。
ランドは最初から、食べられる草の話をしていただけだったのだ。『どの草原に生えている草も、どうせ味は同じだろ』と。
「弁当が見えてきたぞ」
「……見えてきたのは川だ」
緩やかな傾斜の先に、細長い川が流れていた。源泉が近いのか、川底が鮮明に見えるほど水が透きとおっている。
川沿いには農園が並び、時折、果実の甘酸っぱい匂いが風に運ばれてくる。
向こう岸には牛が放牧されており、時間の流れを忘れそうなほどのんびりとした風景が広がっていた。
牛舎や養鶏場と思わしき大きな建物もある。遠くの音までも聞き分けるジタの耳には、鶏の鳴き声がはっきりと届いていた。
それらの飼育主のものと思われる民家が五軒、身を寄せ合うように建てられている。助け合いながら畜産業を営んでいることが見て取れる。
岩だらけの川辺に着くなり、ランドは適当な石を見繕ってテーブルを用意しはじめた。
わざわざ石を運ぶ必要はないのだが、そこまで気が回っていないようだ。頭の中は『弁当』で満たされていることだろう。
食い意地の張った大男を笑顔で見つめていたジタは、テーブルにバスケットを置き、
「食事の前に、川で手を洗おう」
子供に躾をするように優しく言いつけた。
「いや、汚れてねぇって。早く食おうぜ」
土がついた手をジーンズで拭いながら、ランドはサンドイッチに引き寄せられていく。
そのまま、ジタの横をとおり過ぎたときだった。
「いっ、いててて!」
ランドが頭を押さえながら苦悶の声を漏らした。長い後ろ髪をジタに引っ張られたのだ。
「ここで、二択問題だ。手を洗うか、洗わないか、どちらかを選ぶのだ。間違えてしまったら、サンドイッチに触ることも許されない」
「よし、じゃあ洗わん。どうだ? 食えるか?」
わざわざクイズにしてしまった己の馬鹿馬鹿しさに、ジタは嘆息した。
「食べられない……が、手を洗うなら食べられるかもしれないな」
「わ、分かったよ。洗えばいいんだろぅ」
泥なんて気にすんなよ、などと渋りながらも、ランドはジタと並んで歩いていく。
要領の良いヒアシレィズは、すでに川縁で手をすすいでいた。
「おう、ピア。早ぇな」
ヒアシレィズは返事をするように一瞬だけランドと目を合わせると、再び川へと視線を戻した。手は洗い終えているというのに、一向に立ち上がる気配はない。
ジタは隣に屈み、膝を抱え込む。
「なにが見えるのだ?」
「魚」
短い腕を伸ばしたヒアシレィズは、水面下――岩陰に隠れている魚を指差した。
魚と聞いて素早く反応したランドは、二人の間に顔を入れる。
「どこだ? 食えるか? 美味いか?」
「そこ。食える。美味い」
ヒアシレィズの律儀な答えを聞き、ランドは迷いなく――
「なッ?」
――川に飛び込んだ。
派手に噴き上がった水しぶきが、ジタとヒアシレィズに降りかかる。突然のことで対応できず、二人は大量の水を頭からかぶってしまった。
「おおっ?」
髪先から水を滴らせながら、ランドは驚きの声を上げた。手の中で暴れる川魚を凝視したまま、興奮したように鼻の穴を広げていく。
「見てくれよ! 魚なんて初めて捕まえたぞ!」
ずぶ濡れのランドは、さらにずぶ濡れのジタに笑いかける。
最初は怒り顔のジタだったが、ランドの純心なはしゃぎっぷりには勝てず、優しく微笑み返したのだった。
「そうなのか。では、夕の食卓に並べられるように頑張って料理しないといけないな」
「おう、頼むぞ!」
威勢よく料理担当の肩を叩いたランドが、川から上がろうとした――そのときだった。
「お、おおっ……」
ランドの体が徐々に傾きはじめた。困惑気味の声を出しながら、巨体が横になっていく。
川底の石に足を取られ、イメージどおりに岸に上がることができなかったのだ。
「ランド!」
ジタが懸命に体を支えるが、その細腕でどうにかできるほど体重は軽くない。ジタの踏ん張りも虚しく、ランドは地面に倒れていく。
よほど食料が惜しかったのか、魚を両手でしっかりと握ったまま――
「ぐあっ!」
