二匹(3)
1‐3.
長かった雨季は去り、久方ぶりの陽光を浴びた草原はいつにも増して青々と輝いていた。この時期は新しい命が芽吹く。ぬかるんでいる大地も、数日もすれば若い草たちが元に戻してくれる。
崖に囲まれた地形のため風通しが悪く、空気はまだ重く沈んでいる。しかし、それもあと数日のことだ。草原を渡る乾いた風が戻ってくるのも時間の問題だろう。
雨季の間、密猟者がこの地を訪れたのはたった四回のみ。取り置きしておいた食糧のおかげで飢えることはなかったが、残りが心許なくなってきている。
食い扶持が増えたこともあり、食糧が減るペースも上がっていた。だが、ランドはまったく気にしていなかった。
ジタが賢いのか、狼の連携が上手いのか、二匹で狩りをした回数は少ないが、効率は格段にアップしていることを実感していた。
この地に狼が棲息しているはずがないという知識が、人間の目を曇らせる。大半は犬と見間違えていたようだが、それでも草原では目を引く存在だ。
ジタは絶好の囮役なのだ。
そうして人間が錯乱している間に、ランドが背後から忍び寄る。
仮に狼をめずらしがらなくとも、一匹と二匹では戦略の幅がまるで違う。人間が動物を無知だと思っている分、二匹の策は意のままに成功した。
そんなこともあってか、気が抜けていたのだろう。
人間を逃してしまった。
「まあいいか。二体は狩れたんだしな」
「生きる分には事欠かないな」
人間を討ち洩らしたことなど気にもせず、二匹は腹を満たしていった。
*
二匹が獲物を仕留め損なってから数日後。人間界では一風変わったニュースが話題をさらっていた。
世界的に有名な放送局であるアメリカ『NFK‐TV』の国際放送で、人語を操る獅子と狼が取り上げられたのだ。それも、映像までしっかりと。
最初に小規模なテレビ局で扱われたときは、何者かが声を入れたものだと思われていた。だが、専門家が鑑定をしたところ、二匹の声は間違いなく動物が発していると判明した。
襲いかかったときの雄叫びや、交戦中の唸り声、そして人間の言葉、それらすべての声紋が一致したのだ。無論、声が人間のものでないという裏づけもあった。
獅子と狼が人語を話した。それは、紛れもない事実なのだ。
UFO、UMA、狼に育てられた少女、生きた恐竜、深海生物。
人間の興味は、果てしなく深い。
*
二匹は草原の奥地へ向かい、ひた走っていた。
「どうなってんだ?」
「私に訊かれても困る」
ある日を境に、密猟者が訪れなくなった。
人語を操る獅子と狼のニュースが原因で、ユルゲンド草原を抱える小国ガラグナが、密猟を扶助していることが全世界に知れ渡ったのである。他国や自然保護機関などから強い圧力を受けたガラグナは、裏の商売を停止せざるを得なかった。
二匹がそのことを知るべくもない。
密猟者の代わりに草原にやってきたのは、高価な撮影機材を車に積んだ報道スタッフと、得体の知れない他国の調査機関だった。
ランドとジタは逃げていたのだ。
「人間を殺しすぎたのかね……。こぞって復讐しようってんじゃねぇよな」
「いや、仇討ちではなさそうだ。テレビというものだな」
「てれび?」
ランドはどこか間の抜けた口調で話しながら首をひねった。
「同じような変化をしていても、やはり知識に差があるのだな。テレビとは――」
人間のような仕草を目にしたジタは、笑いをこらえるように声を抑えながら、テレビについて知り得るかぎりの情報を伝えていく。
懸命に説明するジタを尻目に、ランドは事も無げに相づちを打つだけだった。
「ランドよ、他者が話しているときは真摯に聞くべきだ」
「たぶん、だいたいテレビのことは分かった。けどよ、それがなにか関係あるのか?」
ジタとの会話は楽しかったし、耳触りのいい落ち着いた声も大好きだったが、自分に縁のない知識を披露されるとき、どう対処していいものか悩むのだった。
相づちはランドなりの気遣いのつもりだったのだが、やり方がまずかったのかどうやら逆効果だったらしい。
難しいな、とランドは大きく鼻息を吹いた。
「関係ありそうなのだ。この前、人間を取り逃がしてしまっただろう? あれが原因だったのではないか」
「おれとジタが? 逃がしたのか? そんなことねぇだろ。あるわけねぇ」
なにも覚えていないランドだった。
「ま、まあいい。とにかく、私たちが人間の言葉で話しているところを目撃されたと思ってくれればいい」
「つまりあれか、おれたちをテレビしたいわけだ」
「そうでもなければ、あんなに多くの……テレビ人間が押しかけてくるわけがない」
ジタは努めて分かりやすいように説明してくれているが、多少の照れがあるのか、『テレビ人間』と言葉にする前に間が開く。
