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二匹(4)

1‐4.

 

 『人間がこの地を訪れることを禁止する』

 『テレビに出演してもらう』

 これが双方の出した条件だったが、話し合いにより、『テレビのライブ出演中に、ユルゲンド草原に入らないよう世界中の人間に頼む』という両案を編み込んだ形に変更された。

 二匹が、人間との口約束だけでは信用できなかったからだ。

 テレビで実際に放送されているかどうかを確認できないため、相手が一方的に利益を得ることも可能になってしまう。生中継だと偽って録画し、帰国後にテープを編集すればいいのだから。相手側が用意したテレビで中継を確認するという手も、細工される可能性があるため却下された。

 そこで、人間の国へ出向くことにした。多少ながらテレビ放送についての知識はあるので、嘘を吐かれれば見抜けるだろう。

 人間側も、しゃべる動物が故郷を守るために戦うという斬新な番組を思い浮かべ、二つ返事で了承した。

「下手をしたら、帰れなくなるかもしれない」

 事態の深刻さを告げられると、ランドはひげをひくりと動かし、大きく笑って返した。

「それで人間が消えるなら安いもんだ。ここに棲んでる奴らも喜ぶだろうよ」

 失敗するとは微塵も思っていない信頼し切った声だ。

 ジタにプレッシャーが重くしかかったが、まったく苦痛ではなかった。

 

     *

 

 二匹の空輸や、各方面の認可を受けるためには莫大な費用がかかった。しかし、二匹がもたらすであろう予想利益は出費を軽く上回っていたため、異例の早さですべてのハードルをクリアしていった。

 交渉成立からアメリカに渡るまでの時間は、実にたったの三日。二匹は暇を持て余していただけだったが、準備は着々と整っていった。

 

 貨物用エレベーターが目的の階に到達すると、安っぽい音を立てて扉が開いた。驚いた二匹は同時に体をピクリと震わせ、ぎこちない動きで辺りを見回す。

「こ、こちらです」

 テレビ局の十階にある広い控え室に案内された。一応はゲストである二匹をどうもてなせばいいのか分からなかったらしく、部屋の床には高級な絨毯が敷かれており、牛肉や果物などが所狭しと並べられていた。

「おい、喰ってもいいのか?」

 ランドが尋ねると、案内役の局員は自分の足に蹴つまずきながら逃げ出した。

「きっと、自分が喰われると思ったのだ」

「そりゃあいいな」

 ランドは口を横に開いて鋭い歯を見せ、快活な笑顔を浮かべた。

「ああ、いい」

 ジタも釣られて笑みを見せる。

 ランドは床に置かれた百キロはある肉に近寄り――顎が外れそうなほど口を大きく開いて噛みついた。前足で押さえつけながら乱暴に肉を食い千切り、じっくりと味わうように咀嚼する。

「こりゃ不味いな」

 言いつつも、すぐさま二口目に取りかかる。

 ジタも我慢できなくなり、ランドの横から肉に喰いついた。牙を上手く使って薄く肉を剥ぎ取り、空中に放り投げるように首を回してパクリと口に含む。

「わりと美味しいと思うが……そうだな、歯応えと血が足りないか。脂も多すぎる」

「そう。それだ、それ。人間はこんなので満足してるんかね」

 ランドは相も変わらず、ジタに理由を気づかされるのだった。

 文句を吐きつつも、またまた肉にかじりついたそのとき、背後で扉が開く音がした。

 草原で出会った若い女性だ。役職はリポーターで、名をアリサと言った。

「どう? 最高級の食材を用意したんだけど、お口に合ったかしら」

 これは冗談か? と視線を送ってくるランドに、ジタは首を横に振って答える。

「人間と私たちの味覚には大きな違いがあるようだ。もしも次があるのなら、生きた人間を差し出してほしい」

「ええ、わたし好みの色男を用意しておくわ」

 根が明るいアリサはジタが本気で言っているとは思わなかったのか、笑って応じた。

 二匹の世話担当は率先してアリサが引き受けていた。それが出世欲、独占欲から来るものだとジタは感づいていたが、彼女が取引で下手を打つような人間にも見えなかったので気を許していたのだった。

