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二匹(2)

1‐2.

 

 出会いから二週間が経った。長雨のせいか最近は人間が訪れず、辺りは平穏そのものだった。

 絶え間なく降り続ける雨は、肉食動物――捕食者に味方する。体臭や足音が隠れ、接近を察知されにくくなるのだ。今頃、草原の奥地では盛んに狩りが行われていることだろう。

 そんな中、獅子と狼はねぐらでくつろいでいた。

「意外とマメなのだな。食料を取り置きしておくとは」

 狼は驚異的な回復を見せ、すっかり元気になっている。現に今も、煮魚の缶詰を噛み砕いて中身を啜っている最中だ。

 一方、獅子はというと、

「生きるための知恵ってやつだ。人間から拝借したものだけどよ」

 狼との出会いのおかげか、巧みに『声』を操れるようになっていた。

「この先どうなるのか、私にも分からない。人間になってしまうのかもしれないな」

 獅子は、自分の体にどんな異変が起こっているのか、狼に簡単に教えてもらった。知能が発達したり、人間の言葉を発声できるのは、体が人間に近づいているためらしい。

 原因は人間を食べたこと。と狼は推測していた。

 獅子はそれ以上、説明を聞かなかった。無意味だと思ったからだ。

 自分の体が変異しようがしなかろうが、食べなければ生きていけない。それはすべての生き物に課せられている、ルールとでもいうべきものだ。

「まあ、成るようにしか成らねぇだろ」

あるじは達観しているのだな。私は人間になどなりたくない」

「同感だけどよ……。なんだ、その『主』ってのは?」

「恩を返すまで、傍に置いてもらおうと思ったのだ。絶対の忠誠を誓う、などとは思っていないから安心してほしい」

 狼は前足を屈め、頭を下げるように顎を地面に着けた。獅子は感じ取れなかったが、それは向けられた尊敬の証だ。

「犬に似て、狼も律儀なんだな」

 侮辱と受け取ったのか、狼は不快そうに耳を立てる。

「種族がどうこうではない。私自身のケジメだ。それと……犬は嫌いではないが、私は狼であることに誇りを持っている。一緒にしないでほしい」

 獅子はくつくつと喉を鳴らして笑うと、悪びれた様子もなく謝った。

「お前は名前ってのを持ってるか?」

「ない。ただの狼だ。主にはあるのか」

「おれもねぇんだ。……よし、お前がつけてくれ。それで売った恩はナシでいい」

「名をつけるのは構わないが、恩を返したか返してないかは私が決めることだ。そこには踏み込むな、主よ」

 『主』と呼ばれることが嫌で提案したのだが、狼は意図に気づかなかったようだ。堅苦しい口調で獅子に受け答えをする。

「ああ、ああ。分かったから、さっさと決めてくれよ」

 急かすように尻尾をはしはしと叩きつけてくる獅子を横目に、狼は苦悩の声を漏らす。

「難しいかね……」

 今か今かと待ちわびていた獅子だったが、時間がかかりそうだと見ると、尻尾をくるくると回しながら体を横たえた。

 獅子は楽しかった。ほとんどの時間を独りで生きてきたので、他者と友好的に接した機会は少ない。あるのは、子供の頃に一緒にいた親兄弟と、独り立ちのために共に群れ《プライド》を離れた弟くらいのものだ。

「少しだけ考える時間をくれないだろうか。つい安請け合いしてしまったが、名前を決めるのは一大事だと――ん? この鳴き声は」

 傍目にも分かるほど悩んでいた狼が、不審そうに顔を上げた。

「どんな声だ?」

 疑問を投げ返した獅子だったが、

「お前はそこで待ってろ」

 瞬時に声の正体に当たりをつけ、風のように走り出す。

「どこへ――」

 狼の声が届くよりも早く獅子は姿を消していた。

 