見事なまでに顔面から着地した。大男を嘲笑うかのように、暴れる魚がびちびちと尾を鳴らしている。
隣では、伸ばしかけた手をそのままに、ヒアシレィズが目を丸くしていた。まさか魚を放さないとは思いもしなかったのだろう。転倒する速度があまりにもゆっくりだったため、手を突き出すだけで難なく回避できるはずだったのだ。
「だいじょうぶ」
ヒアシレィズは感情のない声で、しかし申し訳なさそうに、ランドの身を案じている。
「おう、メシは無事だぞ」
顔だけを起こしたランドは、ヒアシレィズの目の前に魚を持っていく。
「うん」
会話は明らかに噛み合っていないのだが、ランドの状態を見て納得したのか、ヒアシレィズは静かにうなずいた。
「魚を『水筒』に入れたら、お待ち兼ねの食事にしよう」
「やっとか。腹が死にそうだぞ」
岸に這い上がろうとした拍子に左足の靴が脱げ、ランドはまたもや情けない声を漏らした。獣皮製の大きな靴は、回転しながら川を流れていく。
「拾うのだ!」
ジタの声に反応し、ランドは川に身を投げ出しながら片手を伸ばした。魚を獲ったときと同じく、大量の水が岸辺に降り注ぐ。
またなのか、とジタはあきらめたように目を閉じた。全身がびしょ濡れになったのは、それから一秒もしない内である。
うな垂れたジタが、動物のように体を振って水を払っていると、
「……ジタよぅ」
ランドが涙声を発した。
「なんだ?」
「靴ってのは食えるのかね」
「い、いや、さすがに無理ではないだろうか」
言いながらジタは、ランドが魚を逃がしてしまったことに気がついた。靴を掴んだときに、手から注意がそれたのだろう。
「メシだ! メシを食うぞ!」
ランドは恨めしそうに靴を握りしめ、自棄になったように叫んだ。いつになく機敏な動きで川からあがり、一目散に弁当の元へ向かっていく。
「靴のほうが高価なのだが……」
ジタはヒアシレィズと手を繋ぐと、大きな背を追いかけた。
すると、数歩も進まないうちにランドが立ち止まった。
その視線の先には、サンドイッチが詰められたバスケットではなく、十羽以上もの鶏の群れがあった。
大柄の鶏は一箇所に集まり、なにかを啄ばんでいる。
「なんだありゃ?」
「にわとり」
「なにしてんだ?」
「食べてる」
「なにをだ?」
「お弁当」
「……誰のだ?」
「ランドの」
ヒアシレィズの冷静な返答を受け、ランドは猛然と駆けだした。
「てめえら! 食っていいものと悪いものの区別もつかねえのかッ! そいつはどう考えても食っちゃいけねぇモンだろうが!」
怒りに吠えるランドは、鶏に向かって靴を投げつける。濡れた靴は水滴を撒き散らしながら飛んでいき、鶏の群れの手前に落ちた。粘着質な音を立てた靴は、含んでいた水分を辺りに放出した。
その音に素早く反応した鶏たちは、羽音を鳴らしながら慌てて逃げ出していく。
「このッ――」
ランドは泣きそうな顔をして、無惨な姿になってしまった愛しき弁当に走り寄った。
倒れたバスケットから飛び出したサンドイッチは、もはや原型を留めていなかった。残っているのは、土まみれになった小さなパンくずと野菜の切れ端のみだ。
「野生の鶏ではないようだな。なにかの手違いで、逃げ出してきたのだろう」
ジタは放心状態の大男の肩を叩きながら、遠くに見える養鶏場に目をやった。大きめの建物からは、鶏の鳴き声が絶えず漏れてきている。
一方、サンドイッチを食らった鶏たちは、ジタたちから一定の距離をとったまま寄り集まっていた。腹を空かしているのか、しきりに地面をつついている。
くっくっくっくっ。
こっこっこっこっ。
その声は、まるでランドを挑発しているようにも聞こえる。
「しかし……手を洗おうとしただけで、なぜこれほどのトラブルが起こるのだろうな」
ジタはランドを元気づけるように笑いかけた。
しかし、ランドは笑い話で終わらせるつもりはなさそうだ。安定しない足取りでゆらりと立ち上がり、
「おれはメシを食われた。だから、あのトリを食べ返す。ルール違反じゃねぇよな?」