 ランドは、ジタが言うなら間違いない、と人間の前でも落ち着き払っている。積んであったリンゴの山に顔を突っ込んでいくつか丸呑みすると、大きな欠伸をして体を横たえた。

「段取りの相談か。手早く済ませたいものだ」

 ジタは足元に転がってきたリンゴを素早く咥え、気持ちのいい音を立てて噛み砕いた。

「ええ、本当に賢いのねアナタは。わたしも名前で呼んでもいいかしら?」

「好きにするといい。それで、話はどこまで進んでいるのだ」

 ランドの右隣に移動したジタは、身近にあったリンゴを再び食した。思いの外、さっぱりとした味が気に入ってしまったようだ。

「企画はとおってるわ。でも、問題が起きたみたいなの。……あ、ジタとランドが人間に呼びかけるのには、なんの支障もないわ。絶対に全世界に届けてみせる。ただ、問題はそのあと。頼みにくいんだけど……少しの間、ここに留まってもらえないかしら」

「なぜだ? 私たちは、すぐにでも帰りたいのだが」

 放送に差支えがないのなら、ここに残る理由もない。ジタにはどこにも問題があるようには思えなかった。

 実際、放送を終えたあとのことなど興味もない。草原に人間が侵入してこなければそれでいいのだから。

「アナタたち――言葉を話す動物が入国したことが政府に知られたみたいなの。最悪の場合、この建物を出たらあっという間に捕まえられるかもしれないわ。今、方々に連絡をして助けを求めてるから、事態が落ち着くまではじっとしていてほしいの」

 アリサは謝罪するように両の手のひらを合わせる。

 それとほぼ同時に、タイミングを見計らっていたかのようにテレビ局の同僚がアリサを呼びに来た。

「もうすぐリハーサルだから準備だけはしておいてね」

 アリサは忙しそうに小走りで部屋から去った。

「あの人間はなにか隠してるぜ。どうにもきなくせぇ」

 二匹は、アリサを連れて行った人間が、あらかじめドアの外で待機していたことを察知していた。聴覚と嗅覚に優れた二匹を欺くことは容易よういではない。

「同感だが、今は信じる他ない。ランド、私は判断を誤ってしまったのかも――」

 不意にランドがジタの鼻をペロリと舐めあげた。あまりにも意外な行動だったので、ジタは目を白黒させている。

「お前はなにも間違っちゃいねぇよ。よく分からんけど」

 前後の言葉がちぐはぐだったので、ジタはついつい失笑してしまう。

「そう、か……」

「ああ、そうだ。おれは故郷を守りたいと思ってる。だけどよ、向こうに棲んでる奴らは別におれたちに期待してるわけでもねぇ。なにも知らんままだ。おれたちが失敗しても、今までと変わらない生活を続けていくだけだろ」

 ランドは獅子の威厳に満ちた締まりある表情を捨て、優しく微笑みかける。

 つつ、とジタは目をそらしてしまうが、それは好意を表す狼の特性だ。

「ジタは気負いすぎだ。もっと肩の力を抜いていい。そりゃあ、おれのために頑張ってくれるのは嬉しいけどよ……。おれはな、お前と出会えただけで、これ以上ないくらいに救われてるんだ」