「じゃあ、アイツらはしばらく帰らねぇのか……」
ランドは立ち止まり、先行するジタの後姿を眺めて一笑した。
そして、草原全体に響き渡りそうなほど大きな雄叫びを上げる。
空へ広がる遠吠えではなく、大地を揺るがす咆哮だ。草原に侵入してきた人間の耳にも届いていることだろう。
「ど、どうしたのだ」
ジタは素早く振り返ると同時に、身を低くして戦闘態勢を取る。
「……ジタよぅ、ここでお別れだ」
この草原を守りたい。ジタが気づかせてくれた。
人間が再び動物たちを脅かすことが我慢ならなかった。テレビの番組スタッフが動物に危害を加えるかどうかは問題ではない。
もう二度と、人間が踏み入ることが許せないのだ。
ランドには家族がいた。幼い頃、仲睦まじく暮らしていた両親に妹たち。独り立ちするために群れ《プライド》を離れてから、支え合いながら生きた弟。飢えも別れも共にした。
皆、死んだ。
すべては人間がこの地に踏み入ったせい。狂った生態系の餌食になってしまった。
自然の流れだと割り切ったはずだったが、心の奥底では正体不明の感情がくすぶっていた。それは、人間を殺すことを目的としてしまわないために、必死に押し隠してきた怒りだったのかもしれない。
「おれは、テレビを狩りにいく」
調査団が来たときになぜ見逃してしまったのか、なぜジタに説得させられてしまったのか、ランドは後悔する。
人間が侵入することすら許容できない。自分の感情にすら鈍いランドは、このときになってようやく気がついた。
人間が憎い、と。
「死にに行くようなものだ。無事では済まない」
「そのときは、そのときだ。最近よ、どうもおかしいと思ってたんだ。人間の知識を持ってからというもの、逃げが上手くなって遠慮してばかりでいけねぇ。やっぱり、おれはおれがやりたいようにやる。弱くても、なにも恐れてなかった昔のおれがいい」
ランドは群れ《プライド》を持てないほどに弱かった。戦いに敗れた回数は十では足りない。生死の境を彷徨う大怪我を負ったこともある。
それでも決してあきらめてはいなかったのに、いつの間にか興味を失っていた。
人間の知識を得たから――故郷を守りたいと思い、人間が憎いと思った。
これはもう、昔のランドではない。いくら願っても、本能の赴くままに生きていた彼は返ってこない。
知能の高い今だからこそ求めてしまうのだろう。獅子らしさ、というものを。
「いつかまた会いてぇな。本当に楽しかった。今まで生きてきた中で、一等楽しかった。楽しかったけどよ……」
言葉に詰まったランドは、金色に輝くたてがみを揺らして後ろを向く。
「また会う、か。不可能だと思っているから、別れを告げたのだろう?」
「……おれにもよく分からん。言いたかったから言っただけだ」
寂しそうな声を背に受け、獅子は力強く歩き出した。
独りの道行きを覚悟していたランドの右隣に、狼が並んだ。
ランドが口を開こうとすると――
「ランドが自分らしく在りたいように、私は狼らしく在りたいのだ」
ジタが割って入った。
風通しが悪くなった右半身に言葉にできないほどの温かみを感じながら、ランドは恥ずかしそうに目を閉じる。
「律儀なやつだ」
「それが私の誇りなのだと思う」
美しい毛並みの灰狼は頼もしい声で言い切った。
短く笑い合った二匹は、向かう。
*
報道スタッフ一同は面食らっていた。
焚き火を中心にして食事を取っていると、夜闇の中から女の声がしたのだ。
さきほどまでの談笑は一瞬にして消え、草原の静寂が場を支配していた。一同は、広大な闇がもたらす閉塞感に息を詰まらせている。
誰かが唾を飲み込む音が聞こえるのと同時に、
「この地は、人間に狂わされた。そしてまた、お前たちに狂わされようとしている。できることなら大人しく引き返してはくれないだろうか」
警戒して銃を構える人間たちを物ともせず、一匹の小柄な狼が姿を現した。
「お、おい! カメラ!」
誰からともなく出された指示を受け、怯えるようにうなずいた背の低い男は、転びそうになりながらも機材を積んでいる大型車へ走っていく。
「草原から去ることを約束するのなら、取材に応じよう。金が欲しいのだろう?」
「おい早く撮れ!」
リーダーらしき男は人語を操る狼に驚いたのか、提案の内容にまでは気が回っていないようだ。
「交渉は決裂のようだな」
話に応じない輩に利益を与えるつもりはない。ジタは説得をあきらめて踵を返す。
「……覚えておくといい。夜は、人間の時間ではない」
草原の夜は長い。火を恐れない二匹が闇に乗じて人間を狩るのは、さほど難しいことではない。車に逃げ込むのなら、タイヤを破壊して動きを封じ、長期戦に入るだけだ。
仮に仕留め損じても、逃げ帰っていくのなら、それはそれで目的の達成でもある。