食べ返す、というめずらしい物言いに困惑しつつ、ジタはランドを落ち着かせるように両手を振った。
「い、いや、どうだろう……。あの鶏は誰かのものでは――」
「じゃあ、あれだ。セートーボーエーってやつだ!」
八つ当たり気味に大声を張り上げたランドは、ジタの返事を聞かずに走り出した。
「に、にわとりに正当防衛など聞いたこともない……。そもそも、正当防衛はどうすれば成立するのだろう?」
ジタが悩んでいると、
「命の危険」
ヒアシレィズが淡々と答えた。
「弁当を盗られるのは命の危険か。ランドなら、ありそうだな」
「うん」
二人がそうこうしている間に、大男と鶏の戦いは始まっていた。
ランドは雄叫びを上げながら、鶏の群れに突っ込んでいく。これでは、相手に逃げて下さいと言っているようなものだ。
案の定、臆病な鶏は大声に驚き、二手に分かれて逃げていく。
「逃げんな!」
左に七羽、右に五羽。どちらを追うのか。
残念ながら、ランドには決められなかったようだ。左でも右でもなく、真ん中へ走り込んでいった。
ランドは呆然とした表情で立ち止まる。
「なぜ、どちらかを追わなかったのだ?」
「……全部捕まえてやろうかと思ったら、間に行っちまった」
それを聞き、ジタは腹を抱えて大笑いしはじめた。体の振動でスカートから落ちた水滴が、足下の石を暗い色に変えていく。
「笑ってないで手伝ってくれよぅ……」
「ああ、ああ、分かった。その代わり、生きたまま捕まえるのだぞ?」
目尻に貯まっていく涙を細い指で拭いながら、ジタはなんとか笑いを堪える。
「ピアも手伝ってくれるだろうか?」
ヒアシレィズの首肯を合図に、鶏の捕獲作戦が始まった。
すべての鶏を捕えたのは、太陽が微かに赤みを帯び始めた頃だった。
「なあ、食っちまってもいいじゃねぇか。十二羽くらい、消えても気づかねぇよ」
三人は今、養鶏場の隣にある民家の前にいた。鶏を飼い主に返すためだ。
ランドが両脇に抱えている『水筒』の中からは、低い鳴き声が断続的に聞こえてくる。
「鶏にサンドイッチを奪われたとき、どう思った?」
「そりゃ、腹が立つだろ。ってか、今でも腹が立ってるぞ。ついでに腹が空いてる」
「もしも私たちが鶏を食べてしまったら、飼い主はランドと同じ気持ちになるのだ」
「けどよぅ、だったらおれたちのメシは誰が返してくれるんだ? メシを盗られたおれが間抜けで、トリを逃がしたやつも間抜け。それだけだろ。トリは捕まえたおれたちのものだ」
空腹時は頭の回転が速くなる、という説を裏づけるように、ランドはいつになく饒舌に語る。
「そ、それは確かに間違っていないのだが……」
どちらを正しいとも言い切れないジタが弱腰になったとき、
「違う」
と、ヒアシレィズが芯のある声を発した。
「なんでだ?」
ランドはヒアシレィズの正面に屈み込み、しっかりと視線を合わせる。
「ぼくたち、この村で暮らしてる。ひとりじゃない。助けて、助けられる。ハレルに助けられたみたいに」
「……よく分からん。けど、まあいいか。ピアが言うなら、そうなのかもな」
手が塞がっているランドは、ヒアシレィズの頭を撫でるように無精ひげを擦りつけた。
「うん」
そうこうして二人がじゃれ合っていると――民家のドアが開き、黒髪の中年女性が顔を出した。
背が高く、かなり強面な女性だ。ざっくりと切りそろえた前髪から、威勢のよさがうかがえる。使用感がある花柄のブラウスに、色褪せたピンクのパンツを穿いている。
「お?」
女性は一瞬だけ訝しげな視線を送ったあと、すぐさま目元をゆるめた。見知った女の子の姿を確認したからだろう。
「めずらしいなぁ、ヒアシレィズぅ! ハレルのお使いで来たのかぁ?」
女性は風変わりなイントネーションで話しながら、三人を観察している。
「にわとり」
ヒアシレィズは首を横に振り、ランドが抱えている『水筒』を指差す。
「ニワトリぃ?」
要領を得ない様子で、女性は首を傾げた。
そんな彼女を見かねたジタは、戸惑いがちに話し掛ける。