 ランドは群れ《プライド》を持つことから興味を失っていた。それは、他者と関わり合うことを避けていたと言い換えてもいい。

 草原に我が物顔で踏み込んでくる人間を狩って、生涯を終えていくはずだった。

 そんなとき、ジタが天から降ってきたのだ。ただそれだけのことで、ランドは興味を持った。崖の上の世界に、他者と話すことに、目の前で倒れていた狼に。

 失っていた興味を思い出させてくれたのだ。

 いつもジタに気づかされてばかりだ。

 ランドは思う。だからこそ、なによりも誰よりも必要なのだと。

 獅子と狼。種の違う二匹は、いずれ別れなければならない運命にあるのだろう。それでも、向こうから別れを切り出さないかぎりは、ずっと一緒に居たいと思っていた。

 いつか、そのときが訪れたら、逆らう気はない。

 誇り高い狼は言った。自分で決めるから踏み込むな、と。

 そのおかげでジタを引き止める努力をすることはなくなり、自然体でいられるようになった。狼の――いや、ジタの誇りという、決して踏み荒らせない領域があったからだ。

 ランドにとってジタは、失いがたい、手放したくないものだ。そして、それ以上に最も大切で、守りたいものなのだ。

 こればかりは自分の心にすら鈍いランドも気づいていた。

 だから、その尊厳を汚したくなかったし、自身にどうこうできるものでもないと思っている。

 ただ、ジタが傍に居てくれる理由が狼の誇りだという事実に、言い知れない寂しさを覚えていた。

 ランドが感傷に浸る一方――

「あ、その、私は……」

 ジタは口ごもり、そっぽを向いてしまう。

 テレビ放送のことをすっかり忘れ、ジタは取り乱していた。

 今までに感じたことのない不思議な情が、胸の奥底から込み上げてくるのだ。気を落ち着けて感情の正体を分析することすらできず、ランドに不始末な姿を見られないように隠すだけで精一杯だった。

 なぜかたまらなく恥ずかしかったので、いっそ狸寝入りでもしてしまおうか。と考えた矢先、控え室の扉が開いた。

 驚異的な聴力を持っているため、誰かが近づいてくることを事前に察知していた二匹は平静なまま顔を上げる。

「スタジオに入るわよ。なんて言うかは決めたかしら?」

 アリサだ。ドアノブを握ったまま廊下から身を乗り出すように体を傾け、よく通る大きな声で二匹に告げた。

「あ、ああ。とっくに用意してある」

 スタジオ? と首をかしげるランドを先導するように、ジタが立ち上がる。

「どうかしたの? 食べ物が体に合わなかった?」

 どこか歯切れの悪いジタを気遣ったアリサだったが、睨みつけられて身をすくめた。

「別になんでもない。案内してもらえるだろうか」

 ジタは思わず敵意を表にしてしまったことを反省し、静やかな声でアリサに頼む。

 そんなやり取りを見て、ランドがくつくつと含み笑いをするものだから性質たちが悪い。ジタはますます挙動不審になってしまうのだった。

 

 草原を模した舞台装置セットが用意されたスタジオで、何事もなくリハーサルを終えた。大勢の人間とカメラに囲まれて落ち着かない二匹だったが、互いに独りではないことが幸いし、地に足を着けて振る舞えたのだった。

 そして、いよいよ本番が始まる――

 前代未聞の珍事。この放送を皮切りに、二匹もテレビ局も話題の渦中に置かれることは誰しもが予想できた。否応なしに局員たちの緊張は高まっていく。

「わたし、ことアリサ・クライトンは、未開の地ユルゲンド草原へ行ってきました。もちろん、話題の人語を操る動物を探すためです。まずは、この映像からご覧ください」

 二匹の目の前には、ジタが用意させた携帯式の小型テレビが配置されている。約束どおりに放送されているかを確認するためだ。

 テレビには、スタジオから場面が切り替わり、ランドとジタが映し出されていた。すでに世界中に出回っている映像だ。画面の上部には人の興味を引きつける、会心とも表現できそうなテロップが流れ続けている。

「皆さんもご存知だと思います。このライオンとオオカミは、しゃべることができるのです。いいえ、しゃべることができたのです! わたしアリサ・クライトンは事実を確認しました! そしてなんと、スタジオにお二方を招待することに成功したのです!」

 興奮を視聴者に伝えるためにわざとらしく声を張り上げるアリサを尻目に、二匹は指示されたとおり謙虚さをアピールするようにちょこんと座っていた。

「――しました。それでは、待ち兼ねている皆さんのためにもそろそろ登場していただきましょう! わたしアリサ・クライトンの友人、ライオンのランドと、オオカミのジタです!」

 長々と自分の立場を宣伝し終えたアリサは、ようやく二匹へと話題を移した。

 小型テレビには確かにランドとジタの姿が映っている。檻には入れられず、アリサの隣にきちんと座っていた。画面を見たランドは「おおっ、ジタがいるぜ。こっちがおれなのか?」と声を抑えてはしゃいでいる。