 久々の人間の襲来。獅子にとっては決して見逃せない大事だ。

 雨季に入ったため、人間の行き来は格段に減ってしまう。人間を主食にしている獅子がこの機を逃せば、次またいつ食事にありつけるか分かったものではない。

 獅子は生存能力が弱かった。体が大きすぎて、動物を狩れないほどに足が遅いのだ。

 だから、自分以上に足が遅く、力が弱い人間を主食にした。大抵の人間は、車に乗っていれば襲われないと高を括っているので、そこに付け込むことができた。

 高性能な武器を所持しているために危険は増す。だが、動物を狙い続けて飢えていく恐怖に比べれば、人間がもたらすリスクなど無に等しい。

 獅子は弱かった――が、それは昔の話。今はどうなのだろうか。

 知能の発達した今では、動物を狩ることはさほど難しくないはずだ。それでも、獅子は人間以外を狩ろうとはしなかった。

 草原の生態系を狂わせた人間が憎かったのか、単に人肉が口に合うからなのか、当の獅子ですら、その答えは出せていなかった。考えたことさえなかったのかもしれない。

 どうであれ、人間は敵なのだ。狩る立場だった獅子を、唯一襲ってくる生き物。許せるはずもない。

 獅子が橋に近づくと、案の定、人間が訪れていた。

 出遅れてしまったため、今回は不意打ちをかけるのは難しそうだ。獅子は数百メートル離れた草むらに身を隠し、獲物の動向を静観していた。

 獲物――人間たちは二台の車を橋の前に止めている。一台は何度も見たことがあるジープ、もう一台は大型のワゴン車だ。

 ジープには四人、ワゴン車にも少なく見積もっても三人以上は乗っていそうだ。

 今までにない大所帯であることを覚り、獅子は気を引き締める。

 ジープに乗った男性が妙な機械を抱えて周囲を見回している。どうやら銃火器の類ではないようだ。

 獅子は、わずかながらも銃の性能を理解しているし、人間の知能の高さも侮れないことは重々承知している。だからこそ慎重に、数日をかけてでも獲物を仕留める覚悟をしていた。

 狼が気がかりだったが、人間から奪い取った保存食の隠し場所を教えておいたので、飢え死にすることはないだろうと安心する。ただ、狼が去ってしまわないかと心配ではあったのだが。

 そうこう考えを巡らせていると、侵入者たちが移動を始め――まっすぐ、こちらへ向かってきた。

 獅子は動揺し、体を強張らせる。嫌な予感が脳裏をよぎった。

 ユルゲンド草原は細長い構造になっているので、奥地に進むならこちらへ来るはずがない。獅子の後方には、生き物の侵入を拒むように切り立つ崖があるだけなのだから。

 獅子の直感は的中していた。狙われているのは、自分なのだ。

 狩る者と狩られる者、獅子と人間の関係はどちらが強者になってもおかしくはない。場所がこの草原でなければ、獅子は間違いなく弱者になるであろうことを自覚している。

 隠れている自分を見つけ出した目《ヽ》を脅威と感じ取った獅子は、が悪いと判断して、即座に動く。

 当然、逃げの一手だ。

 人間の足は遅い。そして、車の足は狭い場所に弱い。短所を知っている獅子は、迷わずに背後の群生林を目指して駆け出す。その遥か先には巣があるので、こちら側に逃走したくはなかったが、背に腹は変えられない。

 銃声が聞こえないことを不思議に思いながら、獅子は背の高い木々の間を縫うように奥へと逃げ込んだ。

 ――だが、すぐに引き返す羽目になってしまった。

「あの馬鹿……」

 獅子は人語で愚痴ると、地を滑るように走り出した。

 視線の先には、向けられた銃口に気がついていない一匹のガゼルがいる。まだ体も小さい子供だ。どうやら群れからはぐれてしまったらしい。

 雨季は人間の来訪が減ることを知っているのか、この辺は外敵が少ないので、草食動物がときどきこうして遠出してくるのだ。しかし、これほどまでに無防備な姿を晒すとは正気の沙汰とは思えない。