「か、河原で鶏を捕まえたのです。手違いで逃がしてしまったのかと思いまして」
「ああ、そうかぁ。でも、家主は留守なんだぁ。こっちも尻に火がついてるのになぁ」
女性も困り顔で家の周囲を見回している。
聞けば、彼女ことブレンダは、夫と共にレストランを経営しているらしい。急に大口のオーダーが入ったため、不足していた食材を仕入れに来たのだそうだ。そろそろ店が繁忙な時間帯を迎えることもあり、急いでいるとのことだった。
事情を聞いたヒアシレィズが、ぎこちない動きでランドとジタの顔を交互に見つめた。なにか言いたそうだが、声が発せられることはない。
その意向を汲んだジタは、
「あ、あのっ! よろしければ私たちが――」
精一杯の勇気を振りしぼってブレンダに提案した。
妙にかしこまった言葉遣いがおかしかったのか、ランドは忍び笑いを漏らしつづけていた。ブレンダを見送ったあと、頭にゲンコツが落とされるとも知らず。
「なあ、アイツは……」
ランドは頭のたんこぶを撫でながら、野道の先を凝視している。ブレンダの背中はずいぶんと小さくなっていた。
「彼女がどうかしたのか?」
「……いや、なんでもねぇ」
そう言いつつも、ランドはずっと同じ方向を見つめつづけていたのだった。
レストランの中に入るなり、ジタは半歩ほど後退りした。店内のムードがあまりにも安穏としていたため、気後れしてしまったのだ。
そんな来客者を見逃さない店主は、さすがというべきだろうか。数秒としないうちに、中年の小男が寄ってきた。
ブレンダの夫、ハーマンだ。齢五十を越えている男性で、白髪混じりのダークブロンドと整えられたひげが渋みを出し、大らかで柔和な雰囲気を持っている。身長はジタと十センチほどしか変わらない、かなりの小柄だ。柄物のシャツの裾をスラックスに押し込んでいる。
「いらっしゃい。……あぁ、もしかして、ブレンダが言っていた親切な若夫婦かな?」
「い、いや、違うのだ!」
「おや、人違いか。すまなかったね」
「そうなのだが、そうではなくて、その、えっと」
赤くなった顔を隠すようにうつむいたジタは、頭の中で対処法を探す――が、結局は言葉を見つけられず、押し黙ったままバスケットを差し出した。
「これは?」
ハーマンはバスケットを受け取ったものの、戸惑った様子でしわの多い顔にさらにしわを作っている。
そんな二人のやり取りを見兼ねたのか、ヒアシレィズが助け舟を出す。「届けにきた」と、血抜きされた数羽の鶏を厨房に運んでいった。
そこでようやく、ハーマンはバスケットの中身が卵であることを察したようだ。ジタの肩に優しく手を乗せ、温かみのある声で、
「僕が余計なことを言ってしまったようだね。食材を運んでくれて、とても助かったよ。ありがとう。さあ、中で寛いでいってくれ。心ばかりの礼をさせてもらうよ」
ハーマンがジタの背を押そうとしたところで、後方で待機していたランドが不機嫌そうにふたつの水筒を降ろした。たっぷりと張られていた水が暴れ、とぷん、と間抜けな音を立てる。
「おい、こいつはどうすりゃいいんだ?」
ハーマンは「これはなにかね?」と尋ねながら水筒の中を覗き込み――ピタリと動きを止めた。しばらくして正気に戻ると、目を丸くしたまま大男と水筒を見比べはじめる。
「も、持ち上げていたように見えたが……」
「あン? 持ち上げればいいのか。水桶かなんかに移すんじゃねえのか?」
ランドは鬱陶しそうに口を横に広げ、左右それぞれの腕で水筒を軽々と抱え上げた。
ハーマンは絶句し、慌てて店内の客たちを呼び寄せる。驚くのも無理はないだろう。水筒の重さは、目算でも三百キロを越えているのだから。
異変を察した客たちが、わらわらとドア口に集まってくる。ある者は酒を片手に、ある者は食器皿を手に持ったまま寄ってきて――皆、一様に目を剥いた。
そんな反応にも、ランドの心の温度が変化することはない。水筒を店の前に置き、
「水は届けたぞ。容れ物は明日、勝手に持ってくからな。――これでいいのか、ジタ? ショウバイってのはよく分からん」