 ジタはそれを尻尾で叩いて牽制しつつ、打ち合わせどおりに話しはじめた。

「初めまして。私の名はジタ、そちらの獅子はランドだ。信じてもらえないかもしれないが、私たちは人間の言葉を理解でき、会話することもできる」

 丁寧に挨拶をするジタに画面を固定したまま、アリサが質問をしていく。

 ランドとの出会い、草原での生活など、なんとも退屈な問答ではあったが、ジタには真摯に受け答えをするしかない。

 無論、人語を話すようになったきっかけは隠していた。人間を食べたことが原因だと思われる、などとは口が裂けても言えないからだ。実際、それはただの推測であって、原因がどんなものであるのかジタは知らない。

 そんなこんなで二十分にも渡る質問攻めは佳境を過ぎ――ついに、最後の質問を投げかけてきた。

「なぜ、わたしたちに同行してテレビに出演する気になったんですか?」

 肝心なのはここからだ。ジタは気を引き締める。

「頼みがあったのだ。ランドの故郷であるユルゲンド草原は悪意ある人間たちに蹂躙され、今やその生態系は狂ってしまっている。人間を極度に恐れ、侵入されただけでも異変をきたしてしまうのだ」

 アリサに勧められたとおり、ゆっくりと頭を下げた。遠い国から伝えられた風習らしく、視聴者の心を動かす手助けになるということだった。

「あの地には私たちのように言葉を操る動物はいない。私たちが異常なだけなのだ。だから、そっとしておいてはもらえないだろうか。どうか、お願いだ」

 それを受けたアリサは体中で感動を表現し、全世界に訴えかける。

「わたしたち知性も良識もある人間が、このオオカミとライオンの勇気を無下にしていいのでしょうか? ……わたしにはできません。だからこそ、この場に立っています」

 アリサはつらそうな表情を浮かべながら屈み込み、握手をするように狼の前足を掴む。

「草原を荒らす人間と草原を守ろうとする動物、どちらが人間らしいのでしょう。この放送を観ている人々の心がひとつであることを、わたしは信じて止みません」

 最後にアリサは大仰な言葉をつけ足し、人間らしさ、というものを視聴者に再び問いかけた。

 もちろん、この台詞も忘れない。なぜなら、プロだからだ。

「以上、アリサ・クライトンがお届けしました」

 こうして、放送は幕を下ろした。

 局員の歓声と鳴り止まない問い合わせの電話が、番組の成功を物語っていた。

 

     *

 

「ご苦労様。ありがとう二人とも! もう最高っ!」

 『二人』と言ってしまったことには気づかず、アリサは興奮した様子で二匹に礼を述べた。感情が抑えきれないのか、喜びの声を発しながら拳を何度も突き上げている。

「これだけで伝わるものだろうか」

 心配そうに声のトーンを落とすジタにアリサが近寄る。そして、小さな前足を優しく掴み、今度は演技ではない握手を交わした。

「誰が視聴者を盛り上げたと思ってるの。これで二人のために動かない人間なんていないわ。それに励ましの電話もすごいのよ」

 本物なのか、という質問も多かったが、近日中にその謎も解けるだろう。

「そうか。よかった……」

 肩の荷が下りたジタは安堵の息をついた。

「ありがとよ、ジタ」

 礼を言いながら、ランドは柄にもなく深く考え込んでいた。どれだけ感謝しても足りないくらいジタは尽力してくれた。

 だからこそ、不安になってしまうのだ。――『恩を返した』と思ってしまったら、と。

 本当は、こんな素っ気ない礼ではなく、もっと感謝の意を表したいのだ。しかし、それをしてしまうと、別れる時期を早めてしまうかもしれない。

 己の情けなさを痛感しながらも、ランドはそれ以上、気持ちを伝えることはなかった。

 

 