「待って! 話をしてくれるの?」
声の主は、二十歳ほどの女性だった。その若さに似合わず、誰よりも落ち着いて状況を把握したようだ。
「人間が二度とこの草原に踏み入らないことを約束するのなら、だ。テレビを使って全世界に呼びかけられるのだろう?」
「呼びかける、だけなら、できるわ……でも……」
女性は途切れ途切れに話し、そのまま言葉を濁してしまった。
「でも? ――ッ、人間はどこまで強欲なのだ。話にならない」
相手の真意に感づいたジタは不快感を顕わにし、荒立った声を残して闇に潜んだ。
他のスタッフがカメラを準備する時間を稼ごうとしていたのだ。これには、温厚なジタもさすがに腹を立てた。
「ま、待って!」
女性は自分の不手際に顔を青くして、慌てて後を追う――と、すぐさま狼の姿を発見した。
「取引に応じる気になったか」
やはり欲深い。草むらの陰で人間が追ってくるのを待っていたジタはそう思いながらも、話を進める。女性の行動に怒りを覚えた程度で交渉を打ち切るほど、ジタは愚かではない。
一方の女性は、はっと息を飲んだ。
相手より優位に立とうとした行動を逆手に取られ、自分たちの立場を晒してしまったのだから、気が気ではないだろう。つまり、追いかけてでも取材したいという弱い立場であることを。
それも、相手は野生動物なのだ。一般常識の尺度では測れない存在ではあるが、そのショックたるや笑い飛ばせるものではない。
「……ええ。でも、わたしの独断では決められないの。しばらく待っててもらえないかしら」
女性は言い残すと、返事を聞かずに仲間の元へと戻っていった。狼の声を待たなかったのは、取引に応じてほしいから待ってたんでしょ、という女なりの小さな反抗だったのだろう。
ジタは苦笑した。
*
「おれは人間を狩ると言ったんだぞ」
人間との約束を取りつけてきたジタに対し、ランドは怒気混じりの声をぶつけた。
「そうなのか? 私には『故郷を守りたい』としか聞こえなかった」
ジタは軽く受け流すと、定位置となったランドの右隣へと移動し、体を横たえる。
「……すまない。草原を守るにはこれしかないのだ。殺せば殺すほど、人間は大勢で押しかけてくる。用いる武器も強力になる。そうなれば、戦いですらなくなってしまう」
一方的な狩りに、と言いかけてジタはそれを飲み込んだ。
無論、狩られるのは自分たちだ。
ランドは、人間が奥地に差しかかる前に戦いを挑むだろう。動物たちが棲息している地へ踏み込ませないために。
となれば、いずれ正面から人間たちと向き合わなければならなくなる。人間には文明の利器があるのだから、地の利を生かせなければ戦いに勝機はない。
「謝るなよ。お前がそう判断したなら、そうなんだろうよ。あまり頭がよくないおれには分からんけど」
「頭が悪いとは言わないのだな」
カッカッ、と豪快に笑ってくれるランドの隣で、ジタは胸が温かくなる感覚に酔っていた。ランドが我を抑えてまで自分のことを信頼してくれているのだ。
群れ《パック》の中にいたときは、こんな感情を抱いたことはなかった。絶対的な上下関係に縛られた狼の集団では、命を賭けて戦うのは当然だった。誰かに感謝された覚えは一度もないし、感謝される理由もなかった。
ジタが属していた群れは、他と比べると格段に争いが多く、最上位の狼が頻繁に入れ替わっていた。同族の中でも小柄なジタは、常に下位の狼だった。
はっきりとは思い出せないが、その地位に不満を持っていたわけではなかった。
だが、群れを離れた。知能が異常なまでに発達してしまったからだ。
穏和な性格のジタは、何事もなく普通の狼として生きていくことが嫌ではなかったし、そのまま暮らしていくつもりでいた。――しかし、仲間と自分の間にある『目に見えない溝』に気づいてしまったのだ。
そのとき、心に修復できないひびが入った。自分の居場所はない、と死すらも覚悟して旅に出たのだった。
そして、旅路の果てに溝《ヽ》のない存在と出会った。同類とも呼べる獅子の存在が、心身ともに疲弊していた狼をどれほど救ってくれたことか。
ジタは込み上げてきた感情のままに、ランドの太い前足を優しくひと噛みする。
「ん、腹が減ったのか? おれの足ってのは、そんなに美味いのかね」
ランドはジタと顔を並べると、興味深げに自分の足を舐めた。
「……どうだろう、獅子の肉は味わったことがない。歩けなくなることだけは分かる」
「そりゃ困る。ジタよぅ、喰いてえならおれが死んでからにしてくれよ」
「飢え死にしそうになっても食べたりしない。絶対に、だ。――さあ、明日は大変だ。そろそろ休もう」
月明かりも届かない巣の中で、ジタは幸せそうに微笑みながらそっと目を閉じた。