話を振られ、ジタはようやく我に返った。予想外の数の村人たちに囲まれたせいで、ガチガチに緊張していたのだ。
「あ、ああ。あとはお代を受け取るだけだ」
数秒をかけて納得したランドは、ハーマンの胸ぐらを引っ掴み、そのまま宙に持ち上げた。周囲のどよめきや小さな悲鳴などまったく意に介さない。金色の瞳で相手を睨みつけ、どこか無感情な声で、
「おい、カネを出せ。出さねえなら、今ここで殺――」
「この大馬鹿者ッ!」
脅迫を遮り、ジタは全力でランドの脛を蹴りつけた。
「……ジタよぅ」
「なんだ?」
ランドは獲物を解放し、ゆっくりとその場にうずくまった。大きな背中を丸め、弁慶の泣き所を押さえている。
「足が痛え」
「そうか。私は、その百倍は頭が痛い」
言い捨てると、ジタは慌ててハーマンに謝罪した。すると、彼は笑って許してくれたのだった。ランドを見世物にした自分が悪い、とまで言ってくれた。
帰り道の途中、ヒアシレィズがジタの手を軽く引いた。
「なんで」
「……なぜ遠慮してしまったのだろうな。私にも分からないのだ」
質問したいことを瞬時に見抜いたジタは、力なく微笑み返した。
あの後、ハーマンとブレンダに夕食に招待されたのだ。客たちに興味を持たれたランドも、しつこく酒を勧められていた。
「おれが嫌そうな顔してたからだろ? まあ、どっちでもいいじゃねぇか。メシは手に入ったしよ」
誘いを断った三人は、礼として食材を手渡された。バスケットの中には、鶏肉と卵がぎっちりと詰められている。
ふふ、と物憂げな笑い声を漏らしたジタは、
「サンドイッチが、鶏肉と卵に化けてしまったな」
「違うぞ。サンドイッチと魚だ」
「そうか、魚もか」
沈んでいく夕日を背負い、三人は談笑しながら家路をたどっていく。
そんな中――ジタは自分に足りないものをしっかりと把握し、次は勇気を出してみよう、と小さな誓いを立てたのだった。
*
「いらっしゃいませ」
極度の緊張で体を固くしながらも、ジタは客に微笑みかけることに成功した。
「おはよう、ジタちゃん。昨日は助かったよ。夫が礼を言っといてくれってさ。また川まで来たら家に寄っていきなよ。腕によりをかけて、ごちそうするからさ」
最初の客は、ふくよかな中年女性――ニキータだった。ボディラインを隠すように大きめの服を着ている。その体型と柔らかそうな天然パーマが相まって、優しそうな印象を受ける。
苦労して捕まえた鶏の主だ。つまりジタたちは、彼女とレストランとの取引を仲介したことになる。
市場に来たばかりなのか、右手にさげている買い物袋は空っぽだ。真っ先に店を訪れてくれたのだろう。
昨日、自己紹介をした折に、店のことも話していたのだ。
「たまたま居合わせただけですから、気になさらないで……」
謙虚に応対しようとするジタだったが、ふと、これがチャンスであることに気がついた。
――勇気を出そう、と決意したばかりではないか。
「いえ、あの、その、機会があれば是非!」
顔だけでなく耳まで赤らめ、さらには不自然に声を大きくしながらも、なんとか誘いに応じる。
それを見て、ニキータは安心したように二回うなずいた。新参者ということもあり、多少なりとも警戒心を抱いていたのだろう。
「いつでも待ってるよ。お礼もナシじゃあ、こっちが申し訳ないからね。あっ、でも、次は鶏が逃げ出してないときに来ておくれよ?」
ニキータは冗談めかして笑いながら店を見回す。
店の中央にヒアシレィズが描いた看板が立てられており、その右隣にはバランスの悪そうな古びた木机、左隣には水を貯めておくドラム缶がそれぞれ置かれている。
口達者な彼女でさえ、お世辞を言えないほど簡素な店だった。
屋根も敷物もないのは、雨天時は店を開けるつもりがないからだ。商売の性質上、雨の日にわざわざ水を注文しにくる奇特な客もいないだろう。
「で、どこに書けばいいんだい?」
ニキータは腕まくりをして、ジタに顔を近づける。
「はい?」