 アリサが去ったあと、二匹は部屋でくつろいでいた。

 ランドの言葉数が少なかったのは、喜びを噛み締めてくれているから。ジタはそう思っていたのだ。しかし――

「ジタよぅ、あれで……たったあれだけで上手くいったのか?」

 たった? あれだけ? ジタは、満足していた自分の心に亀裂が走る音を聞いた。

「なにが言いたいのだ」

 その声が、外敵へ向けるような冷たいものになっていることにジタは気づかない。そんな心のゆとりはなかった。

「人間は信用ならねぇ」

 ランドもどこか様子がおかしく、焦ったように言葉を吐き捨てる。

「それでも、私を信じてくれたのではなかったのか」

 ジタは足をわなわなと震わせながら立ち上がり、獅子と視線を合わせた。それは、敵意を表す行為。

「信頼してるぞ。だけどよ……」

「つまり、私は役に立たなかったということか」

 毛は逆立ち、語気は荒くなり、完全に頭に血が上っている状態だ。

 ランドのために懸命に行動したのに、それはすべて無駄だった。そんなことを誰が認められるだろうか。

 昔のジタならば、文句のひとつも言わずに納得していただろう。

 なぜこんなにも腹立たしいのか、己のことながら理解できていなかった。

「まだ分からん」

 ランドの素っ気ない反応に、ジタは牙を軋ませた。

 役に立ったか分からない。獅子は、そう言ったのだ。

 確かにそのとおり、結果が出ないことには答え様がないだろう。渡米すらも無意味だったのかもしれない。人間に取引を持ちかける必要すらなかったのかもしれない。草原を守ろうとしなければよかったのかもしれない。

 ――そんな馬鹿なことがあるか。

「なんなのだ、それは!」

 感情の沸点を超え、ジタは怒号を響かせた。憤りの理由すら解らずに。

 騒ぎを聞きつけたのか、若い男性局員が扉を開き、中を覗き込んでくる。

「ま、待ってくれ。今のはちが――」

 大声をぶつけられたランドは目を見開き、慌てふためいて弁明を試みている。

「黙れ! 今日限りだ、愚鈍な獅子よ!」

 だが、ジタは聞く耳持たないとばかりに一蹴した。そのまま局員の脇をすり抜け、外へ飛び出していく。

「おい! 聞けって!」

 局の廊下を駆けていく狼の背後からは、男の怯えた声と、獅子の巨体が鉄製のドアにぶつかる音が聞こえてきた。

 

     *

 

「私は、なぜこんな場所にいるのだ……。どこに行けばいい……」

 木々の香りに引き寄せられるように訪れた自然公園。その中心にある噴水広場で、ジタは途方に暮れていた。

 アスファルトの上を全力で走り続けたため、鋭い爪の何本かが折れてしまっている。爪のつけ根からは真っ赤な血が滲んでいるが、そんなことなど気にならなかった。それ以上の痛みを感じていたから。

 やっと自分の居場所を手に入れたと思い込んでいた。しかし、ただの勘違いで、不要だと言われてしまったのだ。

 手に入れたものを失ったのか、元から手に入れてなどいなかったのか、ジタにはもう分からない。今となっては考える必要はない、とすら思っていた。

 息苦しい汚れた空気の中、彷徨うことに疲れ果てた狼は眠るように横になる。

「大都会にある小さな自然、か。似ているな。これほど滑稽なこともない」

 人間の街が大嫌いだった。

 鼓膜を揺するようなノイズが常に流れ続けていて。

 鼻を塞ぎたくなるほど濃い腐臭が充満していて。

 食べ物も味が複雑すぎて口に合いそうになくて。

 瞳に飛び込んでくる派手な色は刺激が強すぎて。

 それでも――そんな世界でも、この獅子と一緒なら苦痛ではなかったのだ。

 ひと目、見たときから思っていた。なんて美しいのだろう、と。

 言葉を交わすうちに感じていた。心が惹かれている、と。

 狼は、目の前にいるこの獅子が――

「話を最後まで聞かねぇ早合点狼め。さっきは悪かったよ。お前が役立たずだなんて、これっぽっちも思ったことねぇんだ。ただよぅ……って、泣いてるのか?」

 ――たまらなく、好きなのだ。

「誰が泣いているのだ……」

「あまり頭がよくないおれには分からん。賢いお前になら分かるだろ」

 ジタは力が入らない四肢を精一杯踏ん張り、のそのそと立ち上がる。

「馬鹿だとは言わないのだな」

「ああ、おれは馬鹿だ。お前もな」

 二匹は小さく笑い合った。

 ジタは不思議な高揚感に満たされていた。さきほどまでのわだかまりは、嘘のように晴れている。ランドが自分を迎えにきてくれたという事実だけで、すべて納得できてしまったのだ。