 鼻くらい利かせとけばいいものを。と獅子はガゼルの子供に明確な怒りを覚えながらも、助け出そうと躍起になっている。

 体が勝手に動いている今の状態では考えも及ばないだろうが、その行動は常軌を逸していた。

 野生の動物が、他者を――それも群れの一員ですらない者を救おうというのだ。

 肉食動物と草食動物。強者と弱者。

 一般的な獅子にとっては、命を繋ぐための糧でしかないはずの存在。

 獅子の中にある精神は、弱肉強食などではない。強きを挫き弱きを助く、人間しか持ち得ないはずの精神だった。

 いつからだろうか、獅子が――

 草食動物を襲わなくなったのは。

 縄張り争いをしなくなったのは。

 群れ《プライド》を持つことに執着しなくなったのは。

 橋から訪れる外敵を処分するようになったのは。

 ――それらはすべて、この草原のため。生まれ育った大地を守るため。

 獅子は気づいているのだろうか。体だけではなく、心までも変わり始めていることを。

「ライオンだ! でかいライオンが来てるぞ!」

 ガゼルを狙っている男に危険が迫っていることを伝えようと、ワゴン車の運転手がけたたましくクラクションを鳴らす。

 安全な車上にいるかぎりは過剰な反応はしないものだが、この一団は違うようだ。

 クラクションの音は谷間から吹き上げる風に乗って、辺りに人間の侵入を報せる。大気が淀んでいるため範囲は広くないものの、異変に敏感な動物たちは警戒心を強めるだろう。

「どこだ!」

 ジープに乗っている四人は、逃げ出していくガゼルから注意をそらし、緊張を高めつつ周囲を見回す。

 しかし、四人が見たのは、一目散に退却していく獅子の尻だけだった。

「なんなんだ、アイツは……」

 銃を下ろした男のつぶやきは、強まった雨の音に掻き消された。

 

 

「この地も人間に荒らされたのか。だから、動物の姿が見られないのだな」

 巣へ戻る道中、狼がぽつりと漏らした。獅子のことが気になって迎えにきた狼は、さきほどの一部始終を目撃していたのだ。

「ああ、この辺りにいるのはおれたちくらいのもんだ。たまに、さっきみたいなどうしようもなく大馬鹿な奴もいるけどよ」

 自らが救ったガゼルを貶す獅子の横で、狼は大きな声で笑い始める。

「どうかしたのか?」

 獅子が尋ねると、

「主はなぜ……いや、なんでもないのだ」

 狼は鼻をひくひくと不自然に動かしつつ、曖昧にしたまま話を打ち切った。

 林の中をしばらく進んでいくと、少し開けた水飲み場へと出た。雨季のためか泉の清水は濁ってしまっていたが、気にする二匹ではない。まるで溺れているかのようにガプガプと水分を補給する。

 獅子と狼が並んで水を飲むなんておかしな光景だ。獅子がそんな他愛もないことを考えていると、

「主よ、名前を考えついた」

 狼が丁寧な声調で切り出した。

「どんなのだ?」

 心を躍らせている獅子を落ち着かせるように、狼は泉に口をつける。

 耳をアンテナのように動かしながら待ちわびていた獅子だったが、狼がもったいぶるので、ついつい――

「早く教えろよ」

 前足で狼を蹴飛ばした。否応なしに高まっていく期待感が気持ちをはやらせてしまったのだ。

 いかに野生の勘を持つ狼といえど、そんな突飛な行動に対応できるはずもなく、派手な水音を立てて泉の中へ落ちた。

「っぷ、なにをするのだ!」

「お前があんまりらすもんだからよぅ」

 狼は嘆息すると、浅い水底に四肢を張って立ち上がった。

 毛が全身にべったりと貼りついたため、ただでさえ小柄だった狼がさらに一回り縮んでいる。痩せた体のラインが際立ち、水を大量に含んだ毛は灰色から黒色に変わり、まるで別の生き物になったかのようだ。

「名前についての考え方に大きな違いがあるのだな。気張っていた私が馬鹿だった。主の名は、アース」

 ずぶ濡れの狼は大地に上がると、体を震わせて水を払う。

「――にしようと思っていたのだ。さきほどガゼルを守った姿が、大地の化身のように見えたのでな。だが、変えることにしよう。名は、ランド。名を告げるも楽しめない主には、アースという名は大きすぎる」