「なにすっとぼけてるのさ。名前も住所も分からずに、どうやって水を届ける気だい」
「――は、はい! ここです!」
彼女が言っていることの意味を飲み込んだジタは、おんぼろ机の引き出しから白い紙とペンを取り出した。
紙には二本の縦線が引かれており、三分割されている。左に名前、中央に注文する水の量、右に住所といった具合だ。
「雨が降らない日は両親の家まで水を運んでるんだけどさ……井戸が使えなくなってから、大仕事になっちゃってねぇ。――それで、値段はいくらだい?」
数秒で必要な情報を書き終えたニキータは、紙とペンを手渡しながら首をかしげた。先に値段を確認しないあたり、その大らかさがうかがえる。
「十リットルですから、十セントになります。物々交換でも結構です」
値を聞いたニキータは目を大きくする。
「や、安すぎやしないかい」
「ピア――ヒアシレィズが手伝ってくれている間は、この値段でも十分に食べていけます。なにせ、一往復で三百リットルの水を運べますから」
ランドの話では一日に三往復できるということだったので、ジタはそれを加味して値段を設定した。
一日で販売できる水は九百リットル。十リットル十セントですべて売り切れば九ドルだ。この村で九ドルも稼げれば、五人家族でも二日分の食費になる。おそらく村でもトップクラスの稼ぎとなるだろう。
正確な計量ができないことや、水の量を気持ち多めにする必要があるため、実際はそれほど上手くいかないと予測しての値段設定だった。ジタは、六割も売れれば成功と目している。
「あのでかい兄ちゃんだね。いい亭主を持ったね。あんなにできる男は、なかなかいないよ」
「い、いや、ないのだ、亭主では、ない」
言葉遣いが元に戻っていることにも気づかず、ジタはしどろもどろに答える。この話題だけは、どうやっても慣れることができないらしい。
そんな初々しい反応がおかしかったのか、ニキータは腰に手を当てて大笑いをした。すると、周りにいた村人が「なんだなんだ」と集まってくる。
井戸の事件のこともあってアントダースの人々は明るい話題に飢えており、楽しそうな雰囲気があると気軽に声をかけてくるのだ。ほぼ全員が顔見知りだけに、遠慮する素振りはない。一人が二人、二人が四人、と人が人を呼んでいく。
「聞いておくれよ。今日から水を運ぶ商売を始めたらしいんだけど、なんと十リットル頼んでも、たったの十セントなんだとさ。ね?」
ニキータは宣伝を終えると、ジタに向かってウインクをした。
首を傾けかけたが、ぎりぎりのところで気がつき、ジタはバトンを受け取る。
「はい。しっかりと家までお届けします。まだ始めたばかりの商売ですので、なにかと不手際もあるとは思いますが、よろしかったら一度ご利用いただけないでしょうか」
まだまだ表情の固いジタだったが、昨晩、頭をひねって考えておいた台詞をなんとか言い切ることができた。
「確かに安いな。だけど、水なんてどこから持ってくるんだ? まさか井戸からとか言わないよな……。溜め池でも造ったのか?」
「いえ、川から水を運んでいます」
「売るほど持ってこれるのか?」
質問攻めに合うジタをフォローすべく、ニキータが口を挿む。
「ほら、あの大量の水を運んだとかで噂になってる兄ちゃんだよ」
「ああ、ハーマンのところに一トン以上の荷物を届けたとかの……。よし、お嬢ちゃん、家に十リットル運んでくれや」
「そうな、こんだけ安けりゃ試しに頼んでみるのもいいかもな」
集まってきた村人は次々に注文していく。
予想外の売れ行きに、ジタは大慌てで接客をこなしていくのだった。
販売量が四百リットルを超えたところで、ジタが念のために『今日中に届けられないかもしれません』と断りを入れておいて正解だった。
様子見で、十リットルの注文ばかりになってしまったのだ。そのため、考えていた以上に宅配の手間がかかってしまい、ランドまで村を行き来する羽目になった。
そうして忙しそうに村中を駆け回る姿が、さらなる宣伝になっていようとは三人は思いもしないのだった。