「そうだな、私はどうしようもない大馬鹿だ」

 すまなかった、と謝ってしまえば、何事もなく今までどおりの関係に戻れるだろう。

 ――しかし、もう手遅れだ。

 この気持ちを抑えられない。ただ傍にいるだけでは満足できない。絶対に離れたくない。離したくない。

 だからこそ、これ以上は一緒に居られない。

 ジタが群れ《パック》を捨てたときと同じなのだ。獅子と狼、両者の間には決して埋まらない深い溝がある。たとえ共に生きていくことが叶ったとしても、その問題は絶えず二匹を苛むだろう。

 そんな苦痛を、想い寄せる獅子に与えようというのか。

 ジタには、どうしてもできなかった。その溝《ヽ》が、悪夢じみた現実の呼び水になることを知っていたから。

 想いの丈をぶつけ、相手に選ばせることもできる。だが、そうしてしまうのは卑怯だとジタは感じた。まずは自分だけで問題と向き合い――ランドにも苦悩を背負わせる覚悟を持ち、それから告白しなければならないのだ。

 ――やはりジタにはできない。理想の未来は、相手の未来を奪った先にあるものだから。

 ジタはランドの正面に移動し、目を合わせた。その瞳に敵意はなく、ただ哀しみの色のみをたたえている。

「誇り高き獅子よ、お前に決闘を申し込む。狼の……いいや、私の誇りを賭ける」

 それは、別れを告げる言葉ではない。終りを告げる言葉。

 声を耳にしたとき、ランドは反射的に目を閉じた。まるで突風を身に受けたたかのように、たじろぎそうになる。

 四肢を震わせながらもなんとか踏みとどまったランドは、

「分かった」

 凛とした声で、短い言葉で、迷うことなく応えた。それはきっと、なによりも大切なもののために。

 ジタは地を滑るように素早くランドに襲いかかり、前足に鋭い牙を突き立てた。加減などはせず、あらん限りの力を込めて。決して、噛み千切れるはずがないのに。

 目に薄く涙を浮かべたジタは、ゆっくりとまぶたを下ろす。

「ジタよぅ、」

 言いかけて、ランドは口を閉ざした。伝えたいことがありすぎて、言葉が次々に頭に浮かんでくるのだ。

 足に噛みついている小柄な狼を見つめていると、自然と涙が溢れてくる。

 楽しかった。一緒に居たかった。死んでほしくない。と素直に思える。

 それでも、殺さなければならない。

 ランドは躊躇うことなく、しかし緩慢な動きで、ジタの細い首に牙を押し当て――

「お前が、おれを殺せればよかったのになぁ……」

 ――命を摘み取った。

 ランドは生まれて初めて、腹の満ちない殺しをした。口内の血を飲み込むことができなかった。声も上げずに潔く絶命した狼をそっと地面に降ろす。

 灰色の敷石が赤黒く染まっていく。まるでなにかを求めるように、徐々に徐々に広がった血液は、ランドの前足を捕まえたところで止まった。

「ずるいぞ……こんなの、ずるいぞ、ジタ」

 失われていく温もりを感じながら、獅子は力なく咆哮した。

「なんでだろうな」

 背後で絹を裂くような悲鳴が上がる。

 それとほぼ同時に、『獅子を目撃した』との通報を受けて急行してきた警察官が、銃を構えながら駆け寄ってくる。そのまま、腰を抜かしている少女の前へ踊り出て――

「ちゃんと謝ってれば、こうならなかったのかね……。なぁ、教えてくれよ……。おれは馬鹿だから分からねぇんだ……分からねぇんだよぅ……」

 銃弾に貫かれ、たてがみが一瞬にして朱に染まる。

 急速に薄れてゆく現実味。景色が消え、音が消え、感覚が消え――頬を伝い落ちる水滴が、血液なのか涙なのかさえ判別できなくなる。

 それでも獅子は、最期まで狼の姿をていた。その視線は狼から外れ、あらぬ方向を見つめているというのに。

「ジ…ぁ……」

 交じりゆく血に抱かれた二匹は、孤独な心を埋め合ったわずかばかりの時間を想いながら、その生を終えた。

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