 皮肉が混じっているが、獅子はまったく気にかける様子はない。自分に名前がついたことが、ただただ嬉しかった。

「ランド、か」

 噛み締めるように名を口にする。

「そうだ、お前にも考えてやらねぇとな」

「私に? ただの狼でも構わないのだが」

「いいや、名前をつける。つけたくなった。そう決めた」

 狼はランドの一方的な物言いに苦笑しつつも、うずうずと前足を動かしている。泉に落ちて綺麗になった足は、すぐに泥にまみれていった。

「お前はジタだ」

 大して考え込みもせず、ランドは名前を決めた。

「ジタ……。ジタ……」

 狼は余韻に浸るように名前を繰り返す。

「体が治った頃、遠吠えを上げたことがあっただろ。あれが妙に頭に残っててよ。声だけなのに、まるで踊ってるみてぇだった」

「踊り……そうか、ジターバグ《ジルバ》からジタか。しかし、これでは私が小うるさい狼のようではないか。せめて、もっと他のダンスの名とか……」

「ジターバグしか知らねぇんだ」

 ぶつぶつと小声で文句を垂れるジタだったが、その声からは喜びが伝わってくる。

 ランドはくつくつと笑い、「いい名前だろ」と言い切った。

「わ、悪くはない」

 こうして二匹の命名式は幕を閉じた。

 

 

「いくらなんでも相手が悪すぎる。あれは密猟者ではない。調査機関の人間だ。大方、草原の生態を調べにきたのだろう」

 林の中を疾走しながら人間を追っていると、ジタが確信めいたように告げた。

「っていうと、あれか? アイツらは動物を殺さないのか?」

「おそらくは。武器も麻酔銃かなにかだろう。ああいう手合いの人間は襲わないほうがいい。敵ではない。それと……推測なのだが、あれはこの国の人間だと思う。明らかに襲われることを警戒していた。草原から帰らぬ人間が多いと知っているのだろう」

「けどよぅ、これを見逃すと喰いっぱぐれるぞ」

 人間たちを睨みつつ舌を舐めずるランドを見て、ジタは苦笑した。

 腹を空かせてしまう原因を知っているからだ。なにせ、少し遠出をして、草食動物を狩れば済む話なのだから。

「ランドは、この草原を守りたいのだろう?」

「なんの冗談だ」

 やれやれ、とジタは目を細める。

「やはり自分では気づいていないのだな。なぜガゼルの子を助けに行ったのかを思い出してみるといい」

「そりゃ、あれだ……」

 虚を突くような問いに、ランドは黙り込んでしまう。

 ――なんでだ?

 銃撃で死ぬ可能性もあった。にもかかわらず、ガゼルを救うために行動した。

 答えを用意できなかったものの、頭の片隅では納得している自分がいる。それとともに、標的への敵意は薄らいでいった。

 ランドが唐突に立ち止まったので、勢い余って追い越してしまったジタは、優しげな笑みを浮かべながら大木を回り込む。地上に張り出した木の根を跳び越え、そのままランドの正面まで来ると、改まったように真摯な態度で身を伏せた。

 狼は味方とは目を合わせない。それは相手を敬い、大切に思っているからこそ。

「今一度、問おう。この草原を――故郷を守りたいのだろう?」

 ジタによって曇らされたランドの胸の内は、これまたジタの一言で綺麗に晴れた。

「そうか。おれは守りたいのか」

 ランドは思い出す。なぜ、人間を襲うようになったのか。

 最初はただ腹が減っていただけという理由だった。だが、その後は違う。

 明確な意思を持って、人間のみを狙っていたのだ。往来を監視できる場所にきょを構えてまで。

 あのときからだ。群れ《プライド》を持つことに意味を見出せなくなった日。草食動物を狩ってまで生き延びようとは思わなくなった日。

 すべては、なんの前触れもなく目覚めた知能のせい。

「違うのか?」

 答えなくても分かっているが、と言いたそうな顔つきでジタは問う。

「違わねぇな」

 わざわざ口に出させるな、と言いたそうな態度でランドは答える。

 二匹は迷いなく踵を返し、軽い足取りで巣へと戻っていった